ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

崩壊詭弁

 
  崩壊詭弁
 
   罪という文字の由来?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28915821.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
何度も批判してきましたが、シャロームは、何も受け取ることなく考えることなく、答えられたこともなく、弁明が成り立ったこともなく、同じことを書いてきます。人の言うことを全く聞いていないから、記憶してもいないのでしょう。
 
今回の記事を、シャロームが全部書いたとは思えないのですが、シャロームが是として載せているわけですから、批判対象になる要素が溢れています。
 

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、
わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。
聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
それは、アブラハムの受けた祝福が、
イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、
 約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。
(新約・ガラテヤ人への手紙3章13~14節)

 
贖われるのは、罪を認め、悔い改めた者だけで、信仰による救いということです。
 

聖書には罪という言葉がありますが、
その意味はハマルティァと言って的外れという意味です。
その意味は倫理、道徳、法律に反する違反行為というよりも、
先ず何よりも神と人との関係が的外れ状態であることを意味しています。――(1)
今日はそのハマルティァを罪という漢字に翻訳されたことを考えてみたいと思います。
私はふと「罪」という文字はなぜ「四」と「非」の組み合わせなのだろうと思いました。
語源事典などあればとも思いましたが生憎持ち合わせていません。
手元にある「漢字にたどる聖書の世界」(福原秀憲著)を見ましたが、そこにもありません。
そこでちょっと私のふと思い浮かんだことをメモし、書いてみました。
漢字は表意文字ですから多分何か意味が含まれていると思ったからです。
「四」を敢えて岩波国語辞典でみてみましたら、
真っ先に深遠な意味が書かれていました・・「三に一を加えた数」と。
「四度」・・よたび、「四方」・・よもともありました。
「非」については・・・
よくない、ただしくない、またよしとしない、是認しない。
うまくゆかない、道理にたがう、道にそむく。
欠点をあげて悪く言う、そしる。
あらず、そのことでないとありました。
「四」と「非」という文字の意味を組み合わせるとどんな意味になるか?
「罪」という意味になるのだろうかと「罪」という文字の意味を調べてみました。
「罪」とは・・・
人間のしてはならない行い、正しくない行い。
法律にそむく行為、宗教の教えにそむく行為。
‥‥がない、何も知らない、無邪気だ、無慈悲とありました。

 
私は詳しくはありませんが、罪という字は、おおまかには、上の部分が四ではなく網の象形で、下の部分が背中を向ける、つまり、背くことで、つまり、網で背いている罪人を捕まえる、という意味だそうです。
 

「四」は?何を指しているのだろうと思っていると、
「非」の意味は法律にそむく行為、宗教の教えにそむく行為とありますから、
私には「十戒」のうちの「四」ではないだろうかと思われました。

 
こじつけの感があります。十戒は、すべて神に背く行為つまり罪を戒めています。
 

第1戒・・あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
第2戒・・ あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、
どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。

 
前から宣べているように、シャロームは、罪を認めず悔い改めないにもかかわらず、神を讃美して、神に従っているように見せかけています。実際は、自分の妄想的言説を信じる自分信仰であり、神としてはならないものを神として、神ではなく自分の解釈を偶像としています。第1戒と第2戒の両方に、真っ向から背いています。
 

 第3戒・・あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
 第4戒・・安息日を覚えて、これを聖とせよ。
 第5戒・・あなたの父と母を敬え。
 第6戒・・あなたは殺してはならない。
 第7戒・・あなたは姦淫してはならない。
 第8戒・・あなたは盗んではならない。
 第9戒・・あなたは偽証してはならない。
 第10戒・・あなたはむさぼってはならない。
(旧約・出エジプト記20章3~17節)

 
シャロームは、平気で嘘を吐きながら、仰々しく神を讃えるなど、偽証し、キリスト者然とする態度を貪っています。そして、日々、みだりに神の名、主の名を、悪用するという看過されることのない大罪を、恐ろしいことに生業として生きてきたのです。
 

第1戒から第5戒までは神に対する人の守るべき戒め。
第6戒から第10戒は人が人に対して犯してはならない戒めです。
第5戒の「あなたの父と母を敬え。」が神に対する戒めに入っていることは意味深いです。
人が神に対して守るべき戒めである第1戒から第4戒を犯すと
人は人としての権威と保護の土台である父と母を敬うことができなくなるのです。
父と母は神から与えられた権威によって子に対する保護、養育を行うのです。

 
十戒は、すべて神に背く行為つまり罪を戒めています。
父と母の権威は、神から与えられたと決めつけて、従え、と言うだけでよいものでしょうか。
 

平和には秩序が必要であり、健全な秩序は神の権威によって保たれるのです。
健全な権威が失われるとひとりの人のうちなる秩序と、
人と人との関係の秩序も失われるのです。

 
シャロームは、自分が批判されないことを、このように、秩序と呼んで、自らを健全な秩序とした権威主義者です。シャロームの言う平和とは、自分が王のように高みにあることです。ゆえに、ここでも、神の秩序を軽んじて、自ら権威者となる恣意をもって、神の権威を否定し、人の秩序を、自分で決めようとする背教を専らとしているのです。結果として、このようにだけはなってはいけない、という見本を示しています。
 

ですから、家庭は社会の秩序の土台なのです。
アダムとエバが神に対して罪を犯した時、
神と人との間の健全な秩序が失われ、的外れになり、

 
また、神と人の間の健全な秩序が失われたことを、アダムとエバという他人事として、あからさまな曲解による醜い自説を、もはや何の意味もなく、繰り返すしかなくなっています。
 

アダムとエバは支配と被支配という互いの人格を犯す関係となり、
アダムとエバにとどまらず二人の息子カインとアベルの関係を破壊し、
痛ましい人類の歴史上初めての殺人事件となるのです。

 
他人事として罪を語るシャロームの醜さは、今に始まったことではなく、また、改める意志もなく、繰り返して同じ事を語ることで、自らの、救いに逆行する大罪の有り様を、今日も表して、救いを拒んでいるのです。訂正不能になって凝り固まると、こうなるという見本になっています。
 

「罪」の文字の「四」は十戒のうちの第1から第4戒までの意味のようにおもわれます。
神が食べてはならないと言われた「善悪を知る木の実」を食べるとは

 
本来、第1~3戒を守ることは、十戒を守ることに通じます。
罪は、いずれも神との関係が的外れという意味です。上の(1)にも書いてあります。
 
>神の権威と保護の土台である第1戒から第4戒を
>「非」・・よしとしない、是認しないで、自らを神のような存在としてしまうことのようです。
 
それは、シャロームの姿です。
 
>人類の始祖アダムとエバに始まる歴史はこの「罪」の歴史なのです。
 
それは、シャロームの歴史です。
シャロームは、自らの罪に塗れた生き方を、自分で表しています。
 

それは過去のみならず、今も人の心を支配しているのです。
「罪」は呪いと裁きをもたらします。
それは神が与えられた裁きではなく、罪の力、罪の働きの結果なのです。

 
裁くのは、神の業(わざ)です。シャロームは、神に裁かれることを、罪の力と言い換えて、逃れようとしていますが、罪自体が神に背くことですから、神の秩序を否定した詭弁となっています。神の前では、空しい悪あがきなのです。
 

カインは弟アダムを殺した後、罪の呪いと裁きの重荷を負い、うめきながら
恐れと不毛の地上の放浪者となっています。神の保護と助けを求めながら・・・
神はカインをあわれみ、保護と助けを与えられます。
しかし、神はカインの罪の重荷を取り除くことはされません。
それはカインが選び取ったものだからです。

 
シャロームは、神が赦しの機会を与えているのに、罪を認めず悔い改めないで、罪に罪を重ねる自分の選び取ったものをまるで考えようとしないのです。この悔い改めない者、シャロームに対して、私たちは、もはや、近づかないようにすることしか出来ないのでしょう。
 

アダムとエバの子孫である私たちもカインの末裔なのです。
カインは負いきれない罪の重荷を負い、うめき叫んでいます。
カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。
あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。
わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。
わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」
(旧約・創世記4章13~14節)

 
このように聖句の悪用によって、シャロームは、みんな自分と同じだと言いたいのです。私たちは、罪を認めて悔い改める生き方を選んでいます。そこがシャロームとは決定的に違います。
 
したがって、聖句にしても、シャロームが引用するときには、何らかの悪だくみがあると警戒しなければいけなくなっています。シャロームが蒔いた種は、シャロームが刈り取ることになるでしょう。
 

神と野の関係が的を外れてから人は第6戒から第10戒を犯すようになります。
そして罪は罪の結ぶ実として滅びをもたらします。
だれも罪を選び取ることはできても、罪の結果からの自由はありません。
全ての人が負いきれないこの罪の重荷によってうめき苦しんでいるのです。

 
的を外れて犯す罪は、十戒の全部です。総て関連し、すべて神との関係に対する罪と言ってもよいのです。シャロームのように、どの罪が・・と、切り離して考えるのは、シャロームが、罪の実感もなく、悔い改めの必要性も考えないないからなのでしょう。
 

しかし神は私たちが負っている罪の重荷を
罪なきご自身の独り子イエスに負わせられたのです。
それが十字架なのです。

 
その主イエスは、悔い改めよと言っておられます。シャロームは、救い主の言葉さえ、罪を認めず悔い改めず、何をやっても救われるという自分の独善と詭弁に利用するほど悪質になっています。
 

エスさまが負われた十字架は私の負うべき十字架であり、
あなたの、いや全ての人の負うべき十字架なのです。
神は律法によってはだれも救われることのない罪の呪いから
ただ信仰によって受けるべき恵みとしての罪の赦しと
永遠の命を私たちに与えてくださったのです。

 
主イエスが十字架を背負うのは、私たちの罪を贖うためですが、その主イエスの教えを受け取りもしないのが、シャロームの背教であり、教えを受け取らず、救いだけは欲しがる恐ろしい身勝手によって、さらに他者を巻き込もうとするカルト性となっています。
 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、
死人の中から引き上げられた平和の神が、
イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、
あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。
栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。
(新約・ヘブル人への手紙13章20~21節)

 
そして、このように、大牧者、平和の神、讃美、御心、全て良きもの、栄光、世々限りなく、という大きな言葉の聖句を、ことさら引用するのは、シャローム固有の身近な嘘と罪と偽善の問題を切り離す方向に読者を誘導し、ごまかそうとしてしているのです。どうかシャロームに近づかないでください。
 
 
(2019年03月07日アップ、同日一部修正)