ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

荒らしの決めつけ

 
  荒らしの決めつけ
 
 アドラー教について(16)
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5454171.html#comments
 コメント欄:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
性懲りもなく、また、コメントを書いてくる名無しの荒らしシャロームです。
今回は、デマ宣伝を交えて、荒らしてきました。崖っぷち感があります。
 

8. st5402さん こんにちは 吾輩の名は名無しの猫です。
 2020年02月12日 15:55

キリスト者を相手に出来ると思っている反キリスト、シャロームからのコメントに対しては、今までのシャロームの記事とコメントが、既に、私の批判記事として、みじめな背教者の資料となっているので、これからも、上を、たびたび、引用することになるでしょう。」
 」
st5402さんの8年にわたる妄想的外れ決めつけ批判コメント満載です。

「私は、ほぼ同じブログを、4つのサーバーで書いています。」
 」
とのことです。どうぞ読んであげてください。
でもコメントはお勧めできません。
だれ一人として支持者のコメントはなく、たまたま支持しておられた自由(楽山)さんも支持されなくなり、今や激しい誹謗、中傷の的とされています。反対に多くの人から荒らしと指摘され、批判されましたが、今は皆さん誰も相手にしなくなってしまいました。
今やいまだ名無しの猫一匹のみとなっています。
st5402さんのブログの読者の皆さんよろしくお願いいたします。
いまだ名無しの猫より

 
名前を書け、卑怯者。
 
シャロームは、あざ笑うかのように、根拠も真実もない露骨な悪口をしてきました。悪意の揶揄です。なりふりかまわなくなりました。冷静に書くことができない焦燥感でもあるのでしょうか。
 
>st5402さんの8年にわたる妄想的外れ決めつけ批判コメント満載です<
 
シャロームは、決めつけだけで根拠を示すことができません。
 
何を言われても、ここも、根拠を一切示すことの出来ないシャロームです。ずっとそうです。理解力がないのです。感受性もないのです。常識も良識も良心もないのです。
 
これが、恐らく何十年もカルト妄想を語っては人を騙し、偽キリスト教を垂れ流してきた反キリストのシャロームであり、自分だけで満悦してしまうシャロームの正体です。
 
私は、約9年間、根拠を示し続けています。妄想、的外れ、批判にならない悪口、これらは、シャロームの、一貫して変わることのない特徴的な悪意であります。
 
>どうぞ読んであげてください<
 
分かると思いますが、好意ではなく、悪意からの皮肉です。
 
>だれ一人として支持者のコメントはなく
 
私は、シャロームのようなカルトと違って、支持者を集めるために批判しているのではありません。キリスト者として、出来ることをしているだけです。
 
だから、シャロームが、仲間が少ない~いない・・みたいなことを書いて侮辱してくるのは、数に依存しているシャロームの、みっともなさ、としてしか受け取っていません。恐らく、シャロームの仲間は、当てにならないと知ったら、蜘蛛の子を散らすように、霧散してゆくでしょう。
 
私は、だまして集めようとする、そして、うわべだけのお仲間がいることを自慢するシャロームとは違います。
 
私は、宗教を、詐欺のネタにしているシャロームが許せないのです。
 
宗教だから、簡単だろう、クリスチャンは、文句を言わないから、だましやすいだろう、と思っていないとできない低劣な嘘と妄想の態度と姿勢の、目の付け所が許せないのです。シャロームは、宗教を舐めたやつ、ゆえに、宗教と信仰を悪意で偽ることの、辛さと苦みを味わってもらうしかないのです。
 
>たまたま支持しておられた自由(楽山)さんも支持されなくなり<
 
楽山は、シャローム同様、世辞を言ったことはあるかもしれませんが、私を支持してなどいません。あなたシャロームと同様、楽山が支持しているのは、楽山自身だけです。
 
>今や激しい誹謗、中傷の的とされています<
 
誹謗・中傷ではなく、どこまでも妥協しない辛辣な批判を、楽山に向けています。
 
>反対に多くの人から荒らしと指摘され、批判されましたが<
 
誰のことでしょう。荒らしと言い張り、批判ではなく悪口をいっぱい書いたのは、シャロームのお仲間とお味方に他なりません。
 
このように、数に頼んで誹謗・中傷をしてくるのが、嫌らしいシャロームのやり方です。カルトだからでしょう。
 
>今は皆さん誰も相手にしなくなってしまいました<
 
反論も弁明も出来ない、ということを、シャロームが明かしています。相手に出来ないものだから、嘘と悪口を広めようとしているのです。シャロームは、そういうことしかできないのです。
 
ならば、なぜ、今ここに、シャロームは書いてくるのでしょう。相手にしなくなった相手である私を相手に誹謗中傷の止まないシャロームの、ねじけた立場を、シャローム自身が暴露しています。
 
>今やいまだ名無しの猫一匹のみとなっています<
 
反論でも弁明でもなく、言いがかり、嫌がらせ、当てつけ、皮肉、など、悪意に基づいて、手段を選ばず、嘘と妄想と、汚い悪口だけを、シャロームは、手段としています。
 
シャロームに対して、私は、受ける立場ではありません。シャロームは、私の言ったことを、何一つ受け取っておらず、シャロームの言が、あまりにも、無根拠の決めつけだけだからです。
 
シャロームこそが、言われたから悪口を書く、ということしかできない男です。原始反応と呼んでいます。ゆえに、ヒト型動物とも呼んでいます。悪と見なされることが、シャロームには快感なのでしょうか。また、書いていますが、昔のようなゴマカシは、もはや通用しません。
 
シャロームは、背教者、というより、反キリストの悪魔性です。罪悪感も羞恥心もない荒らしの体質を、これからも出してくるでしょう。人間の節操と高等感情を一切持たない人間離れの神がかりシャローム、全否定するしかないシャローム。決して関わってはいけません。
 
ゆえに、また、書いておきます。シャロームの背教。
 

 
《シャロームの背教》
これからも、しばしば載せることになるでしょう。
 
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、訂正していない。
悔い改めは必要かと問われて、悔い改めは必要だが、それは、神が与えると言って、その後も、二度三度と同じことを言って、訂正していない。
 
キリスト信仰とは、真逆であります。
 
悔い改めというのは、やり取りできるようなものでしょうか、否であります。悔い改めは、主語となる本人以外にはできない、というより、本人以外はしないことなのです。与えたりもらったりできるものではありません。シャロームは、それさえ理解せずに、神が与える、神が与える、と言い続けています。
 
さらに、シャロームの言には自己矛盾があります。悔い改めていないということは、神は悔い改めを与えていないことになり、キリスト者になっていないということなのです。
 
悔い改めは、自発的でなければ意味がありません。
悔い改めは、神のほうを向いて、正直に罪を告白し祈ることです。
 
ここにおいて、シャロームの信仰が偽物であることは既に証明されています。
 
 」
 
 
アクセス多めのアメブロでは、昨日、46の「いいね」をいただきました。
他のアメーバブログでは3桁4桁もありますから、とうてい及びませんが、
励みにしたいと思います。感謝いたします。拝。
 
 
(2020年02月13日)
 
 
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獣道流離

 
  獣道流離
 
 アドラー教について(16)
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 についたコメント
 恐らく今まで書いてきたシャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームの発言には、何か書くたびに、その非人間性と背教が表れてきます。
 
もはや、その宿命のような獣道(ケモノミチ)を、シャロームは、地上の生命の尽きる日まで、さまよい流離(さすら)い過ごす定めなのでしょう。誰も近づかないでください。
 

1. いまだ名無しの猫
 2020年02月11日 14:53
st5402さん 昨日も今日もまた明日もいつまでもお変わりないようですね。
2020年も早2月11日。
はやいですね!
2020-1954=66ですから66才になられますね!
今年も悔いのない、有意義な毎日を過ごしておられるようですね!
おめでとうございます!
アドラー心理学サロンの記事は誰かの思想に酷似しているとか!
そんな人にぜひお会いしたいですね!
きっと良い学びができること間違いなしですね!
私も学びたいですね!
2月!ふと懐かしく思い出しておたずねしました!
吾輩は名無しの猫より

 
先ず、名前を書け、卑怯者。
 
名無し、猫、猫かぶりの、かぶりをとった、卑怯者。
 
復習として記事から引用しておきます。
 
いつも上から「教えてあげる態度」
「批判を始めた頃、シャロームは、私がシャロームに人格依存しているからだ、と言いました。かまってもらえないから批判をするのだと言うのですが、シャロームには、そのような魅力は皆無」
「平気で嘘を吐き、低劣な言いがかりと言い逃れしか返せない」
「他者を無視することが、自己と自我中心となり、いつもヘラヘラ笑って満悦しているような、この世で最も醜いダメ人間」
「ブログ主の言うことは、シャロームと同じように、自己中促進にしかならないでしょう」
「シャロームが言っていた"日本教"というものでしょう。それで、シャロームは、すっかり"自分教"になってしまいました。訂正不能の自分教は、明らかに、シャロームの思考と情緒を狂わせて、学習機能を捨てたために、考えることも、感じることも、学習することも、成長することも、全くできないところの、破壊した人格像を呈していました」
 
そして、今まで書いてきたことを合わせて、「シャロームは、人間のクズです。」
 

アドラー心理学サロンの記事は誰かの思想に酷似しているとか!
そんな人にぜひお会いしたいですね!
きっと良い学びができること間違いなしですね!
私も学びたいですね!

 
やはり、アドラー教の支持者であることを、自らバラしているシャロームです。
 
アドラー教はカルトだと思うから批判しています。シャロームは、キリスト者そして元牧師を自称していましたが、キリスト信仰とアドラー教は両立しません。つまり、シャロームは、キリスト者ではないことを、ここでも、自ら、バラしているのです。
 
人間の節操としての理路が壊れて分からなくなっているから、こういう発言になるわけです。シャロームは、どんどん崩れて、自分の墓穴を掘っています。
 
>2月!ふと懐かしく思い出しておたずねしました!
 
白々しい。アドラー教のブログ主に似ていると言われて、シャロームは自分が批判されているのといっしょだと思って、とりあえず、書いてきたのでしょう。人間の知性も情緒も失ったままで。
 
 
次は、少し細かい話になりますが・・筆致と必然について。
 
私は、約9年間、シャロームを、根拠を積み上げて、批判してきました。
 
しかし、シャロームは、いつも、和みの挨拶とともに、同じことを書いてくるだけです。まず、これが異常なのです。
 
シャロームが、こちらの批判を受け取っているなら、先ず、書くことは、" どうしてですか、何故ですか " と、さらなる説明を求めることであるはずです。しかし、そこも、既に、根拠は書いているので、理解を深めるためにシャロームが考えることでしかありません。
 
であるのに、シャロームは、批判されても、いつも変わらず、白々しく、世辞の挨拶を平気で書いてきます。既に、ここで、人間として不自然な反応をしているということです。何度も言ったのですが、シャロームは、今も、世辞が通用すると思っているのです。
 
それで、シャロームには、真摯さがなく、罪悪感がなく、反省がなく、理路も感性もなく、あざ笑いながら人の言うことを無視して、同じ獣道を堂々巡りするだけのヒト型動物であることが、シャロームが書いてくるたびに明らかになっているのです。
 
シャロームは、現時点で、偽善者と反キリストの、最悪な実例としての資料でしかありません。もはや、和みの挨拶も世辞も、何の意味もないのです。
 
また、以下に書いている証拠によって、シャロームが、いかに聖書を引用してゴタクを並べても、それも、偽善者の言い逃れに過ぎないということです。既に根拠をもって、明らかになっているのです。シャロームだけが、それを理解していないのです。まるで、亡霊のように。
 
このようになってしまったら、おしまい、ということも前から書いています。
 
 
あなたシャロームの言が、何の意味もない繰り言であり、反キリストの発言である証拠を、また、書いておきます。
 

 
《シャロームの背教》
これからも、しばしば載せることになるでしょう。
 
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、訂正していない。
悔い改めは必要かと問われて、悔い改めは必要だが、それは、神が与えると言って、その後も、二度三度と同じことを言って、訂正していない。
 
悔い改めというのは、やり取りできるようなものでしょうか、否であります。悔い改めは、主語となる本人以外にはできない、というより、本人以外はしないことなのです。与えたりもらったりできるものではありません。シャロームは、それさえ理解せずに、神が与える、神が与える、と言い続けています。
 
さらに、シャロームの言には自己矛盾があります。悔い改めていないということは、神は悔い改めを与えていないことになり、キリスト者になっていないということなのです。
 
悔い改めは、自発的でなければ意味がありません。
悔い改めは、神のほうを向いて、正直に罪を告白し祈ることです。
 
ここにおいて、シャロームの信仰が偽物であることは既に証明されています。
 
 」
 
 
私は、ほぼ同じブログを、4つのサーバーで書いています。いちばんアクセスの多いのがアメブロです。次が、はてなブログです。ライブドアとFC2には、終了したヤフーブログの過去記事も全部インポートしています。
 
この閑散としている2つのうち、ライブドアブログのほうに、嫌がらせの荒らしコメントを、シャロームは、憂さ晴らしのように、いっぱい書いてきているという現状です。
 
まだ、キリスト者を相手に出来ると思っている反キリスト、シャロームからのコメントに対しては、今までのシャロームの記事とコメントが、既に、私の批判記事として、みじめな背教者の資料となっているので、これからも、上を、たびたび、引用することになるでしょう。
 
 
(2020年02月12日)
 
 
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アドラー教について(16)

 
  アドラー教について(16)
 
  2018-10-12  
 大人になるってこういうこと⁉︎
https://www.adlersalon.com/entry/2018/09/12/%E3%80%8C%E6%89%BF%E8%AA%8D%E6%AC%B2%E6%B1%82%E3%81%AE%E5%90%A6%E5%AE%9A%E3%80%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%A7%A3
 アドラー心理学サロンです。
 
 
ブログ主は、私が長らく批判してきたシャロームshalomに、思想が酷似しています。そう言えば、シャロームは、私がアドラー教を批判することを、気に入らない様子でした。
 

私たちは幼い頃から、大人になることを期待されて育ちます。
そして、20歳になってからは1人の自立した大人であるとして扱われます。
しかし、残念ながらほとんどの人たちは十分に精神的に自立した本当の意味での大人とは程遠いのではないでしょうか?

 
教えてあげる態度、丸出しです。シャロームshalomという偽善者がいましたが、筆致が似ています。
 

これはいくつ歳を重ねても同じことです。
大人であることと、歳をとっていることは相関関係はあっても因果関係はないのでしょう。

 
言葉上、似て非なること、因果関係、というより、同じじゃないよ、と言いたいのでしょう。確かに、シャロームという人は、大人の、知性の理路と、情緒面の共感を、ともに欠いた人でした。
 

本記事では、大人とは何か?、大人を大人足らしめる3つの要件についてアドラー心理学の考え方を混じえお伝えしたいと思います。
目次
目次 •大人とは
•大人になる3つの要件
•承認欲求を否定し、自分の価値を自分で決める。
•自分と他者の課題を分離し、自分で自分の行うべきことを決める。
•世界の中心になるのではなく、主役になる。

 
やはり、課題の分離を言いたいようです。
 

大人とは
結論から言うと、アドラー心理学では、大人とは他者からの承認欲求を持たずに他人への過度な期待、依存をせず、他者との課題を分離して自分の行いを自分で決めることができ、自己中心性を排除した状態のことを表します。

 
要するに、依存しないことですが、自己中心性を排除した状態と、本気で思っているのでしょうか。それとは、真逆に受け取られかねないことブログ主は言ってきたのです。
 
ますます、シャロームのことを思い出します。批判を始めた頃、シャロームは、私がシャロームに人格依存しているからだ、と言いました。かまってもらえないから批判をするのだと言うのですが、シャロームには、そのような魅力は皆無でした。
 
シャロームに依存する・・って、シャロームは、いったい、何様のつもりだ、と思ったものです。平気で嘘を吐き、低劣な言いがかりと言い逃れしか返せない人でした。
 

大人になる3つの要件
アドラー心理学の考え方として、大人としての3つの要件をご説明致します。
承認欲求を否定し、自分の価値を自分で決める。

 
当たり前みたいに言ってますが、自分の価値を自分で決めていいのでしょうか。自分に、低い価値を当てはめられること、高い価値を当てはめること、どちらも望ましいとは思えません。これは、嘘ですね。
 
実際には、自分の価値を考えるときに、客観的に考えるように努めるものです。その客観は、他でもない、他者とのかかわりで、他者を参考にして、内省のうちに、生まれるものでしょう。
 

あなたが、他人のために良かれと思ってしたことが、相手にとってはありがたくないことかもしれません。
そんな時に、「あなたの為を思ってやってあげたのに」や「何でそんな態度を取るんだ」と相手に自分の考えを押し付けるようなことをしては自立できているとは言えません。
自分自身、または自分の行いの価値は、自分自身で決められるようになる必要があります。

 
違います。他者の基準ではいけないということです。他者を無視することではないです。
 
変な宣伝や説教に乗って、勘違いしないでください。自分の行いの価値を決められるのは、他者のあり方を尊重するからです。自分だけでは、妄想が膨らむだけです。まさに、シャロームが、そうでした。
 

自分がしたことや、自分の存在価値を他人からの評価に基づいて決めてしまうことは、他人に依存しており、常に他人から褒めてもらう、認めてもらうことを目的に行動してしまい、結果自分のものでない他人の人生を生きることになりかねません。

 
他者からの評価に基づくのではなく、必ず他者の評価を、それが高くても低くても、参考にすることです。ますます、私が9年間批判してきた偽善者シャロームの言に似てきました。
 
他者を参考にすることは、他人の人生を生きることにはなりません。むしろ、他者を無視することが、自己と自我中心となり、いつもヘラヘラ笑って満悦しているような、この世で最も醜いダメ人間を作るのです。
 

自分の期待した評価をしてもらえず、「こんなに頑張ってるのに!」と腹を立てる人は周囲へ攻撃の矛先を向けてしまい、関係を悪くしてしまいます。
自分と他者の課題を分離し、自分で自分の行うべきことを決める。

 
分かるでしょうか、他者の評価を気にするなと言っているブログ主が、今度は、他者との関係を悪くすることを戒めています。理路が、行き詰まり、すでに破たんしているのです。
 

他人が自分のやろうとしていることを、やって良しとするのかは他人の課題であり、自分のやろうとしていることを、やって良しとするのかどうかはあなたが決める課題です。
自分の行いを、「みんなが」、「親が」、「先生が」良いと言ってたからやるというのでは自立できているとはとても言えません。

 
まだ言っています。他者に気に入られるためにするのではなく、他者の行いから、自分は学習してゆくのです。ブログ主の言うことは、シャロームと同じように、自己中促進にしかならないでしょう。
 

特に日本では、集団帰属意識が強く、集団に何でも根拠を求めがちです。
しかしそれは、「あの人がこう言っていたから」という言い訳にもつながり、責任回避的な行動にもなります。
あなたはあなたの課題があり、自分で何をするのか、どう生きるのかを決めることができ、決めるべきなのです。
自分で何をするべきか決められないということは、他人の人生を生きていることになり、自立した大人とは言えません。

 
これこそ、シャロームが言っていた"日本教"というものでしょう。それで、シャロームは、すっかり"自分教"になってしまいました。訂正不能の自分教は、明らかに、シャロームの思考と情緒を狂わせて、学習機能を捨てたために、考えることも、感じることも、学習することも、成長することも、全くできないところの、破壊した人格像を呈していました。
 

世界の中心になるのではなく、主役になる。
人はしばしば、自分はこの世界の中心であるという錯覚を抱きます。
あなたはこの世界の一部ではありますが、中心にはおりません。
あなたはあなたの世界つまりは人生の主役ではありますが、中心では無いのです。
他人はあなたの期待、欲求を満たす為に生きているわけではなく、自分のために生きております。
それから、あなた自身も、他人の為ではなくあなた自身の為に生きております。

 
中心ではないが、主役になる?・・それを言うなら、自分の人生の主役ということです。・・そう言っているではないですか。世界を持ってくるのは大袈裟です。中心ではなく人生の主役と言っているわけです。世界を持ち出す必要がどこにあるのでしょう。豪語が好きな人は、思考が誇大化しやすいという典型です。
 

人は、お互いに期待と要求を投げかけて、自分か相手のどちらかを満たす生き物ではありません。
自分も相手も、中心では無いと認識しましょう。

 
中心ではないが参考にする、というのと同様に、要求ではないが期待はする、というのが、他者へ向ける、健全な態度なのです。カルトは、詭弁、刷り込み、印象操作など、共通することが多いのか、似てくるようですが、シャロームによく似たブログ主は、まさに、自己中であり、自分を中心において、他者を見ているだけのようです。
 
 
 018-09-12  
 「承認欲求の否定」へのよくある誤解
https://www.adlersalon.com/entry/2018/09/12/%E3%80%8C%E6%89%BF%E8%AA%8D%E6%AC%B2%E6%B1%82%E3%81%AE%E5%90%A6%E5%AE%9A%E3%80%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%A7%A3
アドラー心理学サロンです。
 
 

アドラー心理学は、「課題の分離」や「承認欲求の否定」といった特徴を持っており、自分と他者を明確に区別する考え方を持っています。

 
明確ではないと思います。"課題の分離"については、なんにでも通用する明確さを、ブログ主は、表現できていません。
 

また、別名「個人の心理学」や「勇気の心理学」とも呼ばれる個人主義的な特徴のある心理学であり、集団主義的で「自分はみんなの中の一つ」といった考えをする傾向のある日本社会では特に斬新であると言えます。

 
個人主義は、個人主義で、一長一短があることは周知であります。アドラー教は、何も解決してはいないことを、私は書いてきたつもりです。間違って、シャロームのようになったら、人間は、おしまいだとも書いてきたのですから。
 

そこで、今回は「承認欲求の否定」という定義について考察していきましょう。
他者との「課題の分離」を理解するよりも、複雑で骨が折れるかもしれませんが、出来るだけ詳しく記載しました。
それでは、ご相談事例を見てみましょう。
>>
【ご相談】
「承認欲求を持つ必要が無いということは、仕事を依頼されても自己満足で完結させて問題ないということになりませんか?また、自分が良いと思うことを他人に押し付けることにもなると思います。」
<<
【考察】
アドラー心理学では、他者への貢献が幸福への道であるとして「他者への貢献」をすること、また「自己満足の貢献感を得ること」を提唱しております。
つまり、他者を幸せにする活動を自分ができる範囲、つまり自己犠牲をしない範囲で他者に貢献するという解釈になります。

 
「他者への貢献」をすると言いながら、どう貢献するかについて、課題を分離してしまえば、「自己満足の貢献感」にしかならず、それを提唱すると言っています。つまり自己満足なのです。
 
貢献が正しいかどうか、それによって、他者の幸いに寄与したかどうか、ということを無視するように勧めているのです。つまり、自己中なのです。それ以上への発展の可能性を閉じているのです。
 
自分で決めつけた善を施すだけで、他者を参考にしないなら、それは、親切の押し売り、というものになります。
 

また、特定の誰かからの評価や期待に応えようとする必要はなく、より大きな共同体である世の中全体への貢献をするべきとしています。
つまり、上司や先輩など特定の人達だけに貢献するのではなく、世の中への貢献という解釈となります。

 
大きな共同体へ、また、世の中へ、自己流に、自己中に、貢献したと思い込むことにしかならないでしょう。特定の他者ではなく、より大きなものへ目を向けることによって、より大きなものへ貢献した自己満足に酔い痴れよ、と言っているようなものです。
 
つまり、特定の他者という明確さを避けて、世の中に貢献したつもりになることで、"夢を見て、現実を検証せずに、貢献を確かめるのではなく、貢献感を得て"、自己満足せよと勧めているのです。規模が大きければ大きいほど、焦点がぼけて、漠然としてくることを利用して、自己満足せよと言っているのと同じです。
 

特定の誰かからの承認を求めてしまっては、その人の期待する人生を送らなくてはならなくなります。
こうして、他者を幸福にする貢献を心掛けていれば、自己満足で仕事を完結させたり、良いと思うことの押し付けになることはありません。
アドラー心理学では、他者に迷惑をかけても良いという考えを推奨してはおりません。

 
他者を幸福にする貢献と言っていますが、上のことから、漠然とした世の中への貢献感を得て、それこそ、上のほうで、「自己満足の貢献感を得ること」と言って、自己満足を認めたのは、ブログ主なのです。自己矛盾も甚だしい。
 

アドラー心理学を真に理解し、アドラー心理学を取り入れ人生を変えて行くには「これまで生きてきた年数の半分」程度の期間が必要であるとされてます。
アドラー心理学の考え方を少しずつ取り入れて、少しずつ改善するという姿勢を取った方が良いと考えられます。

 
「これまで生きてきた年数の半分」を費やして、それを、詭弁と嫌悪で出来ているようなアドラー教につぎ込んで、シャロームやブログ主のようになってしまうのは、地獄であります。
 

私でも完璧に「課題を分離」ができているかと言うと微妙です。
しかしながら、アドラー心理学で人生を見つめ直し、幸福を手にした人達は沢山いらっしゃいますし、私自身もアドラー心理学に大変救われました。

 
シャロームは、自分の課題を持ちませんでした。自己中に、自分は完成しているつもりだけだからです。シャロームは、救われ気分で、何度も神に白々しい感謝と讃美を書いていました。実際は、平気で嘘を吐き、誇大妄想的なことを言い、批判に対しては嫌がらせを書いてくるだけで、しまいに"名無し"などと匿名の荒らしを名乗りだしました。シャロームは、人間のクズです。
 

1人でも多くの方が、この「課題の分離」の定義を見直して、柔軟に自分自身の考え方に導入していけたなら望外の喜びです。

 
一人でも多くの人が、この「課題の分離」などに惑わされず、柔軟に自分自身の考え方で、学習し成長しながら、他者に依存しないが、他者を尊重して、生きてくださることを願って止みません。
祈っています。拝。
 
 
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執拗な引用とペテン

 
  執拗な引用とペテン
 
  2020年02月08日
 「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」ドーキンス
 http://mn266z.blog.jp/archives/23439198.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、またしても、無神論の学者らしいドーキンスの本から引用して、ゴタクを並べてきました。既に、私は、楽山の、見当違いの宗教・信仰理解を、批判してきましたが、楽山は、何の反論も弁明も出来ないにもかかわらず、また、書いてくるのです。
 
楽山は、まだ、HSや、アドラー教から自由になっておらず、また、およそ、実質のない自らの心霊理解にも、囚われたままであることが明らかになってきたという経過です。もしかしたら、楽山は、カルトを捨てたのではなく、カルトに捨てられたか、あるいは、新たなカルトに向かっているのかもしれません。
 

「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」は、著者のエッセイ集『悪魔に仕える牧師』に収録されている文章であるが、十歳の娘への手紙という体裁で書かれているので分かり易くてよい。
内容は大雑把に言えば、観察し、証拠があるものについては信じてよいが、伝統(伝説)、権威、啓示(お告げ)には注意が必要だというものである。

 
私は、超常を根拠にする言い分については、決めつけや妄想である可能性があり、注意したほうがよいと言ってきました。
 
例えば、シャロームshalomの聖霊体験や神の啓示については、全くの大嘘であることが、その文章の滅裂と無法と無根拠が表す非人間性から、反信仰の産物であり教義も信仰も全くの嘘っぱちであることと併せて、明らかになって、自分権威の成り上がりのカルト妄想だと判断しています。
 
また、楽山が、霊が分かるっぽい高慢からの極めて幼稚な短絡の思い込みや、シャロームに無条件の味方をしたこと、また、楽山の、とても卑怯で嫌らしい騙しの印象操作や詭弁や柔和芝居や婉曲表現のボンヤリ言語と併せて、信用度ゼロのカルトであると判断しています。
 
ここでも、楽山は、間違いを全く自覚していません。観察して証拠があるから信じるのは、事実などの実証が必要なことについての話であって、信仰はそのようなものではありません。
 
信仰は、癒しや慰めそして共感など、情緒的な体験を通して思慮を起こして信じるのであり、キリスト信仰は、決して論理的実証的証明など出来ないものとして、ダイレクトに生きている人間に問うてくるのです。決定するのは、生きるのに必要かどうかだけです。
 
信仰は、伝統、権威、シャロームが言う啓示?など、信仰外のものに、支配されてはいけませんが、同時に、一方では、楽山のように、理解があるかのように見せかけて、ボンヤリやんわり否定してくる者の言などに左右されてはいけないものです。
 
ここまで、的外れなことを執拗に書いてくる楽山は、とても気持ちの悪い反信仰、そして、反キリストと判断せざるを得ません。何か信仰とは全く別のものに囚われているのでしょう。
 

伝統宗教といっても、親から子へ、子から孫へと幾世代にもわたって伝えられてきたというだけで、それが真実だという証拠はなく、証拠がないなら何十年、何百年とどんなに長く伝えられてきたとしても嘘が真実になるというわけもない、

 
このように、楽山の言も、この地上で信じると、社会にも個人にも悪い予測しか生まれない誘導として、人間にとっては百害あって一利なきもの、人を惑わし、そそのかすものとして否定されるべき邪教であり、楽山個人の我欲への執着がもたらしたものと言わざるを得ません。
 

権威があるからといってその者が絶対に間違わないというわけでもない、一つのことを考えに考え、祈りに祈り、やがてそれが真実だというお告げを得たと確信したとしても、それが真実だという証拠がないなら信じるには足らないなどとしていて、なかなかに辛辣である。

 
むしろ、楽山が、しつこく書いてくるのは、何らかの人にまさる権威か名声を欲しがっているのでしょう。そういう自己顕示欲を支えているのは、霊が分かるっぽい自身への我執に他ならないと思います。ナルシシストなのです。
 

また宗教が信じられてきた理由についてはこのような主張をしている。動物は生き延びるためにその環境に適した体をもつものであり、動物である人もこれと同じく環境に適応しようとするものであって、特に子供は生き延びるためにも自分の生きようとする社会環境に関する情報を得る必要があり、大人から聞いた話をすぐに信じるようにできている。

 
個人によって違いはありますが、大人になって、改めて、判断することでもあります。実質としての支えとならなければ、いずれ、空しい信仰?は捨てられるでしょうし、カルトは、いずれ、社会と人間に害を与える存在となるでしょう。
 
それを、いつまでも、信じたまま、言い続けるのは、引っ込みがつかなくなったカルトか、それこそ、楽山のような我執によって、むしろ、逆に、怨念のようなものが、くすぶり続けているからだろうと思います。
 

そのため、良い情報だけでなく、時には根拠に乏しい間違った情報をも信じ込んでしまいがちである。証拠の無い宗教が長くつづいてきたのは、人々が何でも信じてしまう幼い頃に、大人たちからそれを刷り込まれ続けた結果であろう云々。

 
根拠に乏しい情報というのは、他者の受け売りで、信仰も神も、何も理解できないのに、ときには褒めたり、また別の時には否定したりする楽山の言が、いちばん当てはまります。およそ説明にも癒しにもならない繰り言で、逆に刷り込みだと否定する楽山こそ、今まで、刷り込み、吹き込み、誘導してきた悪だくみの権化であります。
 
仏様の気持ちがわかるっぽい自覚の楽山の、幼稚な自覚と我執が、子供の時から今に至るまで、楽山の人格を支えているとしたら、とても、みじめで哀れな成長不全なのです。
 

本書の副題は「なぜ科学は「神」を必要としないのか」というものであるし、収録されている文章も上のようにキツイ宗教批判が多い。いやはやドーキンスはやっぱり宗教に対して容赦ない。でもこの本気さが魅力でもある。

 
愚かです。科学は、実証できるものだけを扱います。ゆえに、神、信仰、霊、などというものは、実験も出来ないわけですから、科学が対象にしないのは、当然のことなのです。
 
そんなことも知らないで、今まで書いてきたのでしょうか。楽山の、他人事のように語って、信仰を、まだ一度も真剣に自分の課題としたことのない与太話の嘘っぱちに、惑わされないように注意してください。
 
楽山は、信仰を知らないで、信仰芝居をしたり、信仰を目の仇にしながら、信仰をまじめに考えているふうに見せかけているだけのインチキです。
 
信じてもいい理由と信じてはいけない理由、などということを、我欲に合うものだから、本から鵜呑みにして、観察、証拠、情報、刷り込み、魅力、などの有無で、楽山が納得していることこそが、楽山の宗教観が、信仰ではなく、人を罠にかけるような悪趣味の証拠なのです。
 
この中のカルトの証拠となる者、すなわち、何も観察せず見通していないこと、信仰に担保となるような証拠を求める態度、ボンヤリ言語による印象の刷り込み、魅力としての説得力も共感性も全くない表面的で、信仰としては空疎な理屈、これらが、今まで楽山の表してきたものなのです。
 
楽山は、ここでも、前に使った臭い理由、証拠がないじゃろ、という、宗教には全く当てはまらないことで、宗教と信仰を否定しようとしています。汚い男です。
 
観察せず、根拠も証拠もなく、情報は嘘だらけなのに、宗教の悪い印象を刷り込もうとする楽山こそ、否定されるべきなのです。楽山は、詭弁で印象を刷り込むカルト宣伝者です。
 
しかも、このように条件を付けて、大方、否定しながら、一方では、聖書の言葉を引用して、感動したかのように、また、ときには、祈っているかのような嘘のクリスチャン芝居を重ねてきたペテン師が楽山なのです。
 
そういう宗教?と信仰?が、この日本にもあふれている。その中の、かなり次元の低い楽山のペテンです。学者などの名前を出したり、本を引用したりするのは、自分では、宗教についても信仰についても、整ったことが何も書けないからでしょう。
 
 
(2020年02月10日、同日一部修正)
 
 
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アドラー教について(15)

 
  アドラー教について(15)
 
2019-02-15  
【永久保存版】陰口、悪口、嫌がらせへの最強の対処策
https://www.adlersalon.com/entry/2019/02/15/%E3%80%90%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88%E3%80%91%E9%99%B0%E5%8F%A3%E3%80%81%E6%82%AA%E5%8F%A3%E3%80%81%E5%AB%8C%E3%81%8C%E3%82%89%E3%81%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%BC%B7%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%87%A6
アドラー心理学サロンです。
 
 
最悪の例をもって、暗示的に全体を云々するのは、詭弁ですし、表れてくるのは、よっぽど嫌いな人がいて、いやな目にあった経験でもあるのだろうかということです。・・こんなん、いるんですよ、いやですね、無視するしかありませんね・・と言いたいようです。
 

あなたの陰口や悪口を言ったり、あなたに嫌がらせをする人たちはどこにでも、どんな場所でも多かれ少なかれ必ず存在します。

 
陰口や悪口を言う人が、いつも陰口と悪口しか言わないとは限りません。一時的な場合もあるでしょう。本当に嫌がらせをする人というのは、一部の特定のヒトであることが多く、複数の人にそう思われていることも多いでしょう。自分の心得だけで解決するよりも、同意見の人がいるかどうか、聞いてみることも必要だと思います。
 

あなたのことをあら探ししては、一方的に嫌い、見下そうとしてくる人たちのことなんて気にかける価値すらありません。
とにかく無視して、相手にしないことです。

 
一方的かどうかは、冷静に判断する必要があります。そして、無視するといっても、それができにくい場合もあるでしょう。またしても、ブログ主は、一面的に豪語しています。
 

感情的になり、「あなたが嫌い」、「あなたを傷付けたい」を目的として、あなたを傷付けることばかり考えているような人たちと分かり合おうとしたり、見返してやろうと何て決して思う必要はありません。

 
よほど、ブログ主は、嫌われ、傷つけられそうになったのでしょうか。その相手は、本当にそういう人なのでしょうか。今までの豪語から見ると、まさか、ブログ主のような人ではないでしょうね。分かり合うことと、見返すことは、両極のようですから、結局、様々だということでしょう。
 

そんな人たちとは、そもそも理性的な会話が成立しませんし、あなたが気分を害して自分の時間を無駄にするだけです。

 
感情的に物を言う人はいると思いますが、それは、必ずしも、悪意だけとは言えない場合もあります。物の言い方は、理性と感情が、入り混じっているものです。その因果に、自分が含まれている場合も、あるときは自分が原因である場合もあるでしょう。そういう内省をしなくていいような言い方は、慎むべきです。
 

アドラー心理学では、他者との相互理解を勧めている一面はありますが、アドラー心理学の目的論から考えれば、「あなたを傷付ける」ことを目的とした人間と関わること自体が無駄な時間と労力となります。

 
傷つけることを目的とした人間というのは、サイコパス的な人間かもしれませんが、容易く、そういう見なしをすることは禁物ですから、相談相手を探すことが大事です。無視しろ、関わるな、と言って片付けてはいけないと思います。サイコパスは、追いかけてくることもあります。
 

自分を嫌い、陰口や悪口を言ったり、嫌がらせをしてくるような人たちの自分を見る目を変えさせて、理解し合って仲良くなりたい人は少数派だと思います。
むしろ、距離を取って関わらないようにするくらいでいいんですよ!

 
さきほどは、「気にかける価値すらありません」「とにかく無視して、相手にしないことです」と言っていたのに、ここでは、距離を取って関わらないようにするくらいでいい、と言っています。感情の勢いで、物の言い方が変わるブログ主のようです。
 
相手が関わってきたときには、どうすればよいのでしょう。
 

そんな自分を嫌い、自分のあら探しをしては、陰口と悪口ばかり言って、自分を傷付けようとばかりしてくるなら、そんな人たち嫌い返しましょう。
ただ、嫌うことにも労力が入りますので、ひたすら無視をして相手にすることすら止めた方が賢明でしょう。

 
嫌い返す、ということができるのでしょうか。それで、解決するのでしょうか。しかも、また、無視して相手にしないことを重ねて言っています。
 

見返そうとして、努力して自分の価値を知らしめようとしたり、そうした自分を嫌う人たちが思わず尊敬してしまうような人間になろうとするは必要だってありません。

 
それは、上に書かれているような攻撃的な人に対して、こちらが依存している場合を除いて、誰もしないのではないでしょうか。
 

最初からそんな人たち、相手にしたりする価値なんてありませんので、自分を高めてそうした人たちの視界にも入らず、視界にも入らない、同じ空気すら吸う必要の無いところまで自分の価値を高めて別次元の世界に行けるようにしてしまうことをおすすめします。

 
「最初からそんな人たち、相手にしたりする価値なんてありません」と、どうして分かるのか、ブログ主は、徹底して一目散に逃げるように言っています。暴力でも振るうなら、必然的にそうなるでしょうけど。
 

アドラー心理学には「承認欲求の否定」という考え方があり、強い承認欲求を持つと自分の本来やりたいこともできず、誰かに認めてもらうことを目的として他人の人生を送ることになってしまうという考え方があります。

 
承認欲求の強い人は、依存関係にある人ではないでしょうか。そういう場合、ずるずると引きずられてゆくのでしょう。依存していなければ、暴力でもないなら、自分軸を表すことは、必然として、出来ると思います。何かを指示される必要があるのでしょうか。
 

あなたは、自分を嫌い、陰口や悪口を言ってきては、嫌がらせしてきて、自分を傷付けようとしてくるような人たちに認められるように生きて、自分の人生を浪費したいのですか?
そんな人は恐らくいないと思います。

 
いないなら、言う必要もないでしょうに。気づかせようとしているのでしょうか。しかも、相手について、また、とんでもない人を想定しているようです。
 

もちろん、見返してやる!と思って努力して成長できることは素晴らしいことです。
ただ、それでは折角のあなたの人生が、あなたを嫌う人たちによって変えられてしまう可能性があります。

 
見返すことができるかどうかでしょう。ひどい人というのは、実績によって見返しても、それを認めないか、ますます、嫌悪と怒りを募らせる人もいるでしょう。変えられるというより、被害をこうむらないように注意が必要です。ひとまとめに、こうしろ、と言うことよりも、やはり、個別に、相談できる人を探すべきでしょう。
 

アドラー心理学の課題の分離の考え方で説明しますと、あなたのことをどう思い、嫌うか嫌わないかは他人の課題であり、あなたの課題では無いのです。

 
自分が相手を嫌うと、相手も自分を嫌うことが多いでしょう。相手の課題であるところの、自分を嫌うかどうか、ということに、自分が干渉していることになります。なんだか脆弱な理路という感じがします。
 

他人の課題に介入して、相手を自分のこと嫌わないようにしようとすること自体が本質的には不可能であり、あなたが余計な悩みを抱える結果となってしまうかもしれません。

 
自分を嫌うかどうか、という相手の課題に、自分が影響を与えないということはないでしょうから、不可能とも言えないでしょう。ありうることを、理屈で、不可能と言っても仕方ないでしょう。
 
複雑な人間関係の問題を、課題の分離で、すっきりさせることは出来ないと思います。課題は、確定的に分離することは出来ないように思われます。
 

それならば、このアドラー心理学の課題の分離の考え方をもとに、アドラーは他人の課題にも介入すべきではなく、自分の課題に他人を介入すべきではないとしておりますので、あなたのことを嫌い、陰口や悪口、嫌がらせを受けても、そんな人たちに自分の課題への介入は許さない!と考える方が良いと思われます。

 
こういう間違いは、自分の課題に相手の存在が含まれ、相手の課題に自分が含まれる、ということを無視してしまう短絡から生まれます。
 

基本的に、他人のあら探しをしては、陰口や悪口を言いふらしたり、嫌がらせをするような人たちは劣等感に満ち溢れており、他人を見下して惨めな自分たちの傷を舐め合い、劣等感を穴埋めしようとしているような人たちです。

 
そういう悪ばかりという人たちは一部です。それを、ボロクソに言っても、その見なしが、悪口か忠告か批判か微妙であるような問題を、思考停止に誘導してしまうでしょう。一面的なことで、全体を法則のように決めつけるのは詭弁だと思います。
 

つまり、永遠に成長することのない人たちであり、あなたにとってその存在を認識すること次第が無駄どころか害にしかならないのです。
何でもかんでも他人のせいにしては、自分は悪くないと吠え、他人に対して「こうあって欲しい」という自分の希望ばかり押し付ける甘えん坊でもあります。

 
ブログ主は、一部の人を、成長しない、有害で幼稚だ、とボロクソに言うことで、気晴らしをしているにすぎないのに、それで、幸福への道を説いているつもりなのでしょうか。
 

そんな人たちに、あなたは認めてもらう意義や価値があると思いますか?
むしろ、こうした人たちは、どんな形であれあなたが反応してしまうと、自分たちには反応されるだけの価値があるんだ!と実感してしまい、問題行動を繰り返させてしまい、ますます惨めな状態に陥って出てこれなくなってしまいます。

 
一部の人たちを、付き合う意義や価値がない、問題行動、みじめな状態、と言って、さんざん、こきおろしていますが、そのように、はっきりした極端な悪の人々との、付き合い方というか付き合わないということを言って、なんになるのでしょう。
 
もっと、繊細で微妙な心遣いが必要とされるのが、人付き合いというものです。人付き合いを、こういう短絡で考えて生きているのなら、そのことこそが、問題行動というべきでしょう。
 

この人たちの為にも、相手にせず一切反べきではないのです。
ほとんどの人たちは、そんな人たちに認めてもらいたくもなければ、そんな人たちの「こうあって欲しい」という希望を叶えてあげたくもないことでしょう。

 
ブログ主はボロクソに言ったのだから、「この人たちの為にも」は、余計です、というか、治す気もなく絆創膏を貼るようなものでしょう。
 
いったい、誰に認めてもらいたいのでしょう。自分を最初から最後まで認めてくれるような、そんな都合の良い人というのが、ボロクソな人と同様に稀ではないでしょうか。
 
他者を分類するように思い見なして自分の欠点などを考えないで自分中心のあり方を説くのは、他者に依存せず自立した生き方を説くのとは説き方の方向が違うと思います。課題の分離を巡っては、このような、自尊と他罰の考え方になりやすく、問題が多いと思います。
 

自分を嫌い、見下してくる人たちに対しては、「見返してやる」と思ってその人たちがすごいと思う存在になろうとしてあげる必要性すらなく、とにかくそうした人たちから距離を取れるように、関わる必要が無くなる方向で自分のやりたいことに打ち込み、自分をより高みに導いていくことで、そんな人たちと同じ空気を吸う必要も、そんな人たちを視界にも入れなくて済み、やりたいこともできる満たされた自分の人生を、より幸せに生きれるようになります。

 
自分を嫌い、見下してくる人たちに対して、自制が全く必要ないような言い方をしています。付き合えるか付き合えないか、という問題と、自分がいかにあるべきか、という問題は、別であって、課題の分離によって、全部解決、などというのは間違っていると思います。
 

結論としましては、自分の陰口や悪口を言っては嫌がらせするような人たちへの対処方法は、ただ、ひたすらに無視をして相手にせず、自分の課題に介入して邪魔してこようものなら、徹底的に邪魔させないように使えるもの、援助してくれる人たちに頼ってでも拒否してしまいましょう。

 
人間関係の問題に、まるで、防犯のような対処を教えています。
 
"自分の陰口や悪口を言っては嫌がらせするような人たちへの対処方法"として、自分の欠点の可能性を考えないで無視して、自分中心に、対象だけに原因を求める考え方は、著しい片落ちであり、他罰的な人格を造るだけになるでしょう。
 
問題となる原因や理由を、自他の問題そして状況について考えないで、対処することは、自己中のやり方です。そういう対処の仕方を続けていると、気に入らない相手を、次から次へと無視してゆくことになるでしょう。
 
援助してくれる人たちに頼るのは、そのような無視したり排除したりする110番のようなことではなく、いっしょに、冷静に、客観的に、原因を考えてくれる人を求めることに他なりません。
 
 
(2020年02月09日)
 
 
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アドラー教について(14)

 
  アドラー教について(14)
 
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個別の多様性を考えず、後先を考えずに豪語して、そのあと、折り合いをつけるための言い訳という、人間の言葉の不完全を思うならば、先ず、豪語を避けるべきなのですが。
 

【憎い人を忘れる7つの考え方】
1. 自分の為に許してやる
2. 過去は過去に置いてこれる
3. 悪い人だと早く知れて良かった
4. 嫌いなら、無理に関わる必要は無い
5. 憎い人のことを考えたら、相手の思うツボ
6. 他人と過去は変えられない
7. 好きな人を大切にする

 
憎い人と悪い人を、カルトと置き換えたほうがよいかもしれません。
 

嫌われることを恐れていれば、あなたは永遠に幸せになれない
幸せになる為には、嫌われる勇気が必要です
嫌われることを恐れずに、ありのままの自分で生きるべきなのだ
嫌われないように、他人の顔色を伺って生きていては何も楽しめない

 
嫌われて平気でいて、仲間だけで褒め合うのもカルトの特徴です。
これで幸せになれるのでしょうか。
 

自分よりも他人を優先して生きる為に、あなたは生きていない

 
このような発言が、自己中体質を促進するでしょう。
 

未完成のままでいい
完璧なんて目指さなくていい
というより、完璧な状態なんて実現されません
もしあなたが完璧な状態を分かっているとすれば、それは空想の産物です
何でも揃って、何不自由しない状態なんてこの世に存在しない
いつだって、幸せは今この時にあり、やりたいことは今やるべきです

 
確かに、人間は、未完成だから成長が必要ですが、
この文脈が、アドラー教から出てくるのでしょうか。
幸福を保証するかのような断定と豪語を繰り返している中で。
 
完璧でなくていいという保証は、
失敗の報告と批判に対する責任逃れの予防線ではないでしょうか。
 

他人は他人、自分は自分
他人が自分をどう思おうと、何を言ってこようと、そんなことはどうでもいい

 
参考にしなくてもいいのでしょうか。
人の言うことは、どうでもいいから聞かないよ、と言っている文脈になります。
 

そんなことを気にかけて、自分の気持ちに嘘を付いてはいけない
自分に嘘を付いて、やりたくもないことをやらされていると思いながら生きるなんてバカバカしい
自分で自分を制限しているだけです。

 
やりたいようにやれ、というアドラー教の豪語です。
 
教えられたとおりに突き進んで、失敗したときの責任をだれがとるのか、という問題になるでしょう。一喝するだけでおさまらないときは、逃げる用意でもしているのか。
 

人はあなたが思うほどに、あなたのことに興味を持っていません
あなたが勝手に馬鹿にされてるとか、変だと思われていると思い込んでいるだけです
みんな自分のことで精一杯なんです
人の噂を楽しむ人達は、あなたに興味があるのではなくネタを探しているだけ
そんな人達、相手にしてはいけません。

 
他者の思惑に左右されてはいけない、他者に依存してはいけない、ということは、誰でも言うことです。しかし、今まで言ってきたことは、興味などという範囲ではないですね。
 
教えるならば、うまくいかないときの対処も教えることが必要です。人が伝えるいかなる教えも、薔薇の花園を約束するわけではありません。だから、謙虚になるわけですが、それが、アドラー教に見られるでしょうか。
 

あら探しなんかしてないで、良いところ探しをしましょう
どんな物事も、良いところを見ようとするのか、悪いところを見ようとするのかで意味が全く違う
あら探しをしてしまうのは、あなたの心が曇っているだけ
あなたが偏見を持たずに、良いところを見つけようとすれば、世界は幸せな場所に変わる。

 
まるで、自分に対して、批判せずに良いところ探しをせよ、と言っているかのようです。
 
それが幸せというのは、文句を言われたくないカルトの特徴です。あら探しをするのではなく、思考を深く掘り下げることは、いかなる場合も、自分を支配されないために必要です。
 

好きでもない人と仲良くしなくていい
人生で出会える人、付き合える人の数は限られている
人との関係を雑にするべきではありませんが、目の前の人達が全てではない
あなたに合う人、あなたを好きになってくれる人はいくらでもいる
どうでもいいような人達と、惰性で付き合い続けることは時間の無駄

 
惰性で付き合い続けることと、好きでもない人と仲良くすることを、同一に考えているようです。惰性で付き合うことは、依存の強迫観念において起こり得ることですが、それは、好きでもない人とは限りません。また、今は苦しいけれど我慢するということもあるでしょう。
 
好きでもない人と仲良くする必要はないとして、好きではないと、いつ、判断するのでしょう。最初に好きでないと感じたときに、仲良くしないと決めてよいのでしょうか。
 
軽々しく、教えだからと、付き合いを断ってしまうことの責任を誰が負うのでしょうか。実際には多様なケースがあるのに、一律に短い言葉で断定することの弊害を恐れないようです。
 

人は勘違いをするのが当たり前の、愚かな生き物です
人は自分のフィルターを通して、物事を知り、判断をしています

 
このことは、独りでも起こることですが、アドラー教も、自己中と思われる要素をその教えにも持ています。特に自己愛性人格障害者において勘違いをすると、正当化の根拠を得たかのように完全な他者無視の自己中になるでしょう。
 

人それぞれ違うのが常識であり、みんな同じであることが異常なのです
孤独を恐れるあまり、多くの人達は常識を正解だと思い込んで苦しむ
自分の頭で考えて、自分の人生を生きよう。

 
続く言葉で、人それぞれと、人によって違うという話にすり替えています。そして、アドラー教は、独りで判断するように言っているのです。勘違いが当たり前と書いているのに。
 

自分が知っていることが全てだと思ってはいけません
自分の知っていること、認知できる範囲はこの世のほんの一部に過ぎない。
だからといって、他人とは分かり合えないと考えて切り捨てるのも早計。
無理に同調する必要はありませんが、お互いに折り合いを付ける努力をすることに意味があるのです。

 
まるで、予防線にもならない、苦しい言い訳のようです。
 
自分の頭で考えて、自分が全てではない、他人とは分かり合えないと考えて切り捨ててはいけない、無理に同調するな、折り合いをつける努力、・・これは、主張の方向が、散乱しています。
 
単方向に豪語してきて、言い逃れをして、自尊と自己の正当性の保証を求めているようです。引っ込みがつかなくなって、折り合いをつけようと苦しい言い訳をしている姿ではないでしょうか。
 
人間の言論の正しさを豪語で伝えようとすると、豪語そのものが乱れて、豪語して言い訳、突出して折り合い、という、収拾が付けられなくなるという縮図を見ているような気がします。
 
いまだに、アドラーという名前を掲げ、アドラーの写真を載せて、心理学という学問の名前を付けているようですが、元々、アドラー心理学という学問の紹介であるなら、豪語して教える態度はないはずです。
 
ずっと、世界を変える幸福の約束のように、強気で言っては、引っ込みがつかないような伝え方であることが、心理学という学問ではなく、アドラー教と呼ぶしかない宗教活動であることを表しています。
 
そして、無責任豪語は、カルトの特徴なのです。
 
 
(2020年02月08日、同日一部修正)
 
 
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自分だけの分離

 
  自分だけの分離
 
 
営利不営利を問わず
仕事について会合か会議があるとします。
 
仕事の不首尾について説明があります。
 
しかしそこで
自分にとって不都合な話や気に入らない話を
無視する者がいます。
 
その者は無視するので問題を自覚しません。
したがって
その者が担当する部分は何も改善されません。
仕事全体が進まなくなります。
 
それを誰か面接者が注意します。
その者は、やはり、都合が悪いことは無視します。
受け答えは、はっきりしません。
都合が悪いことは聞かないから
まともな答えは返ってきません。
 
しかも、無視していることを
目の前で言わないので
聞いてるんだと面接者は思います。
 
ところが仕事は
その者が無視した分
指摘の前と後でその者が何も変わらないので
その者の担当部分でとん挫したまま進まず
結局、仕事は失敗に終わります。
その者はクビになります。
 
そういうことは
日常のあらゆるところで表れてきます。
その者は、相変わらず無視して
平気な顔をしています。
 
問い詰めると
それは、あなたの課題ですからと
また無視して同じように生きてゆきます。
 
結局、その者は、
どんな職種も知的な仕事が勤まらず
体が元気なので
肉体労働につきますが
同じことです。
嫌だと思ったら仕事を無視します。
嫌だと思ったら仕事をしません。
給料日だけ出て来ますが
当然もらえないので
すぐ辞めてしまいます。
 
職を転々としたあげく
いかなる仕事も出来なくなって
お金が無くなって
物を盗むようになります。
・・つかまります。
 
出所してからも同じです。
気に入らないことは無視しましょう
という教えは変わらないからです。

 

感情全体は刺激を無視するので鈍麻しますが
被害的念慮は促進します。
人は人、自分は自分、ということから自己中になって
被害的念慮は促進します。

 
人を憎むようになり
人を殺します。
一人ならず殺します。
・・つかまります。
 
処刑台でその者は
それはあなた方の課題ですから!
と大声で言いますが
刑務官に
そう思うのはあなたの課題ですから
と言われたのち執行されます。
 
課題の分離を
勘違いして処世訓にしてしまい
結局、自己中だけの人生を過ごして
最悪の報いを受けるたとえ話です。
 

 
そういう勘違いをさせて
人生ハッピーになると言っている教えに注意してください。
 
自分の課題から
他者の課題というより他者の存在を無視したことで
絶対自己中に走って
そのたびに、うん、うん、と自己納得して
他者のことを考えなくなったたとえ話です。
 
 
頭の中で課題を分離しても
都合の悪い他者が消えるわけではありません。
 
自分の都合で友を求めて
自分の都合で仕事を求めて
結局、そういう人も仕事もなくて
逃げて逃げて
それでも自己中に気づかず改めない者は
最後には強制力で排除されます。
 
問題を勘違いして
絶対自己中を実行している者が実際にいます。
何を言っても受け取らず
対話も遣り取りも成り立ちません。
 
社会に潜在する自己中の我欲は
いずれ対人関係において
そして社会において明らかになります。
 
社会における問題は
最終的には現実的には
社会の課題として解決されるのです。
 
 
課題の分離を教えられて
なにやら、そうなんだ、と思って
課題の分離に集中してゆくと
一時的に気分がよくなったような気がします。
 
ここから人を愛すればよいと思えても
ちょっとでも嫌なことがあると学習結果から
習慣的に反射的に無視するようになります。
人間は、そうなりやすいからです。
 
救われた気分を味わい続けることで
ブレーキが利かず
無視してきた分、反省力が働かず
いつもいつも
うん、うん、と納得し続けて
刹那的な気分の良さを得る習慣になります。
 
人間は、傷つくことには敏感になりやすく
傷つけることには鈍感になりやすいのです。
 
 
私たちは、多くを耐えて生きています。
耐えられることと耐えられないことを分けて
耐え忍ぶ勇気と忍耐こそが必要です。
 
万事がうまくいき、幸福になるということは
人間である限りないと思います。
何故なら、人間は、必ず、年老いて、無力になるからです。
 
怒りの断言と有頂天豪語の勢いに騙されないでください。
 
 
(2020年02月07日、同日一部修正)
 
 
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