ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

断末魔

 
  断末魔
 
   罪の赦しの確信と平安
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28924075.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
他者の記事を引用して、それを捻じ曲げ、自分の正当化に悪用する者がいます。そして聖句までも悪用して、どこまでも言い逃れようとします。そういう者をキリスト者(クリスチャン)とは決して呼びません。シャロームの醜い詭弁を見てください。
 

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★今日のみ言葉★(2016.2.22)
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「裁きか赦しか」
テレビ画面で時たま、「わたしの過ちでした」と、
頭を下げている人たちを見ることがあります。
自分の間違いや過ちを素直に認めると、
裁かれて不利になるのがこの世の普通のことです。
赦してもらうことはなかなか期待できません。
ですから、普通は自分の非を認めて謝罪する人は多くありません。
それは社会的にも恥ずかしいことだからです。

 
社会的に恥ずかしいから過ちを認めない人がいるということですが、引用記事は、その人を決して正当化してはいません。シャロームは、恥ずかしいなら嘘を吐いてよいと言うのでしょうか。
 

ところが、自分の非を神の前に素直に認めると、
赦されるというのが聖書の福音の世界です。
一般的には、赦されないことの方が普通ですので、赦される経験があまりないため、
この聖書の福音がなかなか受け入れられないわけです。

 
上を導入として、ここで、聖書の福音の世界、つまり、罪を正直に、神に告白し悔い改めて、赦される信仰の道を説いています。シャロームは、その逆を主張しています。
 


詩篇32:5
わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。
わたしは言いました、「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。

 
神に対して、咎を隠さず、背きを告白。それゆえに、赦されるのです
このシンプルな教えを、ねじ曲げる者がいること自体、驚きなのです。
 

主の恵みといつくしみに生きる人がここにもいます。
日々の生活の中で、人のことではなく、自分の罪や過ちをどのように処理していますか。
うそを言ったり、人を傷つけたりした時です。
密かに償いの罪滅ぼしをする場合もあります。
自分の過ちを素直に認め、主の前に告白する人は、
いたずらに自分を責め、裁いている人と同じでしょうか。
何がどう違うでしょうか。
一方は、自分を責める気持ちもありますが、
主の前に告白して主の裁きにゆだねる人です。
もう一方は、自分で自分を裁いている人です。
主に赦されるのはどちらでしょうか。
主イエスの十字架と復活の恵みの上に立っているかどうかで違ってきます。

 
シャロームは、どちらでしょう。紛れもなく、自分で自分を裁いて、しかも無罪としている慮外者ということにしかなりません。
 

主が赦してくださるのは、ただその人がかわいそうだからということだけではありません。
エスの十字架の犠牲と代償の故の赦しです。
そこから赦されたことの確信と平安が与えられます。
相手を赦す力も与えられます。
こういう経験がありますか。

 
主が、かわいそうということではなく、十字架の贖いによる赦しだと書いていますが、そのような聖書語よりも大事なのは、主の赦しこそ、主の愛と神の寛容を表しているということです。
 

《shalomのコメント》
「テレビ画面で時たま、「わたしの過ちでした」と、
頭を下げている人たちを見ることがあります。」
時たまではなく、頻繁に見られます。
最近は証拠隠滅、記憶にありませんに変わったようです。
ある神前風景が浮かびます。
お祓いや禊を受けるため、恭しく頭を(コウベ)を垂れている人の姿です。
たとえ罪を犯しても、その人が神前に頭を垂れて罪を認めると
それ以上誰もその人の罪を責め、鞭打つことは出来ないという習わしです。

 
シャロームの、他者を馬鹿にする態度が見えるでしょうか。テレビでの謝罪も、証拠隠滅も、同様に見ています。そして、シャロームは聖書の記事を引用しながら、それを神道に譬えています。シャロームは、異教を持ち出して、ボロクソに言うのは、善いことと思っているようです
 

それは神殿でどんなに罪を贖う犠牲をささげ、
祭壇の上で罪の代価である涙、血潮を流しても
罪が清められないことと同じで、際限なく繰り返すしかありません。

 
罪を犯し、赦される、これのどこが際限がないのでしょう
際限がないのはシャロームの詭弁のほうです。
 

しかし、神前にこうべを垂れ、罪の赦しと清めを受けることは
神からの罪の赦しと平安を与えられる道であることを証ししているようです。
それは神の御業によるのであって、人のわざによるのではありません。

 
神の業、すなわち、神が人を赦すことであるからこそ、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと、シャロームのように自分に都合の良い解釈を捏造してはいけないのです。神の前には、人は、ただ、こうべを垂れて、正直に告白して、赦しを乞う以外ないのです。
 

神の赦しと平安は神の罪を贖う神の御業によって与えられ、
神の恵みの賜物である罪の赦しと平安は
ただ幼子のように信仰によってのみ受け取ることができるのです。

 
幼子は、言い逃れをしません詭弁を弄しません、解釈を捏造したりしません、無視して安穏とすることを神の平安などと言ったりしませんシャロームのどこをとっても、幼子のような信仰には、全く該当しません。嘘吐きの偽善者の詭弁家のシャロームは、ただただ、醜いだけです。
 

律法によっては誰一人も義人とされることなく、
ただ信仰による義人は生きると聖書は告げています。

 
その信仰を、シャロームに見出すことは、全くできません。嘘で塗り固めた自己正当化は、すべて、神によって、見抜かれています。告白と悔い改めは、律法ではありません。キリスト信仰の芯であります。シャロームは、今日も、嘘に嘘を、偽善に偽善を、詭弁に詭弁を重ねて、自らの背教の証拠と、地獄の亡者としての性質だけを明らかにしています。永遠に、悔い改めを拒んで、赦されたくないようです。
 

主に赦されるのはどちらでしょうか。
主イエスの十字架と復活の恵みの上に立っているかどうかで違ってきます。
そこから赦されたことの確信と平安が与えられます。
相手を赦す力も与えられます。

 
主イエスの十字架と復活の恵みに立つ信仰者は、主の前で、嘘を吐きません。シャロームは、まだ分からないのか。いかなる確信も平安も、シャロームは捏造するしかなくなっています。書けば書くほど嘘がバレてゆく
 
シャロームは、ボロクソ節しか知らず、聖書を知らず、信仰を知らず、愛の共感を知らず、ゆえに、嘘を吐き続けています。ゆえに、嘘ばかりなので、誰をも赦すことなど出来ません。どうか、どこまでも成り立つことのない言い逃れしかしないような、シャロームに近づかないでください。シャロームは、もはや、断末魔の乱れ方です。
 
 
(2019年03月16日アップ)
 
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