カルトと人間らしさ
カルトと人間らしさ
人間らしくありたい
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/38803307.html
ゲストブックなど、複数記事にまたがるコメント欄より。
私のコメントは記事専用です。
(楽山)
たとえ正しい事であっても、それに凝り固まってしまうのはよくないともいうし、ある程度の柔軟さは必要と思うので。
(私)
正しさには柔軟さがないと言うのでしょうか。正しさがあるなら、それは柔軟さなど問題にもならないでしょう。しかし、凝り固まるほどの正しさを人は見いだせないし持てないということです。
(私)
楽山は、シャロームの白々しく胡散臭い善人芝居さえ見抜けないでいる人です。つまり、楽山は、正しさについての不可知の認識さえも弁えずに、安易な社会通念によって、柔軟さが必要、などと体よく言っているだけなのです。
(私)
また、楽山は、社交の世辞の体の良い返事を、シャロームに書くのでしょうか。今まで庇ってきた手前、そうするしかないのでしょう。楽山は、柔和芝居に、柔和芝居を返すしかないのでしょう。
(シャローム)
楽山(自由)さん こんにちは
>「無神論にしろ、宗教にしろ、一つの思想宗教に凝り固まってしまう」
信仰とは思想宗教に懲り固まるということではないと思うのですが、人から出た思想宗教であれば、他の異なる思想宗教の批判の対象になるのですから、そうならざるを得ないでしょうね。
(私)
シャロームの信じ込みは、まさに凝り固まりであり、シャロームから出た妄想宗教であり、批判と否定の対象になるということです。
(シャローム)
それが人間らしいことでもあり、人間らしさを失うことでもあるということから逃れられないでしょうね。
むしろこの混濁合わせ飲むことが逃げられない人間らしさだと思いますがどうでしょうか。
(私)
シャロームは、人間らしさを失うことが人間らしいと言っています。それは、何を言うか分からない、何をしでかすか分からない危険な人を意味します。まさに、シャロームのことです。したがって、シャロームに限っては、人間に対して、何も言わず、何も書かないことだけが正しいということです。
(私)
シャロームは、宗教は人間らしさを失うことだと言いたいのでしょうか。いかにも、教祖や預言者気取りになりたがる危険な偽宗教人の考えです。少なくともキリスト教とキリスト信仰について言えば、人間らしさを失わないことが宗教と信仰の目的なのです。
(シャローム)
やはりむずかしいですね。そのために仏陀は出家し、修行し、悟りを開き、使徒パウロはその秘訣を心得ていると書いているようですが、なんでしょうね。
2019/3/8(金) 午後 5:53 [ shalom ] 返信する
(私)
また、シャロームの無恥で無知な大言壮語が始まりました。シャロームは、何を知ったかぶりしているのでしょう。シャロームがパウロを少しでも知っておれば、シャロームは、罪人らしく悔い改めるでしょうから、シャロームはパウロを全く知らないということになります。
(私)
さらに、仏教徒でもないシャロームは、つまり、ブッダもパウロも知らないで言っていることになります。いつまで、信仰と神の敵として、シャロームは、世迷言を言い続けるつもりなのでしょう。いい加減、やめてほしいです。偽りが、胡散臭くて、たまりません。
(私)
シャロームは、負けず嫌いの悪ガキの喧嘩根性で書いているとしか思えません。だから、理非を弁えることなく、愚にもつかぬことを繰り返し書いて来れるのでしょう。大人であれば、また返されるという予測をして、それ以上の傷を負わないように控えるべきところは控えるものですが、それとも、相手が、シャロームの阿保らしさに、うんざりして、引っ込むことを期待しているのでしょうか・・ちょっと考えにくい・・。
(私)
シャロームは、不感不応の不幸な体質を、先天的か後天的な知らないが、精神のベースに持っていて、傷を負わないでいるつもりだから、平気なつもりで、かつ、負けていない、さらに、勝っているつもりなのでしょう。こちらは、勝ち負けなど全く関係ないのに。
(私)
書けば書くほど、ボロクソの悪あがきの繰り返しになってゆく成り行きというのは、同情する気はないものの、病的で悲惨だとは思いますが、シャロームの及ぼす、または、及ぼすであろう迷惑と害悪を考えれば、書かないわけにはいかない成り行きです。
(楽山)
この辺りは、信仰の抱える矛盾なのだろうと思います。
信仰は、無私になることを求めるのだろうけれども、
信仰が強くなるほど、信じている主体である“私”も大きく強固になり、無私から離れてしまうとか…。
熱心な信仰者のなかには、私心なく、他者にやさしい人がいる一方で、
我が強く、自己中心的な人もいるのは、この辺りのことが影響してるのかなと思います。
2019/3/9(土) 午前 7:14 [ 楽山 (自由) ] 返信する
(私)
信仰は、無私になることを条件とはしていません。それが人には無理であることを、キリストは知っていました。ゆえにご自身が犠牲となる道を選んだのでしょう。人にもそうしろと命じたわけでもありません。総ての信仰者が殉教していたら、現在、キリスト教はなかったでしょう。人の弱さを承知の上で、癒しと赦しと救いは説かれていたのです。
(私)
信仰の強さは、忍耐力の強さかもしれないが、我の強さとは逆行するものです。我が強いのは、楽山であり、シャロームであり、そこに、信仰とは異質の頑迷な自尊が隠れているのです。
(私)
自己中心は、シャロームの妄想と、楽山のアドラー教が勧めるところでしょう。楽山は、シャロームの妄想の思い込みを見抜けずに熱心な信仰と言いましたが、シャロームは、我欲が強く執拗なだけなのです。上から教える丁寧語と聖書語のシャロームはキリスト者ではありません。シャロームは、温もりも潤いもなく、共感性が欠けています。
※
(私)
キリストは、人間が完璧な真実を知りえないことも、人間が完璧な正しさに耐えられないこともご存知でした。その上で、キリストは人間を愛したのです。そして、キリストは、人間らしい人を求めておられました。
それは、パンくずの奇跡の話の女性に表れ、
(マタイによる福音書、口語訳)
15:26
イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
15:27
すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
(マタイ15:26-28、新約聖書)
十字架上で罪を認めた犯罪人にも表れていました。
(ルカによる福音書、口語訳)
23:41
お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
(ルカ23:41-43、新約聖書)
ゆえに、キリストは、それらの人たちに、最上級の賛辞と赦しと救いを与えたのです。そこには、決して立派でも、正しいわけでもなかったけれど、神のもとにある人間の、精いっぱいの正直な人間らしさが表れていたからです。
(2019年03月10日アップ、同日一部修正)
胡散臭い(うさんくさい)
庇う(かばう)