ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山メモのあとさき

 
  楽山メモのあとさき
 
 『青春詩集 愛のあとさき』大川隆法
 2021年07月18日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 http://mmknky21.blog.jp/archives/10292269.html
 
 
こういうのに、感想を書いて見せてくる理由が、よく分かりません。HS批判にはなっていないようです。楽山がアンチHSというのも疑わしいということでしょう。楽山は、自分は詩が苦手ですと言っているようなものです。なのに書いてくるのです。
 

*感想
『愛のあとさき』をざっと見たので感想をメモしてみたい。

 
メモと言いながら、いつも、何かを狙って記事もツイッターも書く楽山です。メモだから責任負わないと言っているのでしょうか。ここでは、詩が分かるんですアピールなのでしょうか。でも、詩は、一つも引用されていないのは、批評できないからでしょう。
 

本書の中でもっともよいと感じたのは、水晶のようにという作品だった。
前半は孤独な若者の詩、後半はスピリチュアルにハマった若者の詩といった雰囲気である。

 
いや、やはり、霊を絡ませてきました。ORの詩です。それにしても、中身の詩が一つも引用されていないし、楽山の、いい加減な言葉で、感想みたいな、まとまらない内容で、書いて、訴えてくるものが何もない、という変な記事です。
 

全体的に自己愛、自意識過剰、ナルシズム臭が強い。たとえていえば、役になりきっている舞台役者というより、役を演じる自分に酔っている舞台役者という感じ。

 
そのまま、楽山のことです。人のことを言えば、気が済むのでしょうか。
「自己愛」「自意識過剰」「ナルシズム臭」・・楽山に、いつも感じることです。
「演じる自分に酔っている舞台役者」・・楽山の三文芝居と符合します。
 
自己愛性パーソナリティ障害の楽山は、このようにして、他者を下に見て、批評することで、誰とも本当の人間関係を気づけない欲求不満を解消しているのでしょうか。自分が上だと言いたいのでしょうか。そのとばっちりのように、他者の良心を傷つけてきたのです。
 

オノマトペがやたらと目につく。
性愛に関する表現が多い。女性の描き方は、青年らしく女性を理想化してその聖性を賛美するというよりは、処女がどうとか、胸のふくらみがどうとか性愛がらみが多い。

 
なぜ、こんなことを書くのでしょう。対象をおとしめるためかもしれませんが、楽山が、この2年余りの間に書いたものには、性愛の話は、殆ど、なかったような気がします。対象が、つまらないことを書いていると言いたいのでしょうか。
 

預言者と神のちがいについて触れた最後の詩は、説明調になっており、詩というより説法のようだ。
巻末に掲載されている著者の商社マン時代の文章は、「幸福になれない症候群」など初期の文章と同じ文体に思えた。文章としては、最近の講演録よりは、こちらの方が上等だろう。

 
「幸福になれない症候群」というのは、ORの本にあるようですが、楽山に当てはまると思います。無反省で無責任で嘘吐きならば、まともな人間関係は気づけないからです。楽山は、自身をアンチと言いながら、上等と褒めているようです。
 

HS本の表紙はすきになれないものが多いが、本書はよいと思う。ただこの表紙は男性著者よりは女性著者の方が合っているのではなかろうか。
以上、本書を読みながら思ったことは大体こんなところである。
*「デザート」と「イチゴの日」
余談ながら、ツイッター上にて、本書の「デザート」は、筒井康隆の「イチゴの日」(『薬菜飯店』収録)と似ているという指摘があったので確認してみたら、本当にその通りだった。
ただし、「イチゴの日」の初出は、『小説すばる(昭和62年冬号)』だったらしい。
「デザート」は、1956年生まれの大川隆法28歳のときに発表(昭和59年)したのであれば、「イチゴの日」よりこちらが先だろう。
筒井康隆が一商社マンの自費出版本を読んだとも思えぬし、とすれば両作品に似たところがあるのは偶然ということのようである。

 
誰をも守ろうとしない楽山が、ORを擁護しているようです。そうでなければ書く必要のないことでしょう。そもそも、この記事自体を書く必要がどこにあったのでしょうか。また、自己顕示欲で、見栄を張っているのでしょうか。
 
以前、楽山は詩のようなものを書いて載せていたことがあります。お世辞にも上手とは言えませんでした。楽山に詩の感想は無理だと思います。あとさき考えないで、書けば、よく思われるとでも思っているのでしょうか。
 
「メモしてみたい」というメモを、なぜ、公開して、人に見せようとするのでしょう。独り言でも自分のは価値があると言いたいのでしょうか。公開すれば、自分は詩は書けません、読めません、と言っているようなものです。
 
自己顕示欲が表れている以外、内容の薄い記事でした。他者のことを批評すること自体に、何やら、興味があるようですが、大方、何らかの欲求不満があるのではないかと思います。感想を書く目的と必然と動機が、とても曖昧です。ボンヤリ感想文とでも言うべきでしょうか。
 
批評でも批判でもなく、メモというのは、今まで、書いて自己顕示してきたから、書けないことを認めたくないのかもしれません。その割に、ずっと、理路も共感もないメモ的な文章を、学者や有名人の名前を出して、書いてくるのは、論評している気分に浸りたいのでしょうか。
 
 

    f:id:stdsts:20210720005826p:plain

             詩の感想に詩が載っていない
 
 
(2021年07月20日)
 
 
 
  バザー
 
一人目は
粘液の滴(したた)る
目の粗い袋を持ってきた
ホームレスの
今は亡き人の形見だという
二人目は
汚れたハンカチを
行方知れずの
鬱(うつ)病者の残した物だと
三人目は
机に向かったまま頓死した詩人の
曲がって途切れた線
しか書かれていない原稿用紙を
四人目は
描きかけて破いた絵の切れ端を
五人目は
レンズの割れた眼鏡を
六人目は
底の抜けた柄杓(ひしゃく)を
七人目は・・・
 
バザーは日曜日に催された
セーターや上着
家具に調度品
その他いろいろ
晴れたこともあって
花が咲いたように
家族連れで賑(にぎ)わったという
 
(90~2000年代か)
 
 
むかし思いついた替え歌の一部。
 
 ササエさん
 
おサカナくわえて街まで
出かけたが
ハダシでかけてく
陽気なササエさん
みんなが笑ってる
お日様も笑ってる
ルールルールル
今日も能天気
 
(さすがにハダカとは書けなかった)
 
 
 私の学生時代
 
ツタの絡まる校舎で
おんなじように絡まっていた
夢多かりしあの頃の
思い出をたどれば
懐かしい友の顔や
あんまり懐かしくない顔が浮かぶ
重いカバンを抱えて通ったあの道
夏の日の図書館の
ノートとインクとヨダレ
過ぎし日よ私の学生時代
 
 
(90~2000年代か。もちろんフィクションです)
 
 
  解脱
 
解脱という言葉がある。
仏教用語である。詳しいことは知らない。
辞書を引くと煩悩を超越して安らかな境地に至ること、とある。
単純にそういう意味として考えてみる。
 
ペテロやパウロを始め使徒・聖徒と呼ばれる人たちも
ひょっとしたら似たような境地にあったかもしれない。
彼らは伝道に生き、欲に生きなかった。
しかし欲が無かったわけではないだろう。
まして死ぬのはやっぱり怖かっただろう。
それでも殉教の覚悟で主の道を彼らが歩んだのは
イエス・キリストの愛と縁が彼らの恐れに勝ったからであって
それは極めて人間的な反応であったと思われる。
 
彼らは自らの力で自分を越えたのではない。
彼らは自分の裏切りと罪をしばしば思い出した。
そして自分の無力を誰よりも知っていたはずである。
 
全てを悟っているという者に何を告げる唇があろうか
全てを知っているという者に何を聞く耳があろうか
また全てを悟り知っていると言う者が何を教え得るというのか
全てを知っている者がどうして自分以上のものを作り出せ得ようか
自分以下のものを作るのなら全てを知っている必要はあるまい
人の知恵にすぐれていればできることであろう
 
不全なる人に完全を教えても無駄であろう
教えて全てを知るようになるのなら
どうしてこの世に人が住めようか
もはや何も迷うこともない代わりに
もはや何も考えることもないではないか
 
何故に人は人であるのか
しばしば間違えたり
誘惑に負けて
赤子のように神様に試されてひっくり返り
こぶだらけ、傷だらけの者たちを
神に愛された人と呼ぶ
 
全てを悟り知っている者がいたとしたら
ただそのことだけで満足して
誰にも会わず誰にも語らずにいるであろう
これは煩悩よりも苦悩と罪に満ちた無為であり無である。
何故にこのようなことを私は言うのか
私の中にしばしば
いかがわしい解脱者・超越者への欲を見るからである
 
 
(90年代か)
 
 
 
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手の付けられない楽山

 
  手の付けられない楽山
 
 神秘体験は経験的方法によって判断すべきこと
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月18日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29844225.html
 
 
楽山は、批判と反対のことを書けばいいと思っているのでしょうか。楽山の体質は、勘違い→妄想と自己中→しばしば狼狽して相手を妄信者と言う生業です。楽山が言う妄信には根拠がなく、私が楽山のことを自己愛性人格障害NPDと言う精神病質については、根拠を示しています。
 
その根拠を、病識のない楽山は、読解できないために、こちらを妄信と呼んでいるのでしょう。妄信は、自分信仰の楽山のことです。そういうことしか書けない楽山だから、ネットの言論を乱すだけなのです。楽山は、混乱に乗じて、読者に自説を刷り込もうとしているのでしょうか。
 
反省と書いて反省しない、共感と書いて共感を表していない、分かったと書いて詭弁を続ける、とほほと書いておいて、今また、反省もせず、引用元の言葉を自己満悦のために引用~悪用する、否定と思えば肯定、どちらも断定していないからと、一切、責任を負わない、それが、楽山です。
 
神秘体験を主張するのは、一部の人たちでしょう。そこには、楽山のような霊が分かるっぽいなどと言う偽者もいるでしょう。一般化できないことなのに、「経験的方法によって判断」など出来るわけがないのです。書けば書くほど、おかしさが増してくる悪魔性の病者が楽山です。
 

*経験的方法による判断
『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、神秘体験は「天使と蛇」が住まう潜在意識から生じるものであるから無批判に受け入れてよいものではなく、天使と蛇どちらによるものなのかを慎重に判断すべきとしている。

すなわち、「天使と蛇」とがそこには並んで住んでいる。この領域から出て来ているということは絶対に確実な信任状ではない。そこから出て来ているものも、外の感覚世界から来ているものとまったく同じように、ふるい分けられ、吟味され、経験全体との対決という試練を経なければならない。私たち自身が神秘家でないかぎり、神秘主義の価値は、経験的方法によって確かめられなければならないのである。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 」
神秘はこの世の原理では判断できないとするのではなく、経験的方法(科学的合理的な方法?)によって判断でき、確かめなければならないとしているところは興味深いところである。

 
楽山は、狂ったのでしょうか、・・まあ、前からですね。神秘体験は「天使と蛇」というのは、まだ、お伽噺でしょう。楽山には天使の要素がなく、蛇の要素または悪魔性だけがある人です。神秘を、「経験的方法(科学的合理的な方法?)」よって確かめるのだそうです。正気ではない。
 
科学的合理的なら、それこそ、とっくに、どこかで議論され、どこかで紹介され、多くの本やTVなどメディアで取り上げられているはずです。誰からも見向きもされない楽山が、我を張るために、確かめられるんじゃ!・・と、孤独な部屋の中で、布団に顔をうずめて叫んでいるイメージです。
 

*霊言の真偽についての判断方法
ここで思い出すのは、佐倉哲氏による「霊言の真偽についての判断方法」である。

霊能者は、だれも知ることのできない「死後の世界」とか「霊界」とか「未来の世界」などについてのみ語っていれば、どんなデタラメを語っても、それがウソであることはだれにも証明できません。しかし、霊能者も人間であって、ついつい、地上の世界について喋ってしまうことがあるようです。地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます。幸福の科学の教祖大川隆法さんは、その著『内村鑑三霊示集』のなかで、内村鑑三の霊として、霊界のことだけでなく、つい、地上の世界(イエスの生誕や聖書)についても語られています。そのために、キリスト教の歴史やユダヤ地方の気候や聖書の内容についての無知が暴露し、その霊示のウソがばれてしまっているのです。
大川隆法の霊示『内村鑑三霊示集』のウソ - 佐倉哲エッセイ集
 」
こうしてみると神秘現象はこの世の原理では分からないとは言い切れず、現実に関連した部分については十分に経験的科学的に判断可能であるといえる。

 
「地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます」ならば、嘘吐きの楽山は、霊能者として全く成り立たない人ということになります。自分が、本に斬られていることに、やはり楽山は気づかないようです。だいたい、こういうことが楽山の常です。

  
現実に関連した部分に限られるわけです。神秘が結果として人間に表れる部分だけです。詭弁に惑わされないようにしてください。つまり、神秘体験の中心や理路などは、謎のままです。無条件に自分を霊能者だと認めてほしいがゆえの、でっちあげであり、本態は、楽山の詭弁の誘導です。
 
神秘が本物か偽者かは、神秘が及ぼした地上の人間の有り様からも、ある程度、判断できるということに過ぎないです。つまり現象からの推測に過ぎません。楽山は、無反省、無責任、無神経、無理解の凝固した人物であり、ゆえに、楽山の語る神秘は、ペテンであり、偽物であります。
 

霊言を信じる側からは、この世のことを間違ったからと言って、その霊言は偽物だとか、下等なものだとは断定できないという反論もありそうだが、この地上の事実関係ですら間違うのであれば、この地上を遥かに超えた高次元のことを間違わずに語ることができる可能性は低いとみるのが穏当な結論ではあろう。

 
事実関係、理路、節操、共感性、いずれも、楽山は詭弁以外、何も持ちません。まさに、楽山が、偽物を語る偽者だということです。自分が掘った穴に落ちてゆく楽山が、当たり前に、表してくる発言から、嘘と詭弁を指摘して、批判してきたのです。
 
つまり、「この地上の事実関係」において、間違いというより、故意の悪意の悪魔性の、妄想的自己愛の結論を訂正不能に刷り込もうとしているのが楽山であり、ここでも、ブーメランのダメ出しを食らって整わない楽山自身が「高次元を」語るに値しないことを表しているのです。
 

*信仰の義務はない!?
『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、重ねてこう断言している。

私はもう一度くり返して言う。非神秘主義者が、神秘的状態を、優越した権威を本質的に授与されているものと認めるべき義務はないのである、と。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 」
熱心な宗教信者、神秘主義者のなかには、誰に対しても神秘の権威を主張し、ひたすら信じよ、信じよといって信仰を強要しようとする者もいるが、非神秘主義者にはそれに従わなければならぬ義務はないのである。

 
何を言っているのでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山ですから、楽山こそ神秘主義者です。この記事は、神秘、あるいは、非神秘、どちらを言っているのでしょう。何よりも、愚劣な楽山に対しては、いかなる神秘も霊能も認めることはないのです。決して従ってはいけないのが楽山です。
 
神秘の権威を、遠回しに、いつも、言っているのは、楽山です。私は、ひたすら信じよ、とは言っていませんし、言っている人が他にいたとしても、楽山は、答えるすべがないのです。楽山は、自らの霊能から自己正当化という神秘?というより矛盾を、この2年間余り、振り回してきたからです。
 

これは当たり前のことだが、一部の妄信者はこの当たり前のことを理解しないのだから残念である。著者もこういう事例を承知しているから、この種のことを繰り返し書いているのだろう。

 
このように、自分が言われそうなことを、「理解しないのだから残念」と、相手に当てはめる詭弁です。自分は大丈夫という根拠を、ずっと、欠片も証明していないのです。代わりに、嘘と詭弁の卑怯な粘性のゴミをブログという丼いっぱいにネチネチさせて食わそうとしてきたのが、楽山です。
 
 
 高級な神秘体験とそれ以外の神秘体験、およびその見分け方
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
  2021年07月18日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29844030.html
 
 
楽山の、多量の放屁が、臭いです。
 
2年余りの批判を受け取らずに、考えずに、無視して、書いて来れることが、既に、良心のない証拠であり、人を人とも思わないで、意地の悪いことをして快感を覚えるというサディストであり、精神病質サイコパスであることの証しなのです。
 
神秘を人が理解することは出来ないのに、分かっているふうを装い、その分別めいたことまで語ろうとする楽山は、演技的な悪魔性のサディストです。理解力も共感もない者が、背伸びして、学者気取りで語ると、実に、みっともないという症例です。
 

*高級とはいえない神秘体験の特徴
『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、神秘体験には高級とはいえないものもあるとしてその特徴について書かれていた。ここにメモしておきたい。

妄想的な精神病を教科書ではときどき偏執病と呼んでいるが、これは一種の転倒した宗教的神秘主義で、悪魔的な神秘主義と言えよう。ごく些細な出来事を言いようもないほど重要なことと感じたり、聖句や言葉が突然に新しい意味を帯びてきたり、声なき声を聞くとか、幻を見るとか、指導力や使命を感ずるとかしたり、外部のちからによって支配されたりするとかする点では、さきの神秘主義と少しも変わりがない。ただ今度の場合には、感情が悲観的なのである。すなわり、慰めの代わりに私たちはやるせなさを感ずるのである、啓示の意味するものが恐ろしいものであり、力は生命の敵なのである。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、pp.254-255)
 」
この基準に従うならば、負の感情を抱かせるような啓示、神秘体験には注意した方がよさそうではある。

 
楽山の霊能と神秘の話は、まさに、「注意」が必要というより、決して受け取ってはいけない悪魔性のものと言えるでしょう。嘘吐き楽山は、断末魔的に、いっそう凶暴になってきたようです。もっともっと、孤立してゆくように、誰も相手にしないことが大事です。
 
高級な神秘体験があるなら、低級な神秘体験もあると言うのでしょうか。低級なものを、神秘体験に入れているのでしょうか。詭弁臭いです。中には、楽山の霊が分かるっぽい体験のように、まるっきり嘘吐きの見栄っ張りもあるのだから、偽りの神秘と呼ぶべきでしょう。
 

*高級な神秘体験
では高級な神秘体験についてはどうかといえば、著者は次のように簡潔に述べている。

高級な神秘的状態は至上の理想を、広大さを、合一を、安全を、そして至上の休息を教えている。
(同上、p.258)
 」
どうやら高級な神秘体験は人の心に安らぎを与え、幸福にするものであるらしい。

 
人の心に安らぎを与える神秘は、安らぎの源として感じられて信仰の可能性があります。決して、楽山のような、孤独な神秘オタクや、無責任に無反省に災いの妄想屋のように、神秘、神秘と吹聴する必要はないのです。
 
神秘は、神秘を理解できない人間には、秘密のうちに働きかけます。ゆえに、神秘、神秘○○、などと吹聴する楽山は、その時点で、真っ赤な偽者であり、書けば書いただけ、インチキ宣伝だということ自ら証明し続けてゆくでしょう。
 
楽山は、自らの人間としての尊厳ある命を、反キリストとカルトの病質的精神で、嘘と詭弁のペテンの技に置き換えてしまった人です。楽山の記事を読むたびに、元には戻れそうにないと感じます。楽山が書いて、それを読むたびに、進歩も成長もない訂正不能で不治の病質の災いを感じます。
 
もはや、バレているのに、苦し紛れに、2つも記事を書いても、いっしょです。楽山は、インチキ神秘気取りでしかないのです。楽山から、安らぎも幸福も生まれません。この2年余りで幸いの予兆さえ全く見られず、代わりに、人格破壊の病原となることが明らかになっています。
 
楽山は、偉そうな様々の気取りを表してきました。それらにおいて、いつも、偽者でした。つまり、偽評論家、偽読書家、偽学者、偽インテリ、偽アンチカルト、偽宗教家、偽言論者、偽政治思想家、偽スピリチュアル、偽霊能者、・・と言ってよいでしょう。
 

*応用

 
楽山は、神秘を応用できるのだそうです。神秘、神の秘密に対して、何の恐れも感じていない、心ではなく、毛の生えた心臓の絶対性不整脈となっています。言葉で交わろうとすること自体が無理かつ無意味というものであり、楽山の言葉は、人を安らぎから遠ざけるヌルヌルの汚物です。
 

これらは神秘体験の分類法としてはもっとも簡便であろうし、神秘体験のみならず宗教の見分け方にも使えそうではある。高級な宗教は他との一体感と安らぎを与え、そうでない宗教はやるせなさ、恐怖などの負の感情を強く抱かせるなど。

 
楽山の語る神秘も宗教も、破壊的な疲労を与えるだけです。楽山が病質者である証明はそれだけで十分でしょう。いつまでもネットにブログにツイッターにしがみついて離れない執念は、自己愛性パーソナリティ障害から来ていて、安らぎを与えることのない惨劇であります。
 

神秘・宗教の正邪について、自分の情感だけで断定してしまうのはいささか安易にすぎるきらいもあろうが、それでもこれは一つの目安としては有効ではないかと思う。

 
情感のない楽山が言っています。楽山は、知情意が一体となっていることも知らないのでしょう。当然、思考も整わず、思いつきを語る以外なくなっている楽山です。今回、多量の放屁です。真実の追求においては、「目安」どころか、邪魔でしかありません。
 
ゆえに、安易な思い付きしかない幼稚な楽山は、個人の愚痴か秘密として、秘密のノートに書いて、死ぬまで独り笑いで満悦してください。今回、多量の放屁です。真摯な信仰者にとっては、惑わしとなる悪性によって、非常に迷惑です。
 
 

 
キリストは、処女懐妊とか、数々の物や肉体の奇跡とか、復活とかの、超常物語の主人公ではありません。それだけなら、心に響くことも、共感できることもなかったろうし、人の心に神の愛を伝えることも出来なかったでしょう。つまり、新興宗教に過ぎなかったでしょう。
 
キリストは、知る限り、最高の、人を見抜く洞察力、人に対する共感を持ち、そして、神の愛について最高の理解を知っておられました。そのことを抜きにして、キリストを語ることは、決して出来ないのであります。
 
決して、楽山ごとき半端者に、云々されるような御方ではないのです。
 
 

      f:id:stdsts:20210718235526j:plain

                 偽者が狂い出す
 
 
(2021年07月19日)
 
 
 
  奔流
 
警鐘は朝霧の森の中に吸い込まれてゆく
鳴らす者は余計な波風を立てて
小舟に乗って沈むために
人気のない入り江から漕ぎ出でる
 
しばしば逆流する川の上流には
歳を偽って村人を名乗る者たちがいて
沼の味覚にのめり込んでは
鏡を震わせ抜いて
しきりに白髪を流す
薄くなった髪を洗うそばから
流れ出すのは顔の方だ
 
うら若い髪の血痕を
拭うことのできないスナイパーとテロリストが
礼拝堂で出くわしてしまう
兄弟よ このようなベルトの上では
手も足も不要だ
 
未来の神話を語りながら
白々しくも欺いて殺し合えずに
拳銃を実は十字架をポケットの中に握り締め
耳を切り裂く沈黙の中に
谷間の街のしがらみに向かって
夥しく浮き沈む白い眼(まなこ)の
奔流の中へ再び身を投じる
 
 
  油断
 
ユーモアがペーソスを孕んで
並木道をふわふわ舞っている
そんな空気にのんびり
吸われながら歩いていると
いきなりビュッと
残酷なギャグが切っていく
切られたものが見当たらない
 
見えないところで切られて
見られないまま消えたのか
まぶしいのに曇っている
目の上にピッ
何かが撥ねた
一滴だけの雨?
ひやっとする
あるいは血かと
 
ふと笑いすぎて昔
微笑むことを忘れたひととき
を思い出す
 
額に残る一筋の感覚
目を狙って
放たれた鋭いもの
少しく外れて
皮肉にも生き残る
 
 
(90年代か)
 
 
 
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楽山のネトウヨ刷り込み

 
  楽山のネトウヨ刷り込み
 
 『昭和風雲録』満田巌著
 2021年07月17日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29834414.html
 
 
過激な右翼思想家のA級戦犯を讃える記事を書いたことのある楽山が、ネトウヨぶりを表しています。楽山のような信頼のおけない人が書いても、誰かを目覚めさせることはないと思います。何故なら、楽山自身が、目覚めてもおらず、まともな活動もしていないからです。
 
著者の満田巌については、検索しても、はっきりと詳しく書かれているサイトがありません。定かではないようです。有名人かどうかも分かりません。昭和史上の右翼の暴発について、参照されることのある本のようです。
 
楽山は、説明や解説の出来ない人なので、著者について書かず、ただ、読んだぞ、聞け・・とでも言うのでしょうか。人間性と情感が乏しく、自己中だけが強いと、このような書き方になる、という見本になるでしょう。
 
しかし、自分の意見のまとまらない楽山は、引用だけといってもいいような記事になっています。自分で、理解しようとしない、理解できない、でも、書いて自己顕示したい、という楽山の特徴が表れています。それにしても、右寄りの一面的なことばかり書いて悦に入る呆れた心境です。
 

*概要
戦前戦中の考え方を知りたいと思ったので、昭和20年3月15日第26版(初版昭和15年)の本書を調べてみた。ざっと全体を眺めてみると、前半は第一次大戦後の日本は既得権益の確保を目論む米英から平和軍縮条約を押し付けられ、満州では排日運動が激化し、双方から圧迫されていたこと、

 
「戦前戦中の考え方を知りたい」と思って、読めば、知り得るのでしょうか。こういう偏った読書を宣伝したいのでしょうか。「目論む米英」「押し付けられ」「圧迫されて」・・当時の日本について、外国を悪者扱いしている楽山の、他罰的な右翼政治思想が表れています。
 

後半はそのような状況を転換させようとする者たちが昭和血盟団事件、五一五事件、神兵隊事件、相澤事件、二二六事件などを起こしたこと、最後は満州事変、国際連盟脱退などについて触れており、真珠湾攻撃前夜の様子がよくわかるものになっている。

 
右翼についての本を読んで、楽山は、ネトウヨならでは・・と言うべきか、気安く、昭和の流血事件について、あっさり「よくわかる」と書いています。ネズミのように、こそこそと立ち回り、嘘を吐く活動しか出来ない楽山は、右翼の怖い勢いだけであっても借りたい心境なのでしょうか。
 

*繰り返し
本書中、著者の考え方として特に興味深かったものは次の通りである(旧字は新字に変えた)。

 
どう興味深かったのでしょう。書けば、ネトウヨぶりが表れるので書かず、引用だけで、まともに見せかけようとしているのか、メモだけならば、公開する必要はないのです。引用だけの奇妙な刷り込みで、自尊過大を表す楽山です。
 


某代議士の如きは「軍備といふ如きものがあるから、戦争が起るのである。よろしく軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つであろう」とまで極言した。しかし、雨降る故に傘あり、傘ある故に雨が降るのではない。かくの如き非論理的な暴言が堂々として吐かれる程、当時の非戦的気運は圧倒的であった。
(『昭和風雲録』満田巌著、新紀元社、昭和20年、p.50)
 」

 
「軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つ」という考えの愚かさを暗示したいようです。かといって、軍備を増強したら戦争はなくなるということでもありません。陳腐な揶揄を書いて、楽山には、建設的な意見は皆無なのです。
 


ワシントン条約ロンドン条約等は、世界を去勢せんために米英現状維持国が企んだ平和攻撃の一手段であり、国際連盟、不戦条約等と密接に関連するものである。米英現状維持国は、一に平和を鼓舞し、他に軍縮を高唱して、自己の優越的地位の保持に全力を傾倒した。
(同上、p.50)
 」

 
これも、日本が米英に脅威と感じてられていた、また、日本は米英を脅威と感じていた、という歴史状況を書いています。今につながるものがないことを、楽山は書いて、何を伝えたいのでしょうか。俺は右翼だ、宗教だけでなく政治も分かってるんだ・・と言いたいのでしょうか。
 


思へば拙劣な外交であった。口に平和を唱へる所謂協調外交が、米英の現状維持を保証する以外の何ものであったか。その間、却って米英の軽侮を招き、更に支那満州の排日を激化したのみではなかったか。
(同上、p.75)
 」

 
協調外交が拙劣だと書いて、楽山は、自分ならば・・戦争、云々、と言いたいのか、またしても、他者の口を借りて、月並みな右翼への傾倒を表しているだけの感想文、しかも、そのやり方は、印象操作に過ぎません。読書して、書くたびに、読書できないことを表してしまう楽山です。
 


そのモットーとする所は、徹底的な平和主義といふより屈服主義であり、国際連盟に心酔し切つて軍縮に大童となり、大陸及び太平洋への発言権を自ら捨てて、米英の意を迎へるに汲汲とした。その間、貴族院、枢密院、政友会そのほか国民各層の不満にも拘らず、米英は、日本に於ける唯一の国際外交の権威なりとして幣原外交への賛辞を惜しまなかつた。
(同上、p.76)
 」

 
引用しているということは、楽山も、屈服主義と書いて自己満足でしょうか。結局、日本は、屈服せず、アジアを侵略して、アメリカと戦争して、自滅の道を進みましたが、楽山の言は、喧嘩に負けた子供が、相手への悪口で、腹いせをしている有り様にしかならないでしょう。
 
しかも責任を負えないものだから、引用だけというお粗末さは、責任のある言動の出来ないのに、見かけだけ評論家を気取って自己満足するという、今までの楽山を、やはり、そういう人だった・・と復習させる愚痴にしかならないのです。
 

こうしてみると平和外交とそれに対する批判は、昔も今もさほど変わらず同じことを繰り返しているようだ。人というものはそう簡単に変わるものではないだろうから、これも当然のことなのだろう。

 
右翼思想を書いて、「人というものはそう簡単に変わるものではない」と書いて、今を好ましくないかのように書きながら、「当然のこと」と書いています。右翼思想への賛同を表しながら、面倒はごめんだと保身をする筆致、楽山の、いつものボンヤリ言語です。
 

*将来
ところで、本書には連盟脱退についてこのように書いてある。

日本の連盟脱退こそは、連盟の本質が英米の自己擁護機関たる外何物でもないことを身を以て世界に明示したものであり、同時にまた白人旧世界体制に対する致命的な一撃であつた。条約違反或いは経済封鎖を以てする彼等の威嚇に抗して、ここに日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出したのである。これにつづいて独伊また連盟を脱退し、連盟の旧体制的構成は全く無内容と化し去つた。しかもこの寂寞の連盟にソ連が加入(昭和九年――一九三四年)し、その内実は旧国際連盟から国際人民戦線へと変貌した。一方に於ける日独伊、他方に於ける英米仏ソ――今や世界は瞭然たる二大勢力に分れ新旧闘争の決定的世界史転換の時代を迎えたのである。
(同上、pp.359-360)
 」

 
「連盟の本質が英米の自己擁護機関」「白人旧世界体制に対する致命的な一撃」「日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出した」・・否定してないから戦争礼賛になります。「世界史転換の時代を迎えた」・・万歳三唱でもしたいのか・・って感じになっています。
 

最近は国連離れが加速しているようではあるし、もし「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」というのが本当であるならば、近未来において日本およびその他の国々が国連を脱退して世界新秩序建設への第一歩を踏み出すということもあるのだろうか。そんな想像をすると何やら恐ろしい気がする。

 
国連離れが加速しているのでしょうか。国連離れで検索してみると、トランプの名が出てくる程度です。さらに、もはや陳腐とさえ思える「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」という漠然としたことを書いて、新秩序、想像、恐ろしい、などと書いて終わりです。
 
新秩序建設というのは、戦争が起こるかもしれない、ということでしょうか。そうならないために、楽山は、何か政治的言動をしたのでしょうか。不安を煽りたいだけでしょうか。主張の見えてこない思想の話、何を書いても、いつもと同じ、中身のない評論家気取りしか見えてきません。
 
何を書いても、まともな理路にならない楽山の、右翼的な印象操作と刷り込みです。しかも、はっきりした自分の意見を持たないから、偏った本の選択と引用によって、またしても、無責任ぶりが全開の楽山です。新しいものや独自のものが何もなく、読む価値のない記事だと思います。
 
批判しても何も答えない、なのに、手を変え品を変え、書いてきて、分かってると自己顕示してくる欺瞞、自己中の世界に陶酔しているだけの自己愛性パーソナリティでなければ、できない醜態であり、分かるべき身近なことさえ分かろうとしない楽山であります。
 
 
  青春のない楽山
 
 マイケル・シェンカーの青春論によるマイコン解除(『飛翔伝説』)
 2021年07月17日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 http://mmknky21.blog.jp/archives/10273583.html
 
 
楽山には、恐らく、青春などなかったのではないかと思います。その復讐なのでしょうか。嘘と詭弁の煽動者になり、批判しても、なお、平気で書き続ける自己愛性人格障害を表して、本当に救われない者という病的人格のモデルとなっています。その腹いせでしょうか。
 

*マイケル・シェンカーの青春論
 本の整理をしていたら、マイケル・シェンカーの『飛翔伝説』が出てきた。中身を確かめてみると、こんなことが書いてある。
(画像省略)
「自分自身であれ!」「自分に嘘はつくな!」「自分の意思を貫き通せ!」「人は人、自分は自分だ!」という考え方は、ギタープレイだけに限定されず、人生全般に言えることであろうし、昔も今も変わらず共感する。

 
(ネットより)
マイケル・シェンカー
ミヒャエル・シェンカー
マイケル・シェンカー(ミヒャエル・シェンカー、Michael Schenker、1955年1月10日 - )は、ドイツ出身のハードロックのギタリスト。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC
 
自分を見失って、自分にも嘘を吐き、自分の身勝手な妄想を訂正不能に投げているのが楽山です。また出してきましたが、「人は人、自分は自分」と、自己中とは、全然、違います。楽山は、真逆の勘違い妄想を共感と呼んで、また嘘を吐いているのです。
 

スピリチュアリズム
思うに、自分はこの流れで、「自分自身を信じよ」「自分の内なる神(良心)を信じよ」というスピリチュアリズム的な考え方にも共感し、これにつらなる幸福の科学にも傾倒したのだった。

 
楽山が信じて振り回しているのは、体質からの我執であります。それだけが、楽山の書いてくるものに表れてきたのです。楽山の言うスピリチュアリズムは、自らの霊能者気取りに過ぎず、それを勘違いした結果、病質的自己中に囚われています。
 
訂正不能の我執からの自己主張と詭弁と嘘が、楽山の恐ろしさであり、何度、批判しても、また、同じことを書いてくるのです。もはや、関わらないこと近づかないこと以外には、対処法がなくなっています。楽山から、良きものを受け取ることはありません。
 

*退会
でも幸福の科学は、当初は「内なる神を信じよ」と説いていたものの、途中からは次のような教えに変わってしまった。「大川隆法を信じよ。自身の小さな頭で考えたところで何がわかるか。大川隆法にはもっと深いお考えがあるのだ。大川隆法を信じてついてゆけ」云々。

 
誰も信頼していない楽山、信頼できる友のいない楽山、自分だけしか信じない楽山、丁寧語と詭弁で自分に引き寄せては、人をだまして疲れさせるだけの楽山です。楽山自身が、霊が分かるっぽいという自己中心のカルト的妄想に支配されています。疲れさせることで人格を破壊します。
 

自分は信者として、この教えに自分を合わせようとしたものの、結局はそれを徹底することはできず、「内なる神を信じよ」「自分自身を信じよ」という思想に戻ることになった。

 
楽山の信条は、内なる自分という神・絶対者を訂正不能に信じて、他者を、いっさい無視することです。無理解・無神経のまま、言ったら、言いっぱなし、無反省・無責任の、詭弁屋で嘘吐きですから、決して関わってはいけません。約2年間のペテン師の資料となっています。
 

ある意味、マイケル・シェンカーの青春論が心に染み付いていたおかげで、マインド・コントロールから抜け出すことができたということだろう。

 
楽山に染みついているのは、自己中だけです。自己愛性パーソナリティ障害からの自己絶対の自尊過大の、身勝手ぶりです。質問と疑問を浴びせれば、正体を表しますが、そこで、疲労し消耗して、人格を損なう恐れがあります。
 

*感謝
マイケル・シェンカー本人からしたら自身の発言が極東の一人の若者をカルトから救うことになるとは想像もしていなかったろうが、実際自分はそのようになったわけでマイケル・シェンカーには心から感謝したいと思う。

 
世辞~勘違い~嘘です。楽山は、誰にも感謝したことはないと思います。「極東の一人の若者」である楽山は、「カルトから救」われたのではなく、恐らく最初から、自分自身がカルト思想だけに染まって、訂正不能に慢心しているだけなのです。どうか、近づかないでください。
 
 

    f:id:stdsts:20210718002411p:plain

              道なき道に溺れる
 
 
(2021年07月18日)
 
 
 
  彷彿
 
ワイパーが水滴と一緒に
視界を拭(ぬぐ)い去る向こうに
道はあるとアクセルを踏むから
車は暗がりを轢(ひ)いてゆく
 
ときに所々の街の灯(ひ)が
一瞬だけ信号に見えたりするから
ブレーキは早めの後ろから
大型トラックがぴったりついて来る
 
進めばよいのか止まればよいのか
後退でもすればよいのか
最初から出かけなければよい
飛ぶこと以外望まないのなら
 
空色の信号が浮かんでいる
そこでもチェックは厳重だ
拭い去れないものを火が乾かす
拒めば落ちてゆくことだけには限りがない
明るい人も大地も星も
水天彷彿(ほうふつ)みな落ち続けている
 
(90年代か)
 
 
 
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知るべきこと(再)2

 
  知るべきこと(再)2
 
 
旧約から信仰の節操を学び
新約から信仰の愛を学ぶ
 
旧約聖書から
全知全能・絶対完全・永遠不変
という神のあり方を表す言葉を受け取ることは
それを理解することではなく
(人間に理解できることではない)
神と人の決定的な違いを
創造主と被造物の決定的な違いを
あくまで人の側において学ぶことである。
 
神に対しては
人のいかなる自信も自慢も通用しない。
人のいかなる知性も感性も
そして、いかなる偉業と呼ばれるものも通用しない。
神に対して人が捧げて届くのは
正直な告白のみである。
 
それ以外は通用しないことを学ぶ。
これを信仰の節操と呼ぶ。
 
新約聖書から
救い主イエス・キリストの神性を学ぶことは
それを理解することではなく
(人間に物や肉体の奇跡は理解できない)
またそれが自分に起こると信じることでもなく
(自分に神の行為を結び付けるのは人の傲慢である)
神性が人間性の低みに身をおろした
ということを
あくまで人の側において
人間性に相応しい理解をすることである。
 
すなわち
キリストの洞察力と共感力を知り
またキリストの同伴の恵みを知ることは
信仰の愛を知ることである。
 
信仰の愛を支えとして
信仰の節操を弁えながら
耐え忍んで生きるのがキリスト者の道である。
 

 
 
神の意志と行為を決めつけて
奇跡による救いを信じるのは
神への冒涜であり偶像崇拝である。
 
信仰は、唯一、
神と人の違いを弁える節操において
厳しいと知るべきである。
 
神は友達ではない。
神は
やさしいおじさんでもお爺さんでもない。
偉い御方にとどまる者ではない。
 
絶対の正義に人間は耐えられない。
ということは
神はご自身のような正しさを人に求めてはいない。
 
神を信じるという信仰は
神の前に偽りが通用しない
ということを信じること。
 
それが神を恐れるということ。
 
神は
その初めから終わりまで
在って在る者、
人知を超えた理由とあり方で
創造主であり万物を統べる御方である。
 
 (出エジプト記、口語訳)
3:13
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
3:14
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
 (出エジプト3:13-14、旧約聖書
 
キリストは権威ある仲保者である。
神と人の間をとりなす御方である。
ゆえに人間に共感し
その苦しみを負われた御方であり
命を惜しまぬ愛を
罪深い人間のために捧げた御方である。
 
贖罪の教理を知っても
キリストの愛を知らなければ信仰ではない。
 
キリストの愛に答えて
キリストを愛するのが信仰である。
 
贖罪の教理によって
いつも赦されるから無罪であるかのように振る舞うのは
神への直接の背きである。
 
信仰は
いつも喜びだけを与えるわけではない。
信仰は
むしろ悲しみを通して成長するために与えられている。
 
いつも喜んでいるように振る舞うのは
迫害が迫る時代と違って
現代においては、大方、嘘であり
神の前に嘘は通用しない。
 
そのようなあり方は
祈りの体裁だけを整えることであり
それによって信仰は少しも整うことはない。
 
信仰は
神の言葉だからと
聖書の文言だけにこだわることではない。
それは教条主義に陥る。
 
信仰は
聖書を興味本位に読むことではない。
黙示されていることを知ろうとするのは
信仰ではなく興味に過ぎない。
 
聖書は暗号の謎解きのために書かれてはいない。
信仰が難しい謎解きを必要とするなら
いったい誰が救われると言うのか。
 
聖書は人間のために
信仰を伝えるためにのみ書かれている。
 
信仰者を信仰にとどめるのは
キリストの愛に答える信仰者の愛であり
それゆえ人が道を外れても
神の全能もキリストの愛も滅びることはないのだから
正直に告白して赦される道は
神の側から断ち切られることはない。
 
偽善者と背教者は
悔いることがないゆえに救われないのであって
 
神が人を見捨てることはないのである。
 
神の愛は節操のみにおいて
この上なく厳しく
キリストのもとに帰る恵みにおいては
この上なく寛容である。
 
 
(2019年07月16日)
 
 
シャローム
批判している途上で、「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という、キリスト信仰とは正反対の信条をあらわにした。これ以後、反キリストと見なしている。
世辞と、おとしめ言葉を、同じコメントに書いて、不自然さを覚えない不感不応の、偽善者であり、サイコパスと見なしている。
 
易坊:
シャロームとともに、私の、当時のヤフーブログを荒らして、50~100コメ超の遣り取りを強いてきたカルト的荒らし。サイコパスとしか思えない。
 
楽山:
無宗教を気取りながら、ときに、反キリストの記事を書き、キリスト教をおとしめてくる。また、一方では、キリスト教的な祈りのような文言を書いてきて、理解者を気取っている。主張が一定しないが、唯物論や進化論を用いて、神信仰を否定するのは、やはり、反キリストとしか思えない。
 
その後の、訂正不能、自己愛性の人格障害、学習不能、無反省、などによって、サイコパスと見なしている。楽山は、自己中カルトのアドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていた。それは、楽山の自己中カルトとして、今も、様々な詭弁を弄して、続いている。
 
シャローム、楽山、易坊については、一人による成りすましの疑いもある。
 
自称マグダラと自称ヨシュア
この二人は、最近、ご無沙汰である。
ヨシュアは、戒めを守って完全になれるのです、などと豪語して、私が批判していると、しばしば、私の個人情報を出してきて、発狂するかのように、私のことを、ダメ人間、精神病などと罵り、罵詈雑言を並べた。
自称マグダラも、同様に、批判すると、別人のように、攻撃的になるが、プププ、ケロッ、などと、奇妙な台詞を吐きながら罵る。俗的な意味で、ヒステリックである。
この二人については、一人の成りすましを疑っている。
 
アドラー心理学
私は、カルトだと思うので、アドラー教と呼んでいる。気に入らないことは無視しましょう、あるいは、私の課題ではありませんと無視することを、誘い文句として勧めているので、"日本人アホ化計画" を企てているカルトとして批判している。楽山は、その宣伝者であろう。
"無視" がもたらすものは、学習がないために、成長しなくなることで、恐らく、人の気持ちの分からない、知性と感性が鈍麻した、ぼうっとした自己中人格に帰結するのだろうと思います。
 
以上の者たちは、私が死んだ後も、生き続ける者たちです、巻き込まれることのないように気を付けてください。
 
個人の人生の最終的な闘いと、人類の歴史の最終的な闘いは、人の世界の現象としては、恐らく、普通の良心と、サイコパスとの闘いになるでしょう。
 
 
私に誤りがあれば指摘してほしいと思いますが、私は、人間としての標準的な理路と、信仰者としての直観的および直感的理解に基づいて書いています。修正し改めるには、自他からの説得力を持つ説明~批判が必要です。なお、楽山のような嘘と詭弁だらけのは、批判とは言いません。
 
 

f:id:stdsts:20210716235337p:plain

         直観・理路、直感・共感、絆(きずな)
 
 
(2020年07月16日、一部修正して再録)
(2021年07月17日、再録+)
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる思考実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
 不信仰告白
   (キリスト以外の
    神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
(90年代)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
アンバー
@cult_of_happy
·7月14日
HSに関して言えば信者が対立するのは当たり前なんだよな
言ってる事とやってる事が違う、言ってる事がコロコロ変わる、反社的な事も肯定される場合がある…
こんなの自分の主張をどこに置くかで誰とでも対立する
更に絶対正義を体現してる気でいるから妥協したり折り合い付けたりできない
午後11:52 · 2021年7月14日·Twitter for Android
https://twitter.com/cult_of_happy/status/1415323207284916231

 
引用元を批判するつもりはありません。
 
楽山の非常識と病質を批判しています。楽山は、無反省のために学習ができず、ゆえに、成長せず、誰とも意思疎通と共感が成り立ちません。それを何度指摘しても、人の意見を受け取らず、考えることもなく、病魔の因業を繰り返します。
 
ツイートの内容は、楽山の言動パターンに似ています。楽山は、キリスト教と信仰について、否定したり肯定したり、全く一貫していないにもかかわらず、自説を反省して、まとめたり訂正することも出来ません。成長がないので、説得力もなく、同じような非常識で不誠実で表面的な言説を繰り返します。
 
楽山は、自分の主張に満悦してしまって、これなら分かるでしょ、なぜわからないの?、・・みたいに、自己の正当を疑いもしない人です。たぶん本気でしょうから、自己愛性人格障害NPDだろうと思います。自己愛性は、学習しない、成長しない、発展しない性質です。
 
人格と能力に何の根拠もなく、一人前を装う人がいます。関わってはいけない人です。
 
 
※ 
 
夜遊びする子供に、ああせい、こうせい、勉強しろ、とか言ったら、子供にバカにされて、そのあと言ったこと・・「このオレが説教か・・」と自嘲して吐き捨てる、これ、映画「ロッキー」の中のセリフ字幕です。私は、感動しました。
 
偏屈でいいんです。視野が狭いでいいんです。その自覚さえあれば、立派に面白く生きられます。
 
 
 
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楽山の自己正当化2

 
  楽山の自己正当化2
 
 『死なないつもり』横尾忠則
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25268829.html
  を改めて批判。
 
 
気に入らないことは全部無視して忘れて、自己正当化をせずにはおれない楽山の体質が表れています。自己正当化に、有名人や学者の言を利用して、都合の良いことだけを受け取ってゆく生き方だから、言動の、いたるところに、現実逃避と、真実から目を背けてゆく姿勢が表れてきます。
 

タイトルが微笑ましく、面白いと思ったので手に取ってみた。内容は芸術や人生についてのエッセー集であり、明るく前向きで楽天的な話題が多い。タイトルから、「死」や「老い」について書いてあるのだろうと思ったのだが、いい意味で裏切られた気分。
著者のものの見方は、自分から見るとすごく新鮮だ。たとえば、世間的には「飽きっぽい」ことはよくないこととされることが多いが、著者からすれば「飽きるということは、自分を守るためにも、自由になるためにも必要なこと」(p.59)だという。たしかに、飽きっぽいとは、一つことに囚われず自由だ。

 
飽きっぽいのと、故意に無視するのとは違います。人の言うことを無視して、それを、囚われない生き方と思ってしまうと、本気で裏切られ敵対され、人間をやめることになるでしょう。自由を取り違えた楽山が、また、自己中をさらしています。
 

また著者は「理屈をこねないで、無頓着で暮らすのが一番です」(p.203)という。その理由は「『なぜ』に答えるためには、物事を理屈で考えていくことになります。それを繰り返すと、どんどん細くなっていって身動きが取れなくなる」(p.202)からという。これは耳に痛い話だが、それだけによく分かる。

 
「なぜ」には、情緒的動機もあります。かつ、楽山の理屈は狂っています。つまり、理屈だけではなく、人間としての心をもって考えないと、楽山のように字面だけの小理屈になって、嘘と詭弁で、自己正当化しながら自分を慰めるだけで、人生を渡れなくなるでしょう。
 
また、無頓着がいいと言っても、楽山がしている無視とは違いますし、自分の仕出かした悪と偽善を、自分の非を、忘れてゆくような無反省になったら、成長と進歩がなくなり、荒廃した人生を送ることになります。今回も、自己正当化の癖が抜けないようです。楽山の腰は抜けたままです。
 
反省する気がないために、このように、他者の意見や人生観や書籍などから、都合の良い言葉だけを拾って来ては、自分はこれでよいと思い込んで、自己正当化し続けてきたのが、楽山の生き方なのでしょう。自己愛の我執から逃れられない楽山です。いずれは、100%否定される日が来ると思います。
 

「老齢になると自然に欲望も執着も消えて、/好きなことだけが残っていく。/隠居の本当の意味は/好きなことで忙しくすること。」(p.127)というのは、理想的な年の取り方だ。三浦綾子のエッセーで、認知症になった老クリスチャンが、昔のことはみんな忘れてしまいましたがイエス様のことだけは忘れませんと言っていたという話が、ずっと記憶に残っているのだが、この話とどこか通じるところがあるようでもある。

 
救いを忘れないのと、自我に執着するのとは、全然、違います。ここでは、キリスト者の例を出して褒めていますが、本質は、反キリストであることが、今までの言に表れてきたのです。宗教も人生も、おもちゃのように、自分が即席に楽しめることだけを是としてきた楽山です。
 
だから、無反省に、こういう白々しいことも書けるのでしょう。学ぶ姿勢がなく、利用する姿勢しか持たないと、こうなってしまうということです。都合のよいことだけを、乞食のように拾っては語っておれば、いつか、忘れている都合の悪いことが、災いとして、まとめて迫る時が来るでしょう。
 

自分は悲観的な面があるので、長く生きるほど辛い記憶が積もり、圧し潰されそうな気分になることもあるので、年を取るほど純化されて好きなことだけが残るというのはすごく憧れる。

 
楽山は、しんみり悲しむことが出来ない人だと思います。悲観的とか負の感情を表現したり、反省という言葉だけ使っていても、その発言が記事の流れや文脈と一致しておらず、言葉だけであり、実際には、非を認めることがありません。
 
それで、根拠もなく「年を取るほど純化されて好きなことだけが残る」という文言を、そのまま受け取って悦ぶのです。総て自己中心からの他者の発言の悪用としか思われない楽山の文章です。
 
「圧し潰されそうな気分」になることもないままに、安穏として鈍化するだけなら、押しつぶされる時が来るのを、気づきようもないでしょう。最後の圧力は、肉体的か、精神的か、分かりませんが、恐らく、想像を絶するものだろうと感じます。
 

何事かを極めた人物の言葉には深いものがあるというけれど、本書を読んで本当にその通りだなと思った次第である。

 
そして「何事かを極めた人物」と、べた褒めしても、本を読んだ感想でも、自己中の欲望に強引に当てはめて言っているわけで、楽山の発言において、深みのない特徴として表れてくるために、信用できない人物なのです。こうはなりたくないと思っています。
 
その通りと言いながら、身勝手な解釈で、見習うことも出来ず、極めることも出来ず、流れに任せて、罪の報いが押し寄せてきて、その深さを教えられるのでしょうか。その時、楽山の顔は、膨らむでしょうか、しぼむでしょうか。果てというものを、自己愛のために、全く見ない楽山です。
 
 
信仰は、神という、不可知ながら、絶対正義の存在を知り、人間が、神の前に、自らを低くすることで、正直に、非を認め、罪を認めて、反省し、悔い改めながら、癒されて成長する道であります。
 
その心の器という感性が、まるで見られない楽山は、信仰に対して、条件を付けたり、褒めたり、けなしたり、悪意をもって対したゆえに、全く主体的な説得力を持ち得ない迷路の住人から、恐らく、楽山の大好きな魔道の徘徊老人となってゆくのです。
 
しかも、自尊だけは高いために、厚かましく、執拗に言い続けるので、きわめて迷惑であり、福音伝道の妨害者として、批判を向ける対象でしかなっています。批判を続けることに意義があるのは、できることをする、という教えによるのであり、それ以上は出来ないという実感によるものです。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
 
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害の可能性。特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
深い情感がなく、共感性がない。後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、同情を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無で、発言に説得力がない。対話形式とか、記事の体裁を変えて書いていましたが、独り芝居を書いても無駄なのです。
 
さらに、政治的には、右翼思想に傾倒しているようです。人の命を粗末にして破壊をもたらす戦争が好きなのでしょうか。右翼青年だったのでしょうか。A級戦犯に賛同しています。右翼思想と、カルト思想とは、自己愛・自己中という点で、接点を持つのかもしれません。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 

 
自己愛性人格障害NPDの人と、交流してはいけません。NPDは、こちらの言うことを受け取っていません。ちゃんと聞いているという芝居をしているだけで、理解力はないと思ったほうがよいです。いくら説明しても、同じことを何度も言ってきます。
 
NPDは自己中なので、嘘も平気で吐いてきますが、それよりも、これは前に反論したじゃないか、説明したじゃないかと、自分がイライラし始めるのを自覚したら、しかも、それが、繰り返されるようなら、相手がNPDである可能性を考えるべきです。
 
こちらは、楽山の書く文章に逐一批判を書いています。楽山が、それを無視していいと思うのは何故でしょう。楽山は、今も個人の自由だと思っているのかもしれません。何度も言ったのに、未だに、自己中と自由の区別がつかないのです。
 
つまり、知性と情性が大人として発達していないからです。自己中と自由の区別もつかないのです。そういう意味で、楽山は、知恵遅れなのです。このような人は、一人前の社会人として生活することは不可能だと思います。
 
議論がどうとか真実追求がどうとかの問題ではありません。精神衛生の問題なのです。病的自己愛者を、うっかり相手にして、徒労と疲労だけが続けば、こちらの人格が破壊されます。NPDとの無駄な言い合いは、きっぱり避けて、心の健康を守るために、楽山に関わらないでください。
 
 
※ 
 
たとえ孤独のうちにいても、人間らしい感性と分別があれば、自然を見て、また、メディアを通して、温もりと潤いのある人生を過ごすことは可能です。
 
その恵みを、人生の早期に放棄して、自己中に固まってしまうことのないように願っています。
 
 

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             生きながらに滅びゆく者
 
 
(2020年06月30日)
(2021年07月16日、再録+)
 
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
  夜の切り口
 
夜に小さい傷をつけておいたのは私
伝言を刻み
遺言さえしたためたつもりで
死んでも星にも
星屑にもなれないけれど
空を青く見せている
大気の塵の一つぐらいには
込めたいものがあって
静けさと闇のうちにと
明るい電灯の下で
そっとペンを下ろした
 
薄っぺらなカーテンの縫い目の間から
朝日が星のようにきらめいている
と見えたのは視線が動くからで
日の光はまたたきも明滅もしない
射るように貫いてくるばかり
あんなに明るかった
つけっぱなしの電灯が
色に過ぎないほど褪せている
朝に引き渡された
私に傷をつけておいたのは夜
 
 
(90年代か)
 
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、私の感慨に過ぎず、テーマと完全に一致しているわけではありません。
 
 
 
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超常と日常2

 
  超常と日常2
 
 
聖書に書いてある超常現象
つまり
処女懐妊
物や肉体の奇跡
肉体の復活について
信じていると言うことは空しいと言わざるを得ません。
 
何故なら
超常現象の奇跡を信じても
そういう奇跡は、
少なくとも、現代、めったに起きていないからです。
 
つまりそれらの超常現象を信じることで
もたらされるものが殆どないからです。
 
信仰は魔法やご利益信仰ではないのだから
超常の奇跡を信仰の中心にしてはいけません。
 
神の超常は
神に任されることです。
 
人が超常にこだわることは
日常を疎かにすることです。
 
 
物や肉体の奇跡は
神のみのわざです。
神のみに任されることです。
人が自分の都合で
神のわざを信じ込むのは
神のわざを決めつけることであり
不遜というものです。
 
心の奇跡は悔い改めであり
神と人との関係において起こることです。
心の奇跡には人が関わっているところが違うのです。
 
人に分かる奇跡は心の奇跡です。
 
 
物や肉体の超常現象としての奇跡を
信じますと言っても、
信じると何が起きるというのでしょう。
 
処女のまま妊娠しますか、
何か超常現象を起こせるようになりますか、
死んでも肉体が蘇りますか、
誰も知りません。
 
それら奇跡が起こったら、そんなに素晴らしいですか。
むしろ日常が混乱してしまうのではないでしょうか。
地道に努力することがバカバカしくならないでしょうか。
その夢を描いてばかりでは問題からの逃避にならないでしょうか。
 
何が起こるか、私たちは知りません。
信じたら超常の奇跡が起こると言われても
実際に起こったら不気味なだけではないでしょうか。
 
病気になってもすぐ治るのでは
病気を甘く見て健康を疎かにすることにつながりそうです。
超常に執着することで生じる鈍感さは
日常に及んで人間は怠慢になるだけでしょう。
 
奇跡に頼ってしまえば
人間にとって良いことは起こらないでしょう。
 
元々、奇跡は滅多に起こらないから
奇跡と呼ばれるのです。
 
奇跡が起こるかどうかは
神の御心に任されていることです。
 
信仰は
信じれば奇跡が起こる
という交換条件のような取引ではないのです。
心の無い信仰に陥ってはいけません。
 
奇跡の夢ばかり見る超常信仰は
怠慢や失敗が魔法で解決されることばかり思い込んでいるような
怠け者の欲望をベースに置いていることがあります。
 
超常にこだわり始めると
もっと考えるべき日常のこと
人間としての節操や
愛と共感そして真実の追求など
人間として考えるべきことを疎かにする恐れがあります。
 
超常に住んでいない私たちが
超常現象を信じることは
思考と感情をゆがめてゆくのです。
大事なことから目を逸らしてゆく恐れがあるのです。
 
もし奇跡が起こったら
驚きを持って見るでしょう。
それで命が助かったら感謝もするでしょう。
しかし、驚きと感謝以上にはなりません。
そういう奇跡で人は成長しません。
私たちは私たちにとって実になることに集中するべきです。
 
 奇跡に頼って
 過去に奇跡が起こったかのように思い込んだ者がいますが、
 その者は、結局、思考停止と感情鈍麻に陥り、
 理解も洞察も気配りも共感も出来なくなっています。
 ただ一途に、奇跡を待つ姿勢に安穏とし、
 その上にあぐらをかいて、
 もはや人間とすら思えない状態になっています。
 この人のどこが救われた人なのでしょう。
 滅びゆく人にしか見えないのです。
 
このように超常信仰は
超常だけを信じて待つ怠慢と鈍麻のカルトになりやすいのです。
 
 
私たちは、私たちに与えられている良きもの、
つまり、愛と共感性と思慮深さを養うべきです。
 
聖書において
それら人間の情緒を豊かに持っている人たちが救われています。
多くは、傷ついて、悲しみ、救いを求める境遇が、
キリストに対して
正直な思いをまっすぐに述べさせたからです。
彼らには、心の、魂の奇跡が起こりました。
 
 聖書において
 教条と戒律主義に陥った者たちは
 儀式の形式を守ることで
 良心の実質を疎かにして
 守っている、知っている、分かっているという傲慢を表し
 彼らは、物や肉体の奇跡と儀式への信仰?によって
 選ばれた者という自覚に思い上がり
 そしてキリストを殺す者となり
 神の怒りを買いました。
 
信仰は
共感の可能な心によってのみ受け取られ
悲しみを知るゆえに温もりを知る心に生まれます。
 
信仰は決して超常を知る魔法でも霊能力でもありません。
 
信仰は、人間らしい心を育てます。
どんな人でも、神の前の正直さに努める人は、
神のごとくであることを求めない敬虔によって、
代わりに人間らしい心を与えられ、
育てられ、成長して、豊かな人間性によって、人間世界を生きてゆくでしょう。
 
このように、不完全な人が救われるには、
徹底して、神の完全との違いを弁えていくしかないのです。
 
 
"神様が助けてくださいます" というような、やさしい神を語るときには、自らを神聖としないために、気をつけるべきことであります。
 
また、教理や教義を語るときには、必ず、超常なる神聖のことは、人には分からない神秘であることを伝えなければ、超常趣味で信仰を語ったつもりになるような人間離れが生まれる、ということを考えなければいけないと思います。
 
 
信仰者であっても、私たち人間の善悪の判断など、神に対しては全く通用しません。何故なら、人が、善悪の判断を振りかざして祈るとき、絶対の神の善悪の判断は既に下されているからです。そして、それは、時空の限られた人間には決して分からないことです。
 
誰が、自分の言動の影響を果てまで追えるでしょう。それは、神のみがなさることです。ゆえに、全知全能と言われています。それを知らない者が、愚かしくも、神の辻褄?をいじくって、なぜ悲劇を救わないのか、神はいない、などと言っているだけなのです。
 
神の辻褄を、神でない人間は、決して負えません。ゆえに、私たち、キリスト信仰者は、いくら善悪にこだわっても理解することはなく、神の前に、ただ、正直な告白以外、まるで祈りになっていないことを肝に銘じるべきなのです。
 
神についての、不可知論は、大方、無神論です。可知論は、大方、理屈倒れの半端な哲学です。信仰を理屈で語るのは、大方、邪道です。神学や哲学の知識を誇る者を警戒してください。私たち信仰者は、キリストの愛と共感が忘れられなくて、キリストへの愛と共感に生きる者であります。
 
人の辻褄さえ、ろくに語れない者が、どうして神の辻褄を語れるでしょう。インテリ気取りの坊ちゃん哲学など、俎上にも、机上にも、乗る価値はないのです。神もキリストも、幼稚な概念でしか語れない半端者~病人を相手にしないでください。
 
 

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               超常と日常と闇
 
 
(2020年07月06日)
(2021年07月15日、再録+)
 
 
 
  狭く細い道
 
近づくことはあっても
交わることはないかもしれない
ときに休み
ときに耐える
狭く細く長い道
 
素朴な不信仰
本気の弱音
本音の泣き言
ときに痛いほど
薄い胸に落ちて
抉(えぐ)るように沁みてくる
 
辿(たど)る経緯は違っても
それぞれの細い道
苦難の果てに見出した
薄明かりの細道を
証明がないからといって
どうして否むことができようか
 
日々の糧(かて)のように
あたかも等しく
水のように注がれる
弱々しさを抱えて
 
どうして希望を捨てられようか
いつかそれらが総て
広い広い一つ所に通じていて
温もりに包まれるという希望を
 
(2000年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、参考になるかどうかは、私には分かりません。
 
 
 
 大川隆法の直筆原稿
 2021年07月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 ブログ記事でも
 http://mmknky21.blog.jp/archives/10234753.html
 ツイッターでも
 https://twitter.com/komo266/status/1414930181140074496
 宣伝しています。
 
 
楽山の因業として、何を言われても、何事もなかったかのように書いてくる無視力ということです。書くことの恥ずかしさを検証するだけの良心がないことを表しています。こういう人が捏造する偏見によって、宗教と信仰は、健康で文化的で賢明な伝道を妨げられることになります。
 
そのように、嘘と詭弁で、真実を妨げることで、楽山のような者は、かえって、悦に入る輩なのです。その卑しさと、幼稚さと、あざとさと、白々しさと、狡猾さと、卑怯さと、無反省、無神経、無責任、無理解のために、また批判しなければならなくなります。
 

*直筆原稿のコピー発見
蔵書の整理をしていたら、大川隆法の直筆原稿のコピーを見つけた。90~91年頃、支部で頂いたものである。
ユートピアの原理』まえがき(省略)
*三原則
内容を確認してみると、論点はおよそ三つだ。
大きな危機が迫っていると脅す
大川隆法を信じれば救われると希望を示す
「救世のために伝道をせよ!」と使命感を煽る

 
まるで、偉人の直筆資料が見つかった!・・かのように書いていますが、何が言いたいのでしょう。かっこいい・・とでも言いたいのでしょうか。愛しているのでしょうか。楽山の記事本文が貧弱です。存命の教祖の原稿が、どう重要性を持つと言うのでしょうか。
 

*相変わらず
こうしてみると、「大きな危機」の中身についてはその時々によって、世紀末の天変地異、北のミサイル、中国の覇権主義などと変化はしていても、上の三原則は今も昔も変わっていないのがよく分かる。

 
褒めているのでしょうか。言いたいことが見えてきません。宣伝するほど価値のある情報とも思えません。教祖の言うことは、あちこちに出ているでしょうし、直筆原稿の写真(省略)は、多く、偉人ならば価値があるのでしょうが、楽山は、何を、はしゃいでいるのでしょう。
 

*反省
聞くところによれば、最近の信者は笛吹けど踊らずとばかりに、大川隆法総裁が危機をうったえても、使命感を煽っても動かない人が増えているそうだけども、会員時代の自分はまだ若くて世間知らずだったので、上のような文章には簡単に感動してしまうクチであった。この点は本当に失敗だったし、いくら反省してもしたりないくらいである。…とほほ。

 
楽山は、ORの文章に感動してしまうそうです。それを失敗だったと書いています。「反省」は嘘だと思います。恥ずかしいだけでしょう。「とほほ」は大嘘だと思います。楽山の言葉の中で、いちばん信用性のない言葉です。さらに、「反省」「とほほ」なら何も書かないことです。
 
反省、とほほ、については、嘘であると、今まで何度も書いてきましたが、それでも、平気で書いてくるところが、楽山の病質であり、嫌がられることを重ねるサディストぶりを証明しています。根腐れとはこのことで、その分、文章が、ますます無明の世界に行きつつあるようです。
 
楽山は、「感動し」たことはないと思います。ふるえるだけの心を持っていないと思います。「感動してしまうクチ」・・楽山は、「感動」と言ってしまう口だけの人です。楽山にとって、感動とは、自分の意見に空想の辻褄が合うということでしょう。
 
「失敗だったし」「反省してもしたりない」・・反省は振り返ることですが、楽山は、ますます、嘘に凝り固まる人です。失敗の認識もないでしょうし、反省もしていないと思います。だから、「とほほ」という、ふつう、文章には書かない台詞でごまかすのです。
 
楽山は、何度批判されても、なお、自分は整っていると言い張りたくて、図々しく不躾な文章を書いてきます。浅ましい言葉だと全く気づかずに、言えばいいと思うだけで、また書くわけですから、そのたびに、不自然な言葉遣いを含めて違和感だらけだと知れてゆくことになるのです。
 
 
 
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人のことばかり語る楽山

 
  人のことばかり語る楽山
 
 神秘体験の影響力
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月13日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29787314.html
 
 
本を読んだつもりで書いて、自分を高めたつもりになって、自分の非だけは認めず、宗教と信仰を空想の理屈で語ってきて、誰の役にも立っていないことも、迷惑になっていることも無視してゆく根拠を、神秘や心霊に求めても無駄だということが、楽山が何か書けば表れてくるのです。
 

*神秘体験の影響力(本人)
神秘体験の本人に与える影響について、『宗教的経験の諸相』には次のように書いてあった。

神秘的状態は、それが十分に発達した場合には、普通、その状態になった個人に対しては絶対的に権威をもち、そして権威をもつ権利がある。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.249)
 」
さらに著者は、体験者本人に対して合理主義によって「どんな不平を唱えても無駄である」し、

 
霊が分かるっぽい楽山の霊能者気取りに対して、何を言っても無駄であることは、約2年間批判してきても不感不応である楽山に表れています。実際には、楽山は、気取りだけで、何の洞察もなく思考の糧にもならない人です。
 
それが、楽山が、体質的な病的ナルシスト、即ち、自己愛性パーソナリティ障害者であることを示しているのです。楽山は、不平を言っても無駄だから、何を言ってもいい、何を言っても正しいと言いたいのでしょうか。楽山は、不平を言われているのではなく、否定されているのです。
 

仮に「その人を監獄や精神病院へ投げ込」んだとしても、その者の「心を変えることはできない」どころか、むしろ「彼の信念をますます頑固にするばかり」であり、結局のところその者を「私たちが好もうと好むまいと、そっとその信条を享受させておくほかない」のだという。

 
だから、楽山は、精神病院に入れても治らないし、楽山が信じこむこと自体は、変えることは出来ないでしょう。その成れの果てとして、慢心し、傲慢になり、訂正不能になって、人間離れしてゆく楽山の有り様を、楽山自身が説明していることになります。
 

これはよく分かる話だ。恥ずかしながら自分は、とある新興宗教を「これは本物だ!」という神秘的直感によって信じてしまい、他からどんなに意見されても判断を変えなかった過去がある。この時の自分の心を思い出せば上の話に首肯せずにはいられない。神秘体験なり、神秘的確信によって特定の宗教または信条を信じ込んでしまっている人の心は、どれほど合理的な反対意見であっても、それを否定する客観的な事実を提示したとしてもそう簡単には変えさせることはできないものだ。

 
何が「よく分かる話」なのでしょう。楽山は、仏様の気持ちが分からない家族に驚いたという記事を書いています。冗談だろうと思っていたら、何を考えるにも、霊とかの超常のことを書いたり、霊言なるものを引用したり、神を否定したりなど、傲慢だけが表れてきたのです。
 
霊能にこだわらなくても、はっとさせられたり、洞察や共感があれば、優れていると分かりますが、そういう目を覚まさせる発言内容は、楽山には、皆無であります。楽山は、新しい何かを語れる人ではなく、ただ、自己顕示欲だけの超常フェチの退屈な人です。
 
超常にこだわり、その方向に思考が流れて、宗教も信仰も、人間の問題として考えることのできない人です。だから、いかなる問題も、解決の方向には向かず、ああでもないこうでもない曖昧な話になり、ボンヤリ言語と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかしてきたのです。
 
楽山は、宗教を語れる人ではなく、宗教を批判できる人でもなく、オタク的趣味に生きるしかない人だから、非合理で、理路を組み立てることが出来ず、結局、神秘気取りの妄想で、無反省に、無責任に、雑言の一方通行で、人心を煩わせる経過にしかなっていません。
 

*神秘体験の影響力(第三者
同書には、神秘体験の第三者に対する影響力についてはこうある。

神秘的状態の啓示を、その局外者に対して無批判的に受け容れることを義務付けるような権威は、そこからはけっして出てこない。
(同上、p.249)
 」
著者はこれとは別な言い方で、神秘体験をした者がそうでない者に対して、その者が「召命を感じて」自ら受け容れる場合を除いては「その独特な経験について伝えるところを受け容れよ」と要求する権利はないともいう。

 
楽山の無反省で無責任な発言は、いかに神秘と絡めても、受け入れてはいけないし、受け入れる価値はないし、批判され、否定され、雑巾のように干されて捨てられてゆく経過しか待ってはおらず、楽山の自己満足に付き合うことは、人生の大切な時間を無駄にすることに他なりません。
 

これも確かにその通りだ。たとえばある者が神の声を聞くという神秘体験をしたとして、万人にこれを信じなければならぬという義務が発生するはずもないし、そもそもそれは不可能なことでもある。

 
ならば、霊が分かるっぽい楽山の言も、何の価値もないわけで、楽山は、自分の無価値を主張したいのでしょうか。ならば、宗教と信仰について、信じてもいないのだから、何も言わないでほしいと思います。
 
宗教的に偉大な存在というのは、人間にとって、知らなかったことを知らせ、感じなかったことを感じさせ、新しい目覚めを促す存在でありますが、楽山には、そのような賜物はありません。楽山は、宗教にも信仰にも、全く縁のない、煩わしいだけの人なのです。
 

大袈裟なたとえ話をするならば、もしある宗教がこの道理をわきまえず、教団の内側に向かってだけでなく外部に向かっても教祖の語る神秘体験を信じなければならない、これえを疑ってはならない、そのまますべてを信じなければならないと主張したとしても、それは外部には説得力はもたないし、場合によっては偏狭なカルト集団とみなされ強く反発されることにもなりかねず、そういう当然の結果に教団が不満を述べても仕方がないということでもある。

 
当たり前のことです。人間に神秘が分かるはずはないのです。人間は、何からの恩恵を感謝して、神秘の存在を仰ぐだけなのです。また、宗教も信仰も、決して強制されないものであり、また、楽山のように嘘と詭弁で刷り込んでくる者は、最初に、除外されるべきなのです。
 
霊がらみの楽山の発言は、もっと、質(たち)が悪くて、はっとさせる何ものも含まれておらず、信じるに値しない惑わしに過ぎなくて、いかに執拗に楽山が語っても、もたらされるのは疲労と妄想的な害毒だけなのです。これほど、徒労と疲労を与えてくるだけの人物も珍しいです。
 

*神秘体験とその後
著者は本書において、すべては一つであると感得する神秘体験について触れつつ、その一方で上のように神秘体験を経験した者とそうでない者との意思の疎通は極めて困難であることをも説明しているが、もし神秘体験によってすべては一つであると悟ったがために、その経験のない者と分断され、争いが生じる結果になるとしたらなんとも皮肉な話である。

 
楽山には関係のないことです。楽山が物を言えば、混乱要素にしかなりません。楽山こそ「意思の疎通は極めて困難」な人です。なにせ、人の言うことを聞いていないのですから、どうしようもありません。「争いが生じる結果」にならないために、楽山は黙るべきです。
 

しかし考えようによっては、これを乗り越えられるかどうか、乗り越えるとしたらどのように乗り越えるかということが、その神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬし、

 
「乗り越える」という言い方にだまされないでください。こういう企みが、楽山の特徴です。人間らしい知恵の欠乏しているところを、詭弁の悪知恵でごまかして、それこそ、「乗り越え」ようとするのです。
 
結局、霊が分かるっぽい自覚の楽山は、結局、神秘体験を受け入れて、自分がそうだと言いたいのでしょう。孤独なヒーローを、三文芝居で、演じているのでしょう。神秘体験を「乗り越える」前に、楽山の妄想刷り込みを、受け入れることなく、廃物として、乗り越えるべきです。
 
どう「乗り越える」というのでしょう。中身のない楽山が、中身のないキレイごとを言っても、何の足しにもならないのに、言葉だけ、もっともらしく付けて、分かっている自分、許容力のある自分を、捏造アピールしてきます。
 
そして「神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬ」・・何も言わないよりマシと思うのでしょうか、否、楽山は、何も言わないのと同じです。何か言い得たことにしたいだけなのです。この、楽山の、ごまかしこそが、楽山が異常な疲労を与える大きな要素なのです。
 

もしそうであれば、神秘体験とは神秘体験そのもの以上に、その後その人物がどのように変わるか、またはどのような道を選択するかということこそが重要だということにもなりそうだ。結局、神秘体験の本当の意義はここにあるのかもしれない。

 
霊が分かるっぽい楽山は、どう変わったのでしょう。知性が無知性になり、感性が不感性になって、嘘を吐き、妄想を振り回して、詭弁を弄するようになって、こともあろうに、人間の、最も醜い有り様を、恥も知らずに、ずっと、見せびらかし続けているのです。
 
「神秘体験の本当の意義」だそうです。やっぱり信じているのですね・・ということです。だまされないでください。楽山は、恐らく自らの神秘性を認めて「人物がどのように変わるか」「どのような道を選択するか」が本当の意義だと言っています。つまり、受け入れ前提の発言です。
 
結局こういうことになるから、楽山の毒性は、その詭弁と刷り込みによって、病気を伝染することになるのです。これは、偽善者の、そして、体質的病質者の、必然であります。実に、楽山は、まわりくどくて否定しにくく、かつ、執拗に、刷り込んでくるのです。
 
人の言うことが理解できないで、自分の言っていることが人に理解されるべきだと訂正不能に思い込んでいる人、自分の非を認めないで、人の非を当然のように云々する人、あらゆる悪と不義を人に向けて、自分に向けず、お山の上から駄弁と詭弁を弄する人、それが楽山です。
 
楽山の言を否定する根拠は、楽山の今までのブログなどの発言です。だから、また、否応なしに、これから言うであろうことが、新たな根拠となってゆくでしょう。楽山は、恐らく、いつまでも、どこまでも、敬虔と謙虚から、真実の言論から、はてしなく遠ざかってゆくでしょう。
 
楽山のような人は、恐らく、無反省だから何も学習せず、無責任だから何もはっきり言わず、一生を煙の中で過ごして、主観においてだけ、断定していないから自分はバランスが取れているつもりでいるのでしょう。・・はっきり言って、人間ではないです。
 
そう言えばそうかな・・なんて思ったら楽山の思うつぼです。誠意の代わりに作為、善意の代わりに悪意、説明の代わりに詭弁、謙虚の代わりに丁寧語、魅力の代わりに誘導、それが、楽山です。決して、関わらないようにしてほしいと思います。
 
 

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                聖的独り言
 
 
(2021年07月14日)
 
 
 
  ヨブ記とお叱り
 
ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
一人称を用いるので恐縮ですが
「お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って説明し納得させ
了承を得る必要がどこにあるか!」
という具合に。
 
被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記福音書も含む聖書がある。
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
(2000年代か)
 
 
 
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