ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神について語るには3

 
  神について語るには3
 
 
キリストや聖霊についても同様ですが
神という御方を考えるとき
全知全能の神については
私たちの概念の箱には到底納まらない
ということを先ず言いたいのです。
 
神と聖書について人間が持つべき箱は
修正可能な分かった "つもり" の箱と
分からない保留の箱だけです。
 
したがって
「神」を概念や観念として
言葉で考えることは
無理すれば
人が全能者を扱うことになり
教条主義という罠に堕ちるでありましょう。
 
 最悪の例を、一人は10年、もう一人は2年、批判しています。
 
全能者は人に扱われるような御方ではありません。
 
つまるところ
全能ではない人が
神の概念を語ることは困難であり
語るにあたって
少なくとも恐れを持たなければなりません。
 
では神について語ってはいけないのか
ということになりますが、
恐れを持つということは
語るなということではなく、
語る内容を言葉で決めつけてはいけない
ということです。
 
どういう姿勢で
神を語ればよいのでしょう。
 
神そのものではなく
導き、憐れみ、戒め、懲らしめなど
神が人に及ぼした作用の
人における経過と結果から
推測できるものを語るべきなのです。
 
その場合、
導きを受けた人のことを語ってもよいし
そういう人の様子や経緯から
推測できることを語ってもいいでしょう。
 
神そのものは
人によって捉えられるものではありませんが
神が人に及ぼした影響
つまり人の信仰については
人は不完全ながら知りうるということです。
 
そういうことですから
人が聖三位について語るとき
最も多く語れる対象はキリストであります。
人格としての言行録が福音書としてあるからです。
 
その中の物や肉体の奇跡については
なお人間の理解の届かないところにあります。
キリストについて
物や肉体の奇跡を追いかけて
魔法使いの言行みたいに語ってはいけないと思います。
そういう奇跡は
人間の守備範囲外にあるからです。
 
キリストと
キリストが救った人々との交流から
救いとは何か
 
キリストが批判した人々との遣り取りから
救われないとは何か
 
こららのことを学ぶことは
決めつけない限り可能でしょう。
 
またキリストを信じることで
自分に、そして人間関係に、
さらに思考や感情に、
そして人生に
どのような変化があったのかを
語ることも可能でしょう。
 
そこから推測できるところの
信仰がどうあるべきか
信仰者がどう生きるべきか
などに話を広げてゆくことも出来るでしょう。
 
信仰者として
心が揺さぶられることは
キリストからの愛に
そしてキリストへの愛に帰してゆきますが
信仰者の人間としての営みの成り行きにおいて
総じて
導きは祈りに帰してゆきます。
祈りは
その日までの経過であり
その日からの出発点なのです。
 
 
(2019年04月アップ)
(2020年04月18日、一部修正)
(2021年04月23日、再録+)
 
 
神様のことは
ちょいと徳の高いお爺さんがいるから
話を聞いて仲良くしましょう・・ではないのだから
会えば分かるわけでもないのだから
会って直接話を聞ける相手でもないのだから
おとぎ話に出てくる仙人みたいな人でもないのだから
 
少なくとも信仰者は
善の代名詞みたいに
気軽に話のネタにしてよいことではありません。
 
また、カルトのように
自分の見なしを大仰な小理屈?の教条にして
形容だけ大袈裟にして
大真面目を装って嘘を吐く輩が
キリスト教内外にいますから
彼らのように気負って
神の意志と行為を決めつけてよいものでもありません。
 
神聖について
人が持つべきなのは
確信ではなく
恐れであります。
 
人に起こることというのは
聖書からだとしても
よく語られる超常話が人を救うのではなく
つまり物や肉体の奇跡ではなく
 
人間であれば理解できるような
人間の喜怒哀楽とか愛とか洞察とか
人間に理解できることが人を救うのです。
 
私たちを惹きつけ共感させることが
聖書にはたくさんあります。
そこに価値を見出した人は
理解できないことや疑問や矛盾は
人ゆえにいだくものとして保留するのです。
 
聖書が教える信仰は
自らの経験と思考の届きうるもの
すなわち、人間であれば
理解できること、共感できること
それらをもって問いかけてきます。
 
信仰の学びとは
こんな不思議の奇跡のわざが起こるんだ
・・すごぉい!・・と
奇跡の粗筋と一覧を覚えることではなく
 
信仰の学びとは
イエス・キリストが思いを共にして下さる
という孤独からの解放を
人間らしい心の深みにおいて聖書から学び、
また、生きているあいだ考えて
伝えてゆくことなのです。
 
 

   f:id:stdsts:20210422235938p:plain

            同伴と共感
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白
信仰告白である
 
人間が持ちうる
最も良質な
精いっぱいの主への告白は
讃美ではなく恐れである
 
神の全能への恐れと
それを憐れむキリストの共感が
キリストへの共感を生むとき
キリスト信仰は生まれる
 
 
 神への恐れ
 
人間は
神について確信的に知り得ることなど出来はしない。
神は偉大というのは
私たちには知りえないほど偉大だということだ。
神は永遠というのは
私たちには到達できないほど永遠ということだ。
 
そこを取り違えた者たちが
神の言葉を代弁するかのように豪語するのは
"紙の言葉" をもてあそぶことに過ぎない。
 
机上で神をもてあそぶ者たちに惑わされないように
 
私たち人間は
お笑いのように
泣き笑いのように不全であります。
 
先ず
神を恐れることを学んでください。
 
次に
恥ずかしく、泣き、笑われる、私たちに
同伴し、寄り添い、共感し、共感を与える、キリストを覚えてください。
 
 
(2020年04月21日)
(2021年04月23日、加筆して再録)
 
 
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楽山の失格

 
  楽山の失格 (映画)
 
 『美しき誘惑-現代の画皮-』のルーツを探る
 2021年04月17日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 http://mmknky21.blog.jp/archives/9216946.html
 
 
抜粋して批判
 

真意は分からないが、同じ材料、テーマの先行作品があったり、影響を受けた作品がある場合には、それを無視するのではなくて、きちんと作品名を明らかにして敬意を示したらいいのにと思う。それがないのは残念。

 
「敬意を示したらいいのにと思う」「それが無いのは残念」・・楽山の、心の無い丁寧語です。アドバイスのように見せかけていますが、敬意がないので、丁寧に書けばいい、という安易さだけが、鼻を突いてきます。
 
いつも形だけ丁寧語で、かえって嫌らしいと思います。上から批評家気取り、という獣性をごまかす書き方です。楽山の厚顔無恥を知って、何度も味わってきたブログの流れにおいては、中身のないことが分かっているからです。
 
批判でも丁寧に書けばよい、角の立たない書き方をしているつもりのようだが、そういうものでは決してないという例です。丁寧は、楽山の思い込みだけなのです。要は、言葉だけ丁寧で、中身は、あざ笑いながら、こき下ろしているわけです。
 
薄汚い性根を隠すために、どんなときも、善人アピールをしたい楽山の無理が、悪意を隠す卑怯な偽善の丁寧語になってきたのです。言い方だけ丁寧であることに自己満足する楽山です。
 
丁寧に書けば、冷静だと思われるだろう、という楽山の安易な思い込みの先入観が表れています。
 
楽山は、こういう丁寧語で、自分はいつも冷静な紳士だからと言いたいのでしょうが、中身はと言えば、実は嘲笑いを伴う否定に、理解があるとうわべだけ見せかける保身が加わり、楽山固有の、何とも言えない、陰湿な印象になります。何度も見ていると、"偽善者" という言葉が浮かんできて吐き気を催します。
 
楽山が書いてきた「反省。トホホ」というのがありますが、ただ反省という言葉を付ければよいという気安さが、気持ち悪くて気持ち悪くて、楽山には、真心が無いのだと知りました。これは、ふざけた態度であり、「トホホ」ではなく「テヘヘ」なのです。
 
 
※ 
 
 楽山の失格 (読書)
 
考えてみれば明らかなこととして、有名人や小説家や学者が、楽山のような自己愛性人格障害者に賛同することなど、ありえないわけです。
 
相手が、既に死んでいるか、縁のない人だからといって、楽山が、あたかも同じレベルの学識経験者であるかのように、自己愛のために勝手に利用~悪用していいわけはありません。それくらいのことも分からないのでしょうか。楽山の読書は、自他の両方にとって、害毒です。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:11
口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。 15:12
そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。
15:13
エスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。
15:14
彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。
15:15
ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。
15:16-18
エスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。
 (マタイ15:11-18、新約聖書
 
 

    f:id:stdsts:20210421234631p:plain

              口から出るもの
 
 
(2021年04月22日)
 
 
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近況:

 

認知症と腰椎圧迫骨折で歩行困難の98歳の母は、小規模多機能介護施設 → 肺炎と尿路感染で病院入退院 → 老健施設、そして、昨日、デイサービス付きの有料老人ホームに転所となりました。

建物は元々整骨院だった3階建ての古いビルを施設にしたもので、グーグルマップでは整骨院の看板が出ていて更新されていません。向かいがジョイフルで、田舎だけど道路沿いに店は多いようです。

相変わらず、コロナのせいで、自由に面会は出来ず、内科にも定期通院させるわけですが、あちこちで、ふつうに手指の消毒をして、時に熱を測ります。

新しい病院なので、一応、X線や血液尿検査して、乳癌疑いと言うことで、胸に薄い影があるようです。「98歳くらいになれば誰でも癌はあります」と、思い切りのいい先生です。こちらとしても、生物学的延命は望まないが、痛みが出たら軽減してほしい旨申し上げました。

 

(2021年04月22日)


 

飲兵衛さんの思い出2

 
飲兵衛さんの思い出。再録+
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12448086748.html
学生時代の思い出です。
 
 
  飲兵衛さんの思い出3
 
 
昔学生の頃
バイクで帰ってきて
路地へゆっくり入ったところで
赤いお鼻の飲兵衛さんが
バイクに近寄ってきて
紙切れのようなものを差し出して
訳の分からないことを
たいそう不機嫌そうに言うもので
うるさいから無視して進もうと
エンジンを吹かし始めたら
怒ってバイクの前に
立ち塞がってしまった
 
腹が立ったが顔を見ると
やり場のないものが鬱積しているらしい
どうしよう
このままでは帰れない
無理にバイクを前進させれば
ぶつけて怪我をさせるか
喧嘩になって
こちらが怪我するかも知れない
 
しかたないと諦めて
エンジンを止めて紙切れを見た
数字が書いてあった
電話番号のようでもあるが
よく分からない
近くの通りの公衆電話のことなど
首をかしげながら話していると
顔が和んできたのに気づいた
 
最後にはニコニコ
笑って通してくれた
気づいた
怒った飲兵衛の話など
まともに聞く人はいなかった
皆ごまかして逃げるか
力ずくで押しのけるか
 
しかしこの飲兵衛さんにだって
プライドがある
あちこちで角を立てながら
さらに傷つきながら
求めていたのだ聞き手を
 
関わるまいと逃げる人から
聞く人へ
キーを回して
エンジンを止めるという行為
それは聞き手になりますよという
こちらの意思表示になったのか
 
あのとき思った
案外、精神科医に向いている
かもしれないという見込み
は見事に外れたが
患者になってしまった今は思う
心を病んでいる人も
それぞれの精神の
受け皿を持っている
 
 
(1999年06月26日)
-------------------------------------------------
思いがけず、自分が和ませた、癒したかのような気持ちになっていましたが、飲兵衛さんもいろいろです。乱暴な人もいるかもしれません。
たまたま、そういう飲兵衛さんに出会ったひとときの間、そういう出会いによって私が、ある意味、
思いがけず、和んだ、癒された、つまり、そういう飲兵衛さんがいて、よかった、ほっとした、
という思い出かもしれないと今は思っています。
 
飲兵衛(のんべえ)
怪我(けが)
塞がる(ふさがる)
鬱積(うっせき)
喧嘩(けんか)
和む(なごむ)
 
 
 
  武装
 
 
正直は
単なる道徳ではない。
 
正直と正直は
解決を見出すかもしれない。
 
飾りと飾りは
どこまで行っても飾りだ。
 
偽りと偽りは
どこまで行っても偽りだ。
 
偽りと正直は
加害者と被害者を生む。
 
怒りと怒りは
衝突して何も見出さない。
 
怒りは一時的だが
根に持つと怨念になる。
 
大切なのは基本的に
神に対しても人に対しても
できるかぎりの
正直で武装しておくことだろう。
 
 
(2020年04月)
 
(2021年04月21日、再録+)
 
 

    f:id:stdsts:20210420234624p:plain

            正直で武装
 
ここで、武装とは、暴力の用意ではなく、向かい合う用意ということです。それが生き方を決めてゆくのです。
 
それが全くできないし、する気もないような人がいて、表面的な優しさ芝居で、怨念を隠し、付き合えば、気色の悪い疲労をもたらし、迷惑だけを掛けてきます。
 
復習みたいなものですが、楽山は、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、という信条に賛同しました。どう見てもキリスト教の信条ではなく、むしろ、反キリストの信条です。そこから、今まで、約2年余りの楽山批判が続いています。
 
楽山の正当化に、"人それぞれ" だから自由だ、という言い分がありますが、これが詭弁で、キリスト教の信仰が、"罪を認める" でも、"罪を気にしない" でもいい、自由だ、なんてことは、ありえないわけで、前者しかありません。極めて、初歩的な人間の理路が、楽山には成立していません。
 
(2021年04月21日)
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
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https://twitter.com/st5402jp
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楽山ツイッター(3)

 
  楽山ツイッター(3)
 
 
無理解からの、楽山の、努力ではなく、使命でもなく、務めでもなく、真面目でもなく、ふざけ半分の、趣味のような、憂さ晴らしのツイッターです。生きる楽しみが、意地の悪い趣味以外にないのだろうかと思います。
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·6時間
村上龍の「限りなく透明に近いブルー」の影響が垣間見えますな。
つーか、詩人、作家であれば、「限りなく透明」という表現は避けそうなもんだけどね。
午後8:15 · 2021年4月17日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1383378595494518784

 
村上龍の「限りなく透明に近いブルー」は、読んだことがあります。楽山は、この題名の「透明」の意味を分かっているのでしょうか。この小説は、誰にも見られず無視されるような傷つきやすさ、という感想でした。ゆえに「透明」は、存在しないかのように思われる、無視される、「ブルー」は、悲しみという意味に受け取っています。
 
楽山は、「透明」を、まさか、透き通って美しい・・みたいな意味に捉えているのでしょうか。それで、「詩人、作家であれば」「避けそうなもんだ」、と言っているのなら、楽山の読解力は、ひどいものです。
 
ひょっとして、読んでいないのではないかと思います。読んでいないのなら、上のような悪口は、それこそ、何の根拠もないことになり、村上龍をネタにしているだけだから、楽山らしく相手を選ばない酷い侮辱です。楽山は、存在感もなく透き通って、人をブルーにする透明人間なのでしょうか。
 
  

心機一転★こも楽山
@komo266
·6時間
「自分の意思で信じています」と、わざわざ強調してあるところが、
二世、三世信者の現状を如実に表してるなあ…。
午後8:04 · 2021年4月17日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1383375779350777856

 
楽山に、宗教批判をする資格はありません。この2年余り見てきましたが、楽山の書く文章には、まともな根拠が、まるで示されていないからです。書いてきたのは、嫌がらせ、いちゃもんだけです。なぜそうなるかと言えば、楽山が、無反省・無神経・無責任・無理解の極みだからです。
 
楽山の言うことだけは、どうか、信用しないでください。楽山は、自己愛性人格障害から、ゴシップ好みで、笑って茶化しているに過ぎません。受け取っても、何の助けにも参考にもなりません。
 
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·14時間
前半の話は聞いたことあるけど、後半の話は初めて聞きました。なるほど。
喜べる人はより喜べるようになり、嫉妬深い人はより嫉妬深くなり惨めになるというのは、恐ろしいけど、真実なんだろうな。
引用ツイート

Testosterone
@badassceo
· 15時間
友人や知人の成功を一緒に喜んであげられる人になろう。それができれば友人や知人の数だけ喜べる数も増え、友人や知人に良いことがあるたびに自分も幸せになれる。逆に、それができない人は友人や知人の数だけ嫉妬の数も増え、友人や知人に良いことがあるたびに惨めな気持ちになる。この差は超デカい。
 」
午後0:04 · 2021年4月17日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1383255096943734787

 
楽山は、二進法のような安易すぎる是非の誤判断はしても、共感性がないので、喜びを共にすることが出来ません。そういう共感の表現が出来ません。ゆえに、ルサンチマン的な、嫉妬からの、惨めな気持ち、そして、その反発として、敵意、揶揄、無責任な否定、幼稚な動機からの笑い、といった低次元の反応しかしてこなかったのです。
 
「喜び」と「惨め」さと書いて、心に響くような説明もなしに、物差しで測るような単純な理路で、「この差は超デカい」という、表現を強めるだけの軽薄な言い方で、つまり、これも、笑いのネタにしているだけなのです。
 
楽山は、人間らしく喜ぶことが出来ないので、意地悪に笑えることだけを求めています。人格も、理路も、感性も、破綻して、「恐ろしい」事態になっているのは、楽山です。
 
刹那的な常套句の遣り取りという見せかけだけの付き合いを続けて、長く付き合うことのできない楽山からの、にじみ出てくるような敵意と怨念が筆致の裏に隠されています。
 
つまり、他者について、自らの惨めさから嫉妬して、怨念のようなものがベースとなり、そこから物を言うゆえに、意地が悪くなって、感受する焦点がズレて、理路が歪曲し、理解から遠のき、他者の欠点ばかりをあげつらい、揶揄して、面白がるだけの人生になっているのでしょう。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
・・・
ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3
 
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート

うさ@宗教2世・非定型うつ
@merry_ura
よく奇跡の体験などで「信仰して病気が治りました!」って体験談出てくるけど
信者 かつ 病気が治った人
を切り取っているだけに見える。他にもいろんな人がいるのにね。
同じ病気の信者と未信者を集め、長期的にデータをとって「信仰すると○%治る確率が上がりました」ってしないと納得できないよ
 」
午後0:37 · 2021年4月16日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/merry_ura/status/1382900821482872832

 
データの選択による偏りを言っているようです。あると思いますが、信仰は、心の救済であって、物や肉体の奇跡のことではありません。また、信仰は、データを取って有意だから信じる、などというものではありません。超常のことは、神にお任せするのが信仰です。
 
楽山は、宗教に恨みがあって、おとしめたいので、こういう見方に賛成してリツイートするわけですが、楽山自身が、霊が分かるっぽい超常の自覚から、奇跡を起こす人になりたがっているのです。結果は、人をだまして面白がるだけになっています。
 
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート

藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
近所の人やキリスト教界隈の人等から情報が寄せられれば教会に確認したりとかできますが、そういう取っ掛かりがないと難しいんですよねえ。あと、仮に特定できたとしても公表するかどうかは事情によります。
引用ツイート
「「
サボ
@apple200apple
· 7時間
返信先: @SuspendedNyoraiさん
クラスター感染を引き起こした教会が一体どこなのか、取材して特定して貰えませんか? お願いします。そんじゃそこらの宗教被害やカルト宗教よりも、話題性があるかも。
https://tokai-tv.com/tokainews/article_20210416_168068
午前9:14 · 2021年4月18日·Twitter Web App
 」」
 」

https://twitter.com/komo266/status/1383255096943734787


 
楽山の悪趣味に合わせて、教会のクラスター感染を載せて、キリスト教を間接的におとしめている悪意が、かえって露骨になります。クラスター感染があったのなら公表し対策を講じるべきでしょう。しかし、決して、楽山に関わらせてはいけません。
 
また、いつもの、他者の口を使えば責任がないじゃろ・・という楽山の厚顔無恥の企みです。引用した責任というのが分からない楽山です。楽山という悪性スピーカーには良心がありません。
 
下手に楽山を参加させると、自己愛性人格障害の意地悪、無反省、無責任ぶりに、近くにいるほど、長く付き合うほど、頼りにすればするほど、忘れられないほどの消耗と疲労を味わうことになります。決して関わらないでください。
 
 
(2021年04月20日、同日一部修正)
 
 

      f:id:stdsts:20210419235335p:plain

                   嫉妬
 
 
 
宗教詩、一つ・・。
 
  祈り・永遠の命
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜るなら
一生は一瞬でよいのです
 
(90年代か?)
 
掴む(つかむ)

賜る(たまわる)
 
 
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楽山のトンデモとインチキ

 
  楽山のトンデモとインチキ
 
 『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著
 2021年04月18日
 http://mn266z.blog.jp/archives/28788823.html
 
 
(ネットより)
鹿嶋 春平太(かしま しゅんぺいた、1941年 - )は、日本の経済学者、宗教社会学者。明治学院大学名誉教授。本名・肥田日出生。 1965年慶應義塾大学経済学部卒業。71年同大学院商学研究科博士課程単位取得退学、明治学院大学経済学部専任講師。74年助教授。80年教授。日本広告学会賞を二度受賞。聖書研究家として鹿嶋の名を用いる。2011年定年退任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B6%8B%E6%98%A5%E5%B9%B3%E5%A4%AA
 
楽山は、キリスト教と信仰をおとしめるために、インチキ本を勧めています。トンデモ本は、なぜ、インチキなのかと言えば、聖書を面白おかしい話に落として、信仰による救いを損なうからです。
 
批判に答えられず、いかなる弁明も詭弁で、自己愛性人格障害の病質が明らかになってきて、もはや、ケダモノの荒い鼻息のように、開き直って手段を選ばず、侮辱の悪魔性に没頭する楽山です。
 

タイトルから聖書入門だと思って本書を読んでみたのだが、スピリチュアリズム的な考え方が多く紹介されていて意表を突かれた思いである。その例を上げるとするならば、まず著者はイエスの教えについて次のように記している。

エスの教えようとするのは、徹頭徹尾「霊界の真理」です。
(『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著、新潮社、1996年、p.81)
 」

 
霊界に心を奪われると、楽山のように、現実が見えなくなり、言動は狂い出し、言うことが変になり、あげくに、詭弁と嘘ばかりになって、さらに、開き直って、人に化けた幽霊が、本当の顔を表すように、みすぼらしく醜い素顔をさらすことになります。
 


エスの教える真理は、霊界の真理です。そして霊界は人間には見えないから、見える物質界にたとえて話しているにすぎないことになっています。
(同上、p.230)
 」
宗教教義は霊界理論であり、宗教的に考えるのは霊界的に考えることであるともいう。

 
キリストの教えが霊界の真理だけならば、信仰に生かされる人はいないはずです。実際は、霊界に溺れた楽山のような人が、救われない者の醜態を、悲惨な例として晒しています。
 


宗教形而上学理論の中心は霊界理論です。だから、宗教思考に導かれるというのは、霊界思考に入ることをも意味しています。
(同上、p.301)
 」
信仰とは神と波動を合わせることであり、それができれば神のエネルギーに満たされるという。

 
霊界思考に生きている楽山を見てください。これほど醜い人はいません。"神と波動を合わせる" などと言い出したら、おしまいなのです。
 
宗教と信仰について考えることは、人間について考えることです。それを、止めてしまった楽山は、もはや、人間らしい思考が何も出来なくなり、ただ、過大な自尊のために、歯をむき出して、臭い息を吐いて、よだれを垂らして、復讐を企んでいるのです。つまり、人間ではなくなるのです。
 


バイブルにおける「信仰」とは、物理的イメージで言えば想像霊の意識波動に自己の意識波動を協和させることです。そして、それが一定以上に実現されると、神の力(栄光)は、その信仰を通して発揮される、というのが基本思想です。
(同上、p.251)
(*注 「想像霊」は「創造霊」の誤植と思われるが、ここでは引用元そのママにしておく)
 」

 
心の欠片もない言い分が続いています。信仰の物理的イメージだそうです。信仰に、人に分かる物理はありません。比喩としては拙劣すぎます。神の基本思想?などと言われて、それを悦ぶ楽山は、あらゆる人間の道から、人間の理解から、遠くなった報いを、今、受けています。
 


神もまた霊ですから、相応の意識をもっています。そして同時にそこからは「いのち」エネルギーが放射されています。それを自らの霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要、という図式なのです。不協和なら、浸透しないことになっています。
(同上、p.75)
 」

 
神を対象にして、相応の意識を持っている、などと言える人間はいません。命は、エネルギーと同等に物理で論じることは出来ません。神は、人の論理の対象にはなりません。
 
「霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要」「不協和なら、浸透しないことになっています」・・どういう捏造の霊界物語なのでしょう。学ぶことに怠慢な者は、でっち上げで、自分は分かるんだ、自分は特別なんだ、などと吹聴してくる特徴は、楽山に顕著であります。
 
宗教から、お伽噺に、空疎な造語と豪語に、そして、果ては、インチキ占い師に堕して、最後は、路地裏の屍になるか、刑務所で一生を終えるのではないかと思います。
 


聖書の記述…「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです」(コリント二 12.2)については、次のように説明している。 
これは今日の心霊科学でいうと「幽体離脱」ですね。
(同上、p.74)
 」
本書は、日本的なキリスト教理解の問題点を指摘し、その一例として遠藤周作曽野綾子三浦綾子の作品の難点を指摘するなど興味深い箇所もあり、学ぶべきところは多々ある。

 
楽山は、自分は特別だと言いたいだけで、何も学んでいません。楽山が、ここに引用したかぎりでは、何も学ぶところのないインチキだと思います。その傲慢ぶりは、楽山に見られる訂正不能の霊の引き寄せ妄想と、それこそ、同じ波長を持っているのでしょう。
 
こういうことでしたか。楽山が、名のある小説家を、軒並み侮辱してきたのは、こういうベースがあったからでしょう。知が足りず情が曲がった者の意は、人間らしい知情意への復讐だということが分かります。もはや、既に、滅びているのです。誰も関わってはいけません。
 

けれども上のことからすると、これは一般的な意味での「聖書入門」というよりは、「スピリチュアリズム的解釈による聖書入門」とすべきではなかろうか。アマゾンのレビューでもこういう特殊さを指摘しているものがあった。スピリチュアリズムに馴染みのある人であれば本書の聖書読解に共感し信じる人も多いかもしれないが、一般の人は本書を読む際にはこの点について注意が必要ではある。

 
人間が、神の霊、即ち、聖霊を、いくら考えても、そのスピリチュアルは、如来の掌から逃れられない孫悟空のようなものです。
 
霊能者気取りが、魔人気取りと、肩を並べて、首を並べて、断頭台に座っているようなものです。決して、影響を受けてはいけません。神に対して人間としての身の程を弁えない者は、ここまで来るという例なのです。
 
楽山の霊性は、腐った料理にたかる蝿のようなものです。楽山の息は、できるだけ多くの人々を、伝染性の、人でなしウイルスに感染させることでしょう。
 
霊と超常は、神に任されるべきものです。それを、人が云々するのは、神のごとき自らを自慢したいからに他なりません。言論と真実への冒涜です。
 
(ネットより)
アマゾンカスタマーレビュー
偏っているからダメと断ずるつもりはありません。こういう本は、特定宗教団体や特定出版社から数多く出ています。これが好きな人もいるかも知れません。ただ、一般読者向けの「聖書入門」としてはあまりにも独断的で水準も低いというだけです。星二つは、その「トンデモ本」度に敬意を表したものです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R21WP0IVFK6Z8L/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4106004909
 
とても勝手な「トンデモ本」に敬意を表すのでしょうか。それとも皮肉でしょうか。楽山は、同じように敬意を欲しがっていますが、楽山という自己愛性人格障害には、いかなる癒しも、つける薬も、讃える名前もないのです。
 
 

    f:id:stdsts:20210418234245p:plain

                  獣性の叫喚
 
 
(2021年04月19日、同日一部修正)
 
 
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凶暴な詭弁2

 
  凶暴な詭弁2
 
 『憎悪の宗教 ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」』定方晟著
 憎悪の宗教―ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」
 http://mn266z.blog.jp/archives/24345230.html
 楽山日記(LD) 2020年04月12日 (再録+)
 
 
楽山は、獣性を抑制できなくなってきています。"聖なる憎悪"というのを肯定しているようです。神の怒りがどうであるかは、神に任されることです。私たちは、ただ、できることをしている姿を、神に捧げて、神の前でだけは正直に、祈るだけです。それが信仰だと思います。
 

タイトルから宗教批判の本だろうと見当をつけて読んでみたのだが、やはりその通りの本だった。この点、看板に偽りなしといえる。

 
これを、わざわざ書くというのは、強調でしょう。ようやくこの記事において、キリスト教批判が楽山の本質と本音であることが表れています。
 
すなわち、今までの丁寧語やボンヤリ言語は、総て、作為の、うわべだけの、騙しの、刷り込みの、嘘っぱちであることを、楽山本人が認めたことになります。
 
つまり、この記事によって、悪と敵意のモードに入っています。今まで、反省という言葉は使っても、反省が表れたことが一度もなく、一途にキリスト教とキリスト信仰を、子供だましの、実に軽く幼稚な筆致をもって、おとしめようとする意図だということを、楽山が表しているのです。それで、公共の場でも通用すると思っているのです。
 
このように、自己正当化の、訂正不能の、さらに、上から目線の、学者という他者の名による無責任筆致が、今まで、何の説得力も持たなかったのは、ナルシスト~サイコパスの、なんでも人のせいにするという、罪悪感と羞恥心の欠如、言い換えれば、良心の欠如によるのです。
 

自分の理解するところでは著者の主張はおよそ次のようなものである。聖書には、嫉妬、呪詛、復讐、虐殺などを肯定するかのような記述があふれており、その影響を受けた信者たちは歴史上、虐殺や破壊行為を行ってきた、キリスト教は表向きは愛を説いてはいるが、その裏には憎悪を隠している、聖書に基づく一神教は暴力的で危険な宗教であり、仏教の方がよほど平和的であり思想的にも深いものがある云々。

 
先ず、この記事は、さらに、この楽山ブログの宗教に関する記事は、楽山の、キリスト教への憎悪から、書かれていること。さらに他者の口を利用して、キリスト教を悪者にしようという意図が、今回は、はっきり表れています。
 
楽山自身の、嘘、偽り、詭弁、刷り込み、などについて、何の反省もしないで、楽山は、不遇だったから、そして、批判されたから、憎悪し、他者の口を借りて批判してくる、無根拠に貶(おとし)めてくる、という、この事実から、自己中という不都合を総て人のせいにする等々、今まで私が書いてきたことが実現しているわけです。楽山はホラーです。
 
キリスト者から批判されて、おのれを振り返る反省も節操もなく、私のせいにし、神のせいにし、また、キリスト教のせいにし、しかも今までのように詭弁の手段としてボンヤリ言語でごまかすことをやめたのか、と思ったら、このあと、また、理路にならない理屈を、引用元についても述べて、既に、助けを借りている引用元をなじり、結局、中立で正しいのは自分だけ、ということを出してくる卑怯さなのです。
 
敵と味方であろうとなかろうと、いちばん嫌で、いちばん関わりたくなく、いちばん、どんなに批判しても足りないと思うのは、"卑怯者"であります。
 
ナルシストが、いかに、悪意も持っているか、そして、にもかかわらず、いかに、自分を飾らないではおれないか、ということが表れています。
 

自分には、こういう著者の主張にはなるほどと思えるところと、違和感を感ずるところが二つずつあった。
まず納得できたところとしては、一神教と復讐の関係についてだ。前々からハリウッド映画などを見ていて、復讐ものがやたらと多いことを不思議に思っていたのだけれども、著者の主張からすると、どうやらこれには宗教が関係しているらしい。

 
楽山は、キリスト教を、映画の復讐劇で語ろうとしています。復讐は神に任せよ、とは言われていますが、それは、神の裁きに任せよ、ということを言っているのです。
 
まるで、人情の、刃傷の、殺し合いの、かたき討ちのような、憎悪vs憎悪に、神聖の裁きを持ち出した時点で、楽山は、アウトなのです。このように、楽山が、いかに、神を、自分より劣った人格のように見ているか、という証拠でしょう。
 
全知全能、完全絶対、永遠不変、という神を、人間には不可知という想定では気が済まず、楽山は、自分の、甚だ、みすぼらしい人間理解を、神に当てはめてくるのですから、キリスト者としては、たまったものではありません。
 
楽山は、神を手のひらに置きたがるほどの、欲望の人、そして、思考の貧困者なのです。勘違いを、勘違いであげつらい、勘違いと気づかず、満悦して、人の言うことを聞かないものだから、さらに、勘違いで勘違いを深く深く、直腸指診のように、臭く掘ってゆくのでしょう。
 

邦画では復讐ものといえば忠臣蔵が有名だけれども、その他はあまりないように思うし、仮にあったとしても、復讐は空しいだとか、恨み心では恨みは解けぬという方向に進みがちだ。

 
忠臣蔵をあげてきました。忠臣蔵は、たくさんの映画とドラマになっていますが、復讐を美化するだけでしょうか。復讐劇は、現代劇もありますし、多くの復讐劇は、そこに考えるべき人間の課題を提供しているのですが、ヒーロー気取りの楽山は、人間が考えるべき課題を、アドラー教に従ったつもりで、自分の課題ではないと思っているのでしょうか。
 

でもハリウッド映画など欧米の映画には復讐ものは多いし、和解、許しの方向に向かうことも殆どなく、主人公が復讐を成し遂げることで観客は爽快感を得る筋書きになっているものばかりだ。主人公が仇に向かって「地獄に堕ちろ」と暴言を吐くことも珍しくない。この差の背景に復讐を是とする宗教があるというのは、よく納得できる話だ。

 
楽山には、敵に向かって「地獄に落ちろ」というのは、ただの暴言でしょうか。復讐を果たさないとしても、人間は、公の裁きが十分に働かない場合には、敵に対する怒りと憎しみが増大するということに、それは正しくないと言うだけの評価と、単純な道徳であっさり否定して、何の共感も表現せず、言い得たと思う楽山なのです。深い意味を考えず、深い情感を感じないのでしょう。
 
こういうのを、一面的思考というのでしょう。しかも、それを、宗教と神に当てはめるのだから、楽山の、人間と、神についての、理解が単純すぎて拙劣すぎます。小学校のごますり優等生か。
 

もう一つ、なるほどと思えたのは、ユダについての話だ。著者によると、『ユダの弁護人』(イェンス著、ヨルダン社)という物語では、ユダは神に対してもっとも敬虔で従順であったがゆえに、イエスを裏切るという他の誰にも果たせないほどの大きな使命を与えられ、この使命を果たし神の計画を実現させて殉教したのだから聖人とすべきだという主張がなされているらしい。
これは冗談なのか、本気なのか判然としないが、すべては神によって予定されているとすれば、こういう主張がなされるのも当然ではあるだろう。

 
ユダが敬虔で従順であったということが聖書に書いてあるのでしょうか。書いてあるなら引用するべきでしょう。既に、楽山が、聖書を、まるで読み取っていないことが明らかになっています。
 
またしても、知恵の足りない、勉強も足りない、そのくせ思い上がる楽山は、ユダを英雄化したいようです。ユダが、金にこだわる男であったことは聖書に書いてあるのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:3
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
12:4-5
弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
12:6
彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
 (ヨハネ書12:3-6、新約聖書
 
楽山が「神によって予定されているとすれば、こういう主張がなされるのも当然」と書いています。反キリストの本性を隠さなくなったということです。楽山は、ユダが大好きな、キリスト教に対する破壊者であるという私の判断が証明されています。
 
ユダについて、同情できるのは、ただ一点、キリストを売って死に至らしめたことを、後悔していることです。ここが、いわば、性格としては、ユダと楽山の違いです。ユダは後悔する人、楽山は、他者を無視して、後悔しない人。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書
 

ユダであっても救われるという話は、『ライ麦畑でつかまえて』で読んだことはあり一理あると思ったのだったが、ユダは殉教者であり、聖人だという主張には驚かされるが、こういう主張は本当に興味深いものだと思う。ちなみに著者は仏教における提婆達多の評価と、キリスト教におけるユダの評価とを比べて、仏教の優位性を説いているが、このようなユダの解釈が出現したことで、キリスト教もようやく仏教のレベルに近づいてきたかのように書いている。

 
聖書を逆説的に解釈する、というのは、ゆくゆく参考になるかもしれない一つの解釈のあり方です。しかし、楽山は、悪意だけで、キリスト教を侮辱しているに過ぎません。
 
そして、キリスト教が仏教レベルに近づいてきたかのよう・・と言っています。楽山の破壊された理路において、キリスト教も仏教も、同じ尺度で単純に測れると思っている時点で、アウトです。楽山は、結局、自分を高めたいだけの男ですから、仏教の方々も、気をつけたほうがよいと思います。
 
楽山のお気楽宗教品評会は、総ての、真面目な宗教人の敵です。何も分からないくせに、鼻ヒクヒク高々に得意がって見栄を張ってきただけの自己愛性人格障害者です。どうか、楽山という、この果てしない自己絶対化の、ごまかし詐欺師と、このハンドルネームを忘れないでください。実名が分からないことに、楽山はしがみつくでしょうから。
 

次に本書のなかで違和感があった部分について書いてみると、まず一つは著者は仏教を理想化しすぎているのではないかということだ。歴史を振り返れば、仏教は公権力と深く関係したり、僧兵を抱えていたり、一揆とも関わっていたのであろうし、昨今でも仏教系のカルト教団が問題となっているだろうし、この点からすれば仏教は著者が言うほど平和的であるとは言えないように思う。また著者の聖書解釈は、その記述を最大限に悪い方向に解釈し、現代の基準によって批判を加えるという形になっているようだ。

 
褒めた後で、仏教を理想化しすぎ、と言っています。楽山は、自分はバランスが取れていて、偏りがない、と思われたいのです。褒めたり、批判したりが、同居しているのが、楽山です。つまり、こういう人の主張は、信頼するに値しないということです。
 
こういう筆致は、暫定的な結論さえ出せない、つまり、まとまった主張を持たない、という経過になってきたのでしょう。いい加減さが目立ってきて相手に出来ない者が、通ると思っているナルシストの誇大妄想の偽りがここにあります。
 
反キリストのシャロームが、身勝手信じ込みの醜い妄想的確信によって、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、人だけがするべき悔い改めを、神が与えたらする、と言って悔い改めないのを、楽山は、無条件で支持しています。まるで、でたらめなのです。シャロームと楽山は、ともに凶暴な、反キリスト、反宗教です。
 
なお、キリスト教系カルトというのは、キリスト教を曲解して出来ています。同じように、仏教系カルトは、仏教の曲解か悪用なのでしょう。両方とも、理解できないばかりでなく、反省もせずに、曲解しているのが楽山です。
 
宗教とカルト、両者は全然違うのですが、楽山は、カルトの問題があることを、仏教が平和的でないことの根拠の一つとしているところ、見逃さないでください。勝手に決めて、微に入り細に入り租に入り、表面的で、ゴシップ的で、一方、本質に入ることなく、万事、いい加減な詭弁家の、楽山です。
 

でも本来は聖書に限らず、古典聖典を理解しようとするときは、それが書かれた当時の状況を勘案し、かつその記述がどのように解釈され、実践されてきたかを考慮せずしては、正当な批判は行い難いのではなかろうか。

 
当たり前です。これに反しているのが、凶暴なナルシスト、楽山なのです。決して、気を許してはいけません。誰にとっても、出会うことが、そのまま、不幸としか言いようのない男です。ゆえに、楽山は、正当な判断をしているつもりの立場から言っているということです。論外の大嘘です。
 

著者の聖書解釈と批判はこの辺りについてはやや説得力を欠くところが無くもないし、巻末の寸劇は風刺、皮肉というより、ヘイトに傾いているのは残念に思う。

 
ここでも、分かるように、楽山は、まるで、自分を中立の高みに置いて批評する気分で書くのです。引用しておきながら、説得力を欠いて、ヘイトに傾いている、残念、などと、中立を装います。
 
いちばん説得力を欠いているのは、詭弁屋の楽山です。ベースには、人間と社会へのヘイト、即ち、憎しみと怨念があると思います。誰の役にも立たず、無機能、かつ、有害な、インテリ気取りです。
 
実際には、このことから、自分の言い分の根拠にした後は用はない、とでも言うような、他者を使い捨てと見ている楽山の自己中と底知れない悪意の魂胆が見え隠れしているわけです。
 
楽山は、自分だけは、キリスト教よりも、仏教よりも、中立だから出来がよいとでも言いたげな、自慢と慢心があることを見逃さないでください。楽山は、中立ではなく、どこにも、よって立つ所がない人なのです。楽山ブログは、自慰行為に過ぎません。
 
そして、このような魂胆を見るたびに、私は、楽山に対して、一片の同情の余地もない病質者であることを再確認するという経過となっています。
 
自己修正不能の楽山とシャロームが反面教師として残す教訓は、人間が自分を絶対化すると、このような思慮と情緒の人格破壊が進むということです。ここが、自己愛性人格障害という病と、単純に自慢したがる性格特徴だけの人との、決定的な違いです。
 
楽山とシャロームについては、同一人物の成りすましも、疑うべきかもしれません。
 
単純に自慢好きなだけの人というのは、自慢するけれど、自分のせいで大きなトラブルが起きたりすると、打って変わって、驚いて、慌てて反省もするでしょう。それと楽山は全然違います。
 
そういう、がっかりして、後悔して、反省して、というのが、全くないのが自己愛性人格障害です。そして、彼らは、柔和を装います。うわべの丁寧語を真に受けないでください。
 
ひどくなれば、人を傷つけ、殺しても、罪悪感が湧かず、むしろ、笑っていられる人格です。犯罪行為に及べば、警察の仕事になります。それ以前に、できることは、批判だけでしょう。
 
 

     f:id:stdsts:20210417235648p:plain

                     凶暴
 
 
(2020年04月25日、同日一部修正)
(2021年04月18日、再録+加筆)    一応推敲済み
 
 
 
  偶像イズム
 
イズムがあふれている
思想ならばいい
倫理でもよかろう
人には考える自由があるのだから
人の知恵であることを知る限りは
それゆえ間違うこともあると
知っている限りは
 
主イエスを慕い
我が主と呼びながら
腹の中にある
偶像の腐敗を
まだ消化しきれずにいる
それに気づいていながら
まだ気づかないもののために
私は癒しと恵みを受けながら
主を裏切り続けている
 
思い上がってはいけない
主の御名をみだりに唱えてはならない
 
信仰が
限りある人の知恵と知識を振り回し
神の御名の下に命令を掲げるとき
その信仰は
思い込みか偶像である
 
本質的なところでは
信仰は
○○イズムになるような教条ではない
 
多くの宗教人が信仰の名の下に
そして間違うことのない絶対者の名の下に
間違っている
 
 
弟子たちは
ゆくゆく誰が一番偉くなるか
などと思っていたが
 
主は人の罪を贖うために
その生涯の結末もご存知であった
総て承知の上で
地上に来られたのである
 
 
(大昔の作)
 
 
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教条主義

 
  教条主義
 
 
教条は、心の面倒を見ない。
 
教条化した思想は、心の面倒を見ない。
 
教条化したイデオロギーは、心の面倒を見ない。
 
(ネットより)
きょうじょうしゅぎ
教条主義
権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振りまわす態度。独断論
▷ dogmatism の訳語。
「教条主義」Oxford Languagesの定義
 
ここで、杓子定規とは、書いてある言葉を、文字通りに受け取って、人間として中身を吟味せず、その通りに守っていると思い込み、行動が、画一化、儀式化することを表している。
 
偽善の多くが、教条主義の所産である。そして、偽善は、悪が善のふりをすることで、悪よりも、悪性度が高い最悪である。
 
その典型例は、聖書のパリサイ人の戒律主義に見られる。パリサイ人は、定められたとおりに実行したと思い込み、人間の心を忘れていた。よって、キリストにとって最悪の敵となったのである。
 
多くの思いは言葉で表される。言葉は伝達のための暗号である。つまり、ダイレクトに思いを伝えているわけではないことを弁えておく必要があるだろう。
 
しかし、暗号である言葉に頼らなければ生きるのに支障をきたすことも明らかである。口頭や書面で話が出来ない人は別の手段を工夫し、何とか伝達する手段を持つことになる。
 
人によって、時によって、状況によって、言葉の表すものは違ってくる。思想・哲学・宗教・信仰など、人文系では、特に、そうなってくる。
 
真実と言っても、ある分野の正解であったり、それを目指す心がけであったり、当為と事実が混同している場合もある。
 
神は偉大であるといっても、その偉大さを、人はつぶさに知ってはいない。神を信じている、という意志表示に過ぎない場合がある。神の偉大さを知って信じるのではない、しかし、神の偉大さに触れて信仰に至ることはある、などというように、言葉による表現は、曖昧であることが多い。
 
しかし、それは、変えてはいけないと思い込み、同じ言葉に基づいているから正しいと思い込むところに、教条主義は生まれてくる。
 
そこで、失われるのは、人間的な情感であり、さらに、人間的な配慮であり、言い換えれば、良心の所産が、損なわれてゆくといってもよいだろう。
 
すなわち、思いやり、罪悪感、悔いる心、反省、罪を認めること、などがあり、これらが欠けてゆくと、救いの教条と思ったことが、災いをもたらすこともある。多くは、言葉を盲信することで、その込められた心を、損なってゆくのである。
 
また、教条主義に陥ると、直観的に、または、直感的に、おかしいと気づけることを、心が無いために、気づかず、言葉に沿っているから正しいと思ってしまうことがある。
 
典型は、やはり、パリサイ人である。また、理屈倒れになって、人間として必要なことを汲み取れないで、慢心して言い張るということもある。
 
人格においては、訂正不能の教条を持ってしまうと、自己愛性人格障害として、非人間的な言動が目立つようになる。進行すると、論理性が、辻褄合わせになり、さらに、故意に合わせるために、的外れな理路になったり、人間ならば分かるはずのことが分からなくなり、無理を押し通す欲動となって、破綻してゆく。実際は、とても不自然な言動となって表れるだろう。
 
思想・宗教・信仰に関わる人々は、このことを、しっかり心に留めておかないと、自分の人格を損なうだけでなく、他者の人格を傷つけてゆくだろう。
 
教条主義に陥っている自己愛性の人格は、根拠に基づく説明や説教が出来なくなってゆく。いつのまにか、自分を、教条に沿っている自覚から完璧だと思うようになり、何事につけ自己正当化をして、修正不能となって他者の意見を聞かなくなり、教える立場の自覚から、受信をしなくなり、発信だけをするようになる。
 
そして、人間らしい考え方や感じ方が出来ないので、生き方にも破綻をきたすことが多いだろう。理路も情緒も深く考えたり感じたりすることが出来なくなって、単純化しやすく、短絡しやすく、不祥事や欠点を、反省せず、ことごとく、他者や相手のせいにする特徴を持つ。
 
心から、思いやり、共感、感動、罪悪感、反省力、修正能力などが欠けてゆき、学習せず、成長せず、批判や苦言に対する反応として、怒り、恨み、憎しみ、怨念などの陰性の感情が目立ってくる。
 
その例は、やはり、聖書のパリサイ人であるが、卑近なところでは、長らく批判してきたところの、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、さらに、恐らく、多くのカルト教祖と信者も似たような人格の変容を来たしやすいだろう。
 
自己愛性人格障害が先なのか、狂信が先なのか、分かりにくい場合もあるが、どちらも、人格にとって、言動において、人間関係において、破綻をごまかしてくる場合が多いことに注意するべきである。
 
一見、柔和で、やさしい人柄に見せかけてくることが多く、自身もそう思っていることが多いと思う。多くは、芝居がかっていて、問い詰めると理路の破綻から馬脚をあらわすことになるが、人によっては、だまされたまま、似たような人格になってゆくことが、大きな災いである。
 

 
心が壊れてゆく教条主義自己愛性人格障害、そして狂信、などについては、今後も、考察を続けるつもりです。
 
 

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           人格破壊
 
 
(2021年04月17日)
 
 
  言質(げんち)
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
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