ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

カルトと人間らしさ(2)


   カルトと人間らしさ(2)
   
   人間らしくありたい
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/38803307.html
   ゲストブックなど、複数記事にまたがるコメント欄より。
   私のコメントは記事専用です。
 
 
(シャローム
>「この辺りは、信仰の抱える矛盾」<
正確には「信仰の抱える矛盾」ではなく、「人の思想宗教の抱える矛盾」であり、人間存在そのものが抱えている矛盾だと思います。その矛盾を解消し、克服できる人は一人も存在しないと思います。私もその一人です。
それが聖書の言葉“義人はいないひとりもいない”ということだと思いますし、
しかし、同じ聖書に“信仰による義人は生きる”とも書かれています。
つまり「信仰」と「人の思想宗教」とは本質において異なるというのです。この違いが理解されないまま「信仰は、無私になることを求める」と考えても答えは無限の闇の中をさまようことになると思われます。確かに人は今もその闇のなかをさまよっているように思われますがどう思われますか。
2019/3/9(土) 午前 8:43 [ shalom ] 返信する
 
(私)
無限の闇の中で、何も見えず、一人でも味方にしようと、楽山に働きかけているシャロームです。
(私)
宗教は信条と解釈に加え、組織的なものでしょうから、考え方や思想もあるでしょう。信仰は、聖書から、そして、キリストからダイレクトに受けた心情から生まれるもので、とても、個別的です。
(私)
しかしながら、キリストから受けたと言えば何でも良いわけではなく、それが、人間に温もりと潤いを与えるものであり、慰めや癒しや赦しや救いにつながるものであることが必要なのは、言うまでもないことです。
(私)
宗教を、思想であって信仰ではないことをもって否定し、自分の妄想的言説を信仰だからと正当化することは決してできません。思想はベースにあり、促進されるべきものだからです。それぞれの信仰者において、出来る範囲で、努めて反省し考えることは、キリスト者の務めであります。
 
(楽山)
その辺りについては、信仰には、神の召命による信仰と、人の我意による信仰もどきがあるとして、この二つを区別したらいいかもしれないですね。
 傍から見てる感想だと、もともと無私な人は、信仰によってますます無私で他者に尽くすようになり、我の強い人は信仰によってますます他者の意見を聞かなくなり、自己中になっていく傾向があるみたいです。
 
(私)
我意による信仰もどきの二人が、我意に気づかないまま、他者の悪口を言っています。二人は、人の意見を聞かなくなり、自己中のカルトを広めようとしています。そこだけ共通しているのです。
 
(楽山)
持てる者はさらに与えられ、持たざる者はさらに取り上げられるという話があったと思うけど、これは残酷な真実かも…と思います。
2019/3/9(土) 午前 9:48 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
13:11
そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
13:12
おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
13:13
だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
 (マタイ13:11-13、新約聖書
 
 (私)

与えられるのは、信仰の結実としての恵みのことです。そういう文脈です。
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん
>「持てる者はさらに与えられ、持たざる者はさらに取り上げられるという話があったと思うけど、これは残酷な真実かも…と思います。」

これも聖書に書かれている話ですね。でも神は人の目には良い人と思われる人にも悪い人と思われる人にも恵みの雨を降らせてくださる方ですから、
 
(私)
シャロームは、上のことを知らず、また調べてもみないので、「でも」という逆説で話を続けるしかないようです。そして書いたことは、悪い人と思われる人にも恵みがあると自己正当化に結び付ける卑怯さと狡猾さです。神の恵みは、罪を悔い改める人に与えられます。シャロームは、自分の勝手な解釈と妄想で、自分が救われたと見なしているだけです。この辺が、キリストを殺すようなパリサイ人などの偽善者と同じ横暴さをシャロームが持っているという根拠の一つなのです。
 
(シャローム
残酷な真実は神が食べてはならない、それを食べると死ぬといわれた善悪を知る木の実を食べた人による思想と宗教によって生きて人が選んだ結果なのです。
 
(私)
シャロームは、アダムとエバの話を、大昔の残酷話としてしか理解していないのです。前から言っているように、アダムとエバは、今の私たちであり、犯した罪も、私たちの罪なのです。そして、全能の神は、その罪をご存知であり、赦す道をキリストによって与えました。したがって、善悪を知る木の実を食べた原罪の話は、決して大昔のとんでもない奴らがやってしまったという話ではありません。
(私)
シャロームは、大嘘吐きです。
 
(シャローム
よく神の裁きと考えられがちですが、例えばアダムとエバエデンの園から追い出されたのは決して神が追い出されたのではなく、犯罪人がおまわりさんの目を恐れるように、二人が神のまなざしに耐えられなくなり、逃げ出したのであって決して神の裁きの結果ではないと私は思います。なぜなら神は「あなたがたはどこにいるのですか」と二人を探し求めておられたのですから。
2019/3/9(土) 午前 10:26 [ shalom ] 返信する
 
(私)
神の裁きは、シャロームに、いずれ、下されるでしょう。アダムとエバ失楽園は、神の懐の内にある話であり、神の救いの計画の一つとして、私たちの原罪を明らかにしているのです。
 
 (創世記、口語訳)3:23
そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
 (創世3:23、旧約聖書
 
(私)
神がエデンの園から追い出したと書いてあります。しかも、見捨てたわけではないのです
(私)
シャロームは大嘘吐きです。聖書をけがしています。それを、非信仰者に得々と教えているのです。
 
(楽山)
そこは、スピリチュアル系と似た考え方ですね。
スピ系でも、天国に行くか、地獄に行くかは、神が裁くのではなく、自分自身で決めるという話があります。
 
(私)
偽善者シャロームの嘘に乗せられた楽山が言うことですから、ただの世辞と軽口に過ぎません。本当に、無知で無恥の大嘘吐きのシャロームと、すぐ話を合わせてしまう楽山は、迷惑な食わせ者です。まるで示し合わせているかのようです。
(私)
楽山は、シャロームの悔い改めなくても悔い改めより先に赦されているという言い分を支持しました。神の赦しの御心は永遠の昔からですが、ゆえに、神は、人が罪を認めて赦しを乞うことを待っておられるのです。そのことが聖書に書かれているのです。つまり、楽山とシャロームは、神の赦しの御心と、神が人を赦すという行為と、人が赦しを乞うという行為とを区別していません
(私)
区別すれば、神が人を赦すという行為は、人が神に罪を認めて悔い改める行為を受け容れて神が与えるもので、赦しは、人からの罪の告白と悔い改めの後だと分かるはずなのです。楽山は、その誤りを訂正していないのです。いつまで楽山はシャロームの詭弁に踊らされるのでしょう。
 
(楽山)
あとは、類は類を呼ぶというように、人は同じような人同士が引き寄せ合うものだから、善人が集まるところは天国になり、そうでない人が集まるところは地獄になるとか…。
2019/3/9(土) 午前 10:44 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
これほど、悪質なやり取りを見たことがありません。というのは、一見、まともに見せかけることだけは、二人とも知っており、出来るからです。何という底意地の悪さでしょう。そんなに仲良く滅ぼし合いたいなら、なぜ、公開して見せようとするのだろう。誰もいないところで、誰も見ないし聞かないし影響も受けない形でやってほしいです。
 
(シャローム
>「そこは、スピリチュアル系と似た考え方ですね」<
人による幾万巻の書を読破しても人による思想、宗教はどのような書であれ、
「信仰」と「人の思想宗教」とは本質において異なり、この違いが理解されないまま、導き出される思考と論理による答えは無限の相対化という闇の中をさまようことから逃れることは出来ないのですね。
 
(私)
「無限の相対化」「闇の中をさまよう」という、もっともらしい、意味ありげな言葉に惑わされないようにしてください。シャロームは、この手の神秘言葉が大好きですが、シャローム自身は、まるで理解していません。目くらましに使うだけです。分からないから、恥ずかしげもなく、何度も好きなように使うのです。前に使っていた「自他未文化」と同じで、言葉は、シャロームのおもちゃに過ぎません。
(私)
信仰は、聖書を読んで直感するキリストの愛に触れることです。それを表す言葉が思想となり宗教と呼ばれますが、その言葉自体は信仰ではないということです。当たり前のことであり、無限の相対化とか呼ぶ必要はないし、闇の中をさまよってもいません。当たり前のことに、重い重い言葉を当てて、インテリぶりたいシャロームの気取りに惑わされないでください。
 
(シャローム
聖書は1500年以上の長い歴史と様々な40人以上の様々な立場の人々によって記録され旧約39巻、新約27巻の文書として記録され、集められ一冊の聖書としてあらわされた証しの書であって、決して人による思想宗教の書ではなく、神による啓示とイスラエルの民の歴史と神の約束の成就としてそこに生まれ、生き、死に、よみがえられたイエス・キリストの生涯と聖霊によるによる証しの証言なのです。人による思想宗教の相対化と限界を突き破る信仰の世界への回復、入口ということができるでしょうか。
2019/3/9(土) 午後 0:08 [ shalom ] 返信する
 
(私)
なぜ、大昔の聖書の成り立ちを、シャロームが語るのでしょう。書いた人のことや、書いた人の霊感が、どうして、書かれているところの、罪と悔い改めの教えを、守ろうともしないシャロームに分かるというのでしょう。聖書の歴史には謎が多いはずですし、その解釈は今も議論があるのだから、賢明な人ならば、このシャロームのような大言壮語にはならないはずです。ここに、預言者ぶって自慢したいシャロームの薄汚い欲望が表れているのです。シャロームの、偉そうに振る舞うペテン師ぶりが表れています。
 
(シャローム
第1部を読み終えて、第2部を読み始めたところですが、「日本教社会学」を読みながら、ふと今朝方思い浮かんだのですが、
日本人は現実の自然の脅威と人としての存在感の儚さ、恐れから逃れるために神話というバーチャルリアリティーの世界を空想し、想像によって築いて、神話と現実を覆う融合混合親和した価値観、世界観を作り上げた、それが日本教ではないのだろうかと思われました。
 
(私)
自然の驚異、人間の存在感の儚さ、バーチャルリアリティー、神話、それらが日本教でしょうか。融合混合親和、などと難しそうな言葉を並べてくっつけて世界観とは、これは日本独自のものでしょうか。似たようなそういうあり方は、世界の宗教や文化にあることでしょう。日本の独自性とか特徴とかを、全く言い得ていないシャロームの、大袈裟な言葉遣いを真に受けて、分かったような気分にならないでください。酒でも飲んでいるのか、というくらい、いい気になってゴタクを並べても、一歩も本質に近づいてはいないのです。
 
(シャローム
日本人はアニメの世界にとても心惹かれ、好きで、表現も豊かなようですが、宮崎駿のアニメの世界はそのような日本教の世界を描いたものではないかと思いました。
2019/3/9(土) 午後 0:42 [ shalom ] 返信する
 
(私)
アニメには日本の文化が表れているでしょうし、日本以外の文化も、想像の世界も、表れているでしょう。宮崎駿のアニメは、日本的だけではないはずです。そして、アニメもマンガも、童話的なものには、ある種の教訓が書かれていると思います。そういったことを見ないで、日本の文化を、無思慮に、日本教と呼んでしまう短絡を見逃さないでください。社会を、その中の文化を、屁とも思わず、なめてかかるシャロームの、実に気安い神がかりの空想的豪語が表れているのです。
(私)
シャロームの話を聞くと、時間の無駄にしかなりません。シャロームは、人など、どうでもよく、内容も理路もストーリーも読み取る理解力などなく、自分が気持ちよくなるように話を垂れ流します。シャロームにとって、言葉や話の意味など、どうでもよいのです。シャロームの話は、失禁される排泄物に過ぎません。たとえるなら、シャロームは排泄が気持ちよいだけです。私は、シャロームの空しい虚偽を指摘するためだけに書いています。シャロームは、人が誤解することの迷惑を何とも思っておらず、聖書も宗教も信仰も語る資格はありません。
 
(私)
気持ちの悪い言論者気取りが、カルト周辺には、いっぱいいるようです
 
 
{2019年03月12日アップ、同日一部修正}