ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

曲解の極致


   曲解の極致
 
   神の訪れを体験する道
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28919531.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームの記事タイトルからしても、「神の訪れを体験」という、シャロームの体験は、奇跡体験というより実際は異常体験の領域でしょう。詭弁の非人間性が、ますますひどくなっています。
 

★今日のみ言葉★(2016.2.20)
「夜から朝へ」
一日が終わり、夜が来て、ベット着き眠ります。
そして、また朝を迎えます。
わたしの場合、朝焼けを見ながらウォーキングをすることもよくあります。
冷たい朝のウォーキングはまた、爽快です。
このような毎日の繰り返しです。
ところが、やがて朝が来ない日が来ます。
この地上人生の終わりです。
聖書のみ言葉をそのまま、讃美で歌うことがあります。

 
人生の終わりには、何の利益でもなく、讃美が必要になるかもしれませんん。
しかし、日ごろから讃美しまくって、自らの裏切りを糊塗している者がいます
 

み言葉と讃美がひとつになって、歌えることはすばらしいですね。
今日のみ言葉はこのまま讃美としても歌えるところです。
ここでわたしが歌って、聞いてもらうわけにはいきませんが、この讃美、知ってますか。
詩篇30:4、5
主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。
その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。
夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。(口語訳)

 
喜びが来ると言っているのであって、

泣き悲しんでいるそのときに、讃美して、喜ぶんだ!と気合を入れろ、
とは言っていません。人間離れしろ、とは言っていません。
悲しいときには、悲しみながら、正直に告白することこそ大切です。
 

主に讃美を歌い、感謝をささげる人たちは主のいつくしみに生きる人たちです。
主のいつくしみとは具体的には、十字架と復活の恵みでもあります。
主の怒りをあまんじて受け、自分の至らなさ愚かさをそのまま認め、
泣きながら夜を過ごす人がいます。
主イエスと共に十字架に死ぬ人です。
その人は朝と共に喜びの歌をうたう人となります。
この詩編の著者だけではなく、
今日も世界中でこのみ言葉を体験している主の聖徒が大勢おられると思います。

 
主の慈しみに生きるならば、いずれ、喜ぶようになるということで、
悲しいときに無理な感情を持てというではありません

泣きながら夜を過ごすことにシャロームは共感がいだけないのです
 
悲しいときに喜んで讃美しろというわけではないのです。
また、主イエスと共に十字架に死ぬ、ということを気安く言うのは禁物です。
 

十字架の夜を通らなくて、復活の朝を迎えることはありません。
復活のいのちに生きる、その朝を迎えたいと思う人は十字架の夜を通る必要があります。

 
こういうことを説教するから、シャロームのように、十字架の死と肉体の復活を振り回して、豪語する者が出てくるのでしょう。人間離れした説教の文句をさらっと言うものではないのです。実際は、正直な祈りと共に過ごす以上のことは出来ないのですから
 

人によっては、それは特に大げさな体験ではないかもしれません。
小さな繰り返しかもしれません。
それでも、主のいつくしみに生きる人です。
いのちのかぎり長い主の恵みを体験する人です。
どう思いますか。

 
大袈裟な体験ではないことを説明していないから、曲解して、おかしな辻褄の合わせ方をして、奇行や奇妙な妄想を信条とするような、シャロームのような偽善者が出てくるのでしょう。
 
>《shalomのコメント》

聖書には・・・
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことに感謝しなさい。・・・という御言葉があります。
いつも、どんな時にも喜んでいなさい。
そんな事できっこないと思う人が多いと思います。
私にもできません。
そんなこと出来っこない私に
それでは絶えず祈りなさいと勧めています。
私は絶えず祈るなんてできません。
祈ることもできない私に
さらにすべてのことに感謝しなさいというのです。
そんなすべてのことに感謝なんてムリですという私に、

 
出来ないことは出来ないと言い、分からないことは分からないと言い、
分からない箱に入れておくしかないことです

それを、無理に分かったことにしてしまうと、
シャロームのような欺瞞と虚偽と嘘で出来ているような偽善者の偽信仰に至ります

その原因は、自分は分かるんだという思い上がりです。
しかも、それを伝えようとするから、信仰の敵になるのです。
 

続く言葉があります。
これがキリスト・イエスにあって、
神があなたがたに求めておられることである。
(新約・第一テサロニケ5章16~18節)
キリストにあって・・・求められているというのです。
キリストにあってとはどういうことでしょうか。
十字架につけられたキリストと共に死に、
よみがえられたキリスト共に生かされているわたしです。

 
シャロームが、罪を悔い改めないのは、このような道理のない自動救済が信条としてあるからなのです。求められていることが出来ないのは、出来ないことであり、それ以上ではありません。
 
その事実を歪曲して、それで救われたのだ、キリストとともに死んだからだ、キリストとともに生かされたのだ、だから、罪も悔い改めをしなくても赦されるのだ、罪を認めなくてもいいのだ、嘘を吐いてもいいのだ、という人災バカボンのパパになってしまうのです。もはや、私に言えるのは、シャロームのような自己欺瞞に陥らないように注意してください、ということだけです。
 

生まれながらの自分にはできないことですが、
十字架につけられたキリストと共に死に、
よみがえられたキリスト共に生かされているわたしには
信仰によって行うことができるというのです。
知性、感情、意志によっては出来ないけれど、
キリストにあるという信仰によってできるというのです。

 
違います、全然、違います。キリストは、人が出来ないことを憐れまれるのです。それを理解しないで、シャロームは、血迷っています。これが、最悪の、人間離れ思考なのです。キリストのもとにない、という背教に他なりません。
 

ある時、弟子のペテロは一晩中漁をしたのです。
一匹の魚も獲れず、疲れ果てて帰り、網の手入れをしていました。
そこへイエスさまが来られ船を出しなさいと勧められました。
ペテロはイエスさまを乗せて船を漕ぎ出しました。
エスさまは船から、岸辺に立っている大勢の人に話された後、
ペテロに船の右側に網を打ちなさいと勧められたのです。
ペテロは驚き、恐れました。
夜通し網を打ち疲れて帰り、網と船をきれいに手入れしたばかりなのです。
この方はなんてことをいうのだろう。こんな大勢の人の前で・・・
こんなに明るい、水の澄んだ湖で網を打っても魚は逃げて、
一匹も獲れないと漁師のペテロは知っているのです。
みんなに笑われるだけで、そんなことできませんと思ったのです。

 
違います、全然、違います。このときは、キリストが網を入れるように言ったのです
シャロームは、何を血迷っているのでしょう。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
5:4
話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
5:5
シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
 (ルカ5:4-5、新約聖書
 
このように、キリストが言ったから、網を下してみたのです奇行をするのがよい、などとは、キリストも神も誰も言ってはいないのです。シャロームは、実に、的外れの意味付けをしています。そして、また、偽善の罪を積み重ねているだけです。
 
シャロームは、神に、あるいは、キリストに、網をおろすような感じで、嘘を吐きなさい、罪を認めないでいなさい、悔い改めないでいなさい、とでも言われたのでしょうか。何という詭弁だ。ふざけたことを言うもんじゃない。
 

しかし、ペテロは自分の知性、感情、意思、経験では決してできないことを、
この方、イエスさまの勧めの言葉だから従ったのです。
そして、獲れたたくさんの魚に驚いたのです。
ペテロは神の訪れの時を体験したのです。

 
神が、キリストが、言ってもいない奇行をすることが、シャロームの場合、罪を認めず悔い改めず嘘を吐くことが、信仰だと言い張っているのです。もう、シャロームは、言い逃れの詭弁づくりのために、めちゃくちゃになっています。辻褄合わせの詭弁も、シャロームにかかると、ここまで嘘八百のデタラメになるのでしょうか。
 

ペテロは自分にはできない、しないことを、
キリストにあって網を打ったのです。
キリストにあってとは、イエス・キリストを信じるということのようです。 

 
キリストが、網を下すように言ったからです。狂気の世界に笑って、また嘘を吐いているシャロームに、決して捕まらないようにしてください。シャロームは、神に逆らい、ただ、裁きを待ちながら、自己正当化に走って、道理も何も考えもなしに、吠えているだけです。恐ろしい男です。
 
桁外れの詭弁が、神も信仰も汚して、桁外れの奇行の信条?を叫んでいます。哀れですが、同時に、キリスト信仰にとって、甚だ迷惑極まりない。
 
※※ 
ブログ移転について
私は今、ヤフーブログに書いた記事を、先ずアメブロにコピーしています。ツールを使う5月以降は混雑しそうな気もしますし、勝手が分からないこともありますし、記事によっては、捨てるか、修正が必要なのもありますので、自分の手でやっています。修正の仕方もだいたいわかったから、一応コピーできるけど、なんかブログの体裁が他のアメブロと違って殺風景だな・・設定で少し良くなりました。
「ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)」ってことになってます。タイトル変えられない?・・変えられた。
今日コピーして移した分を考えると、あと40日くらい暇な日が必要で、気が遠くなりそうですが、出来るだけでもやっていきます。シャロームがこんなふうだから、批判は、それこそ、アメーバだけでなく、さらに、複数のサーバーのブログ記事において、逐一記事にして、敷衍してゆくことになりそうです。
{2019年03月10日午後6:50現在}
 
 
{2019年03月11日アップ}