ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

コンニャク説教(2)

 
  コンニャク説教(2)
 
   人のことを決めつけてはいけない?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41503450.html
   記事とコメント。
   私のコメントは私の記事専用です。書き込みません。
   彼らに巻き込まれて、気持ちの悪い人間にならないためです。
 
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん こんばんは
「人情、情緒、良心とかは、言い換えれば愛、慈悲、仁、忠恕」
古の日本人の美しき美徳のようで、今はすっかり忘れ去られた徳目のように思われますね。
 
(私)
すっかり忘れ去られた徳目と、シャロームのボロクソ節です。人のことは、好きなだけ極端に、けなします。一方、自分のボロクソ節という行き過ぎについては、何も気づかないのです。
 
(シャローム
まだ人権などという言葉のなかった時代でも人と人を結び、社会の古き良き秩序を保っていたことのように思われます。
 
(私)
古き時代に、良き秩序は保たれていたでしょうか。歴史を勉強したほうがよい思います。
(私)
味方同士で好きなように遣り取りしていると、恣意によって、このように、外れたり、不穏当であったりするなどで、公平な議論にはならず、増長した悪口になってゆきます。楽だけを求めるカルトの自己愛的な必然なのです。
 
(シャローム
欧米仕込みの反自然的な科学や人権意識はそういう美しい日本人らしいありかたをギスギスした関係にしてしまったという思いを自由さんは感じておられるのでしょうね。
 
(私)
今度は、日本の堕落を、欧米のせいにしたいのでしょうか。ここまで、人に厳しく、自分だけに優しい人も珍しいでしょう。シャロームも日本に住んでいるのですが。こういうのを自己中心と言います。
 
(シャローム
「文明と人間」の著者である志村さんもそういうことを書いておられました。表紙のカバーには次のような言葉が書かれています。
 「科学・技術は未曽有の物質的繁栄や便利さなど、恩恵をもたらした。しかし、一方では画一的な価値観を産み、自然へのあくなき征服欲を増大させてきた。私たちは、多くのものを得ると同時に、多くの代価を支払ってきたのではないだろうか」と。
 現実に文明の交流は衝突でもあり、世界的規模でグローバル化していく今日の世界にはそういうカルチャーショックはこれから誰にも避けられない時代でしょうね。
 急速に息苦しい時代に向かっているのは確かでしょう
2019/3/14(木) 午後 10:17 [ shalom ] 返信する
 
(私)
多くの人が、既に考えていることです。シャロームは、人の意見でボロクソの足しにしたいのでしょう。しかし、引用は、長短両方書いてあります。息苦しいのは、まさに、シャロームのボロクソ節と、楽山の締まりのないコメントだと感じます。
 
(楽山)
その辺りについては、自分の場合はそれほど整理されてないかも…。
古を尊ぶ気持ちはあるけど、身分差別の封建時代よりは、四民平等の民主主義の世の中の方がいいし、
 
(私)
このように、楽山に指摘されている。楽山らしく、かも…と。丁寧のつもりでしょう。シャロームには、これは無礼な婉曲にはならず、通用するんでしょう、というより、シャロームは、理解しないかもしれませんが。
 
(楽山)
でもポリコレとかいうやつにはうんざりすることもある。差別撤廃を目指すのはいいけど、積極的格差是正措置は逆差別になってるようにも思える。人権尊重は正しいのだろうけれども、人権は政治的な目的を達成するための手段、口実になってることも少なくないようだし、ここは警戒が必要…大体こんな感じかな
2019/3/15(金) 午前 7:10 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、性別・人種・民族・宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正・中立な言葉や表現を使用することを指す。 政治的妥当性ともいう。(ウィキペディアより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9
 
(私)
楽山は、やはり、言葉だけを整えることに抵抗を覚えるようです。しかし、うわべだけ、丁寧に書くことで、優しく柔和にしたと思っている楽山の言葉も、実は、ひどい侮辱になっているのです。言葉よりも、理路の拾い方が、自己中心になるからでしょう。
 
(楽山)
あと最近の洋画では、一つの映画にいろいろな人種の役者を遣ったりしてるけど、これってなんか画面が落ち着かないですね。統一感のある作品を作ろうとする場合は、この点、再考の余地はあるのではなかろうか。
2019/3/15(金) 午前 7:11 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん おはようございます
「四民平等の民主主義ですか?!不思議な言葉ですね。
 積極的格差是正措置は逆差別になってるようにも思える。
 人権は政治的な目的を達成するための手段、口実になってることも少なくない。」
 政治が絡むと怪しげな言葉が独り歩きしてしまうようで
薄気味悪いなとは感じます。
 
(私)
民主主義を目の敵にしているシャロームは、他者に向ける悪口だけは積極的です。そのくせ、悔い改めという自分の問題点については、まるで気にしないのです。シャロームの気味の悪さは格別です。
(私)
それと、言葉だけ、丁寧語を使っていて、実際には強烈な自己中心と、気に入らないと無視する態度においては、シャロームと楽山が酷いものですが、それを反省することはないようです。
 
(シャローム
最近の映画をあまり見ませんので、わかりませんが、
アメリカ映画にはだいぶん以前から登場しているようですが、いろいろな人種の役者を使うと画面が落ち着かなくなるという意味が分かりませんし、統一感のある作品をつくるのに差支えがある?再考の必要があることもわかりませんね。
私にはかえって良い作品になる可能性があるように思いますが、
 
(私)
わからないと言いながら、しゃあしゃあと書いてくるシャロームです。偽装のような謙譲。
 
(シャローム
映画愛の強い自由さんと私の映画に対する思いが違うのかもですね。最近日本の映画やテレビドラマ、テレビにも登場していますが、なんとなくわかるような気もしますが。
 
(私)
映画についての思いは人によって違うのが普通です。かもですね・・という必要はないのです。二人とも、・・かも・・、という曖昧表現で書けば柔和になると思っているようです。これだけではありませんが、私は、コンニャク説教あるいはコンニャク問答と呼びたいのです。この場合、ただの推測の「かもしれない」ではなく、実際には何かを言いたいのに、意味のない曖昧を、柔和と勘違いして満悦している特徴だからです。だいたい、そういう場合のコンニャクは、エヘヘ、という照れ笑いのような、わざとらしい、芝居臭さを伴います。
 
(シャローム
ますます日本在住のいろんな国からの外国人が多くなると思いますが、一時滞在の観光ではなく、日本に在住していると住みづらさ、息苦しさを感じる人も多いのではないかと思います。
2019/3/15(金) 午前 9:31 [ shalom ] 返信する
 
(私)
外国人が息苦しさを感じることを心配するだけでなく、違う文化圏の外国人が溢れるようになると、日本人が何らかの迷惑を受ける可能性も考えるべきでしょう。シャロームが、そのことを書かないのは、なぜなのでしょう。日本のことをボロクソに言ってきたシャロームは、以前、書く必要のないところで外国に住んでいたことを自慢げに書いたり、韓国に知り合いがいるとか、書いていましたが。
(私)
相手の言うことをまっすぐに受け取ってから返す、ということをしない人というのは、議論にも話にもならない人です。うっかり、こちらが、まともに考えて詳しく返してゆくと、病気になりそうなくらいの的外れが続いて、痛めつけられることがあります。私が、シャロームと楽山のコメントに、直接コメントを書くのを止めて、記事にしか書かない理由です。自己中心の恣意というのは、いつも、人格を破壊する方向なので、警戒したほうがよいと思います。
 
(楽山)
そこは微妙な話ですけど、アメリカ映画ではいろいろな人種の役者が出てるけど、アジア系が出ると何となしに浮いて見えることがあるということです。物語の流れとしての必然性があるなら違和感なく見れるけど、そうでなくてさほどの必然性もなく、唐突に出てくると、なんか浮いてると…。
でもまあ、これは慣れの問題であって、そのうち何ともなくなるかもしれません。
2019/3/18(月) 午後 7:20 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
いちばん浮いているのは、話の流れも脈絡も必然性も違和感も弁えず、唐突に、とぼけた結論だけを書いて、結局、ああでもない、こうでもない、内容のないような話だけをして、評論家気取りの気分だけが浮いてくることです。これは慣れることはないでしょう。何ともなくなったら終わりだからです。
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん
何となしに浮いて見える
なんか浮いてると…
自由さんのいつもの簡潔なコメントに2回も“浮いて”という言葉が浮いていますね。
アジア系の人は欧米系の物語の流れの表現の仕方、感じ方、とらえ方とはそぐわない異質性があるのでしょうか。
それは自然、風土、宗教の異質性に関係しているのかもしれませんね。
2019/3/19(火) 午後 6:52 [ shalom ] 返信する
 
(私)
アメリカ映画でアジア系が出ると浮いて見えるという話をしているようです。しかし映画の話です。映画で浮いていたら、自然、風土、宗教が異質性、ということになるのでしょうか。違って見えたとしても、二人は、知識も経験もないのに、まるで民族を知っている専門家ででもあるかのように、何を大仰に書いているのでしょう。
(私)
見逃されているのは、自分を見る視線です。人を批評するうちに、決めつけてはいけないという記事のテーマから、滅裂気味に、身の程を弁えない途方もないところへ、経験も実績もないのに、話が広がっているようです。好きなように、人のことだけを言い合っている放談同好会でしょうか。自分という人間への視線を持たない者同士の会話です。
 
(楽山)
まあその辺りのことは、上にも少し書いたとおり、時間が解決するのかもしれません。
ところで、shalomさんはブログをどうするかお決めになられましたか。
自分の方はいまだにどうするか悩んでるところです。
2019/3/19(火) 午後 7:58 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
この二人は、刷り込みと丁寧語をツールとする軟派カルトです。一刻も早く、やめてください。
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん
ささやかな発信は続けたいと思っていますが、
 
(私)
シャロームの妄想伝染は、ささやかな発信ではありませんキリスト信仰に真っ向から反する背教活動です。楽山のアドラー教は、人間を自己中で怠慢で鈍麻させる人格破壊の洗脳活動です。どちらも、放置すると、本人が思っているよりも、はるかに危険な考え方と生き方です。
 
(シャローム
信仰という発信内容についてブログによる発信に疑問を感じておられる人もあるようですし、たしかに文字だけでの伝達にはかなりの難しさがあり、わかるような気持ちもあります。
 
(私)
伝達してはいけないのがシャロームの、悔い改めない偽キリスト教です。
 
(シャローム
できるだけ人と顔を合わせながら言葉を交わすことが一番いいとは思いますね。そのほかの発信方法についてはあまり知りませんし、提示されているブログへ引っ越すかどうかも決めてはいません。
2019/3/19(火) 午後 9:12 [ shalom ] 返信する
 
(私)
シャロームは、顔を合わせて言葉を交わすという本格的な宣伝活動をする意志があるようです。今まで、何人を騙してきたのでしょう。危険です。
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん
「これは慣れの問題であって、そのうち何ともなくなるかもしれません。」
「その辺りのことは、上にも少し書いたとおり、時間が解決するのかもしれません。」
 映画に限って言えば、慣れや時間によってある程度解決できるかもしれませんね。
 
(私)
脈絡もなく、映画の話に戻っています。この辺の文脈は異常だと思います。
 
(シャローム
でもこれからますます海外から仕事の担い手だったり、留学や観光のためにたくさんの人が来られると思いますが、日本における現実問題として考えると、そう簡単ではないような気がします。日本教は日本人にとって自覚され、コントロールできる宗教?ではなく、とても柔軟性があるようですが、それは異質なものを取り込み、日本教に同化させるための柔軟性、というより懐柔し同化するためで、それができない異質なことはあるがまま受け容れることを拒絶し、排除してしまうようですから。
 
(私)
そして、シャロームもしてきたボロクソ節につながる日本教という話になり、コントロールできないが柔軟性があり、懐柔し同化し、異質を排除すると言っています。ここまで来ると、何の実質もなく、本をモチーフにして、病理プロセスが文脈を作っている印象です。
 
(シャローム
平成の次は○○維新という日本人の心の開国ができるかどうかを問われる時代の始まりといえるかもしれません。
 「日本教社会学」にはこのあたりのことについて書いてあるようです。今第二部5章を読んでいます。2019/3/19(火) 午後 9:57 [ shalom ] 返信する
 
(私)
シャロームについては、前にも、読んだ本を題材に記事を書くが、読んだ本に斬られていることに気づかない人であることを書きました。
(私)
維新とか心の開国とか言っています。異質なものを排除してきたのは、まさに、このシャロームと楽山なのですが。
(私)
出まかせの言葉を並べて、国を論じているふうなやり取りに騙されないでください。この人たちは、自分の言動でさえ、満足に制御できない人たちです。天下国家を語る資格も能力もありません。
(私)
今、目先の、いい気分を味わうために、知的な会話に見せかけているだけです。中身には整合性もなく、実感もなく、映画と国家を混同して、日本教という分かりもしない言葉の周りで、絶対化でも目指すつもりでいるのでしょうか。この、身の程知らずのシャロームと楽山を忘れずに、警戒することが必要です。
 
(私)
ウィキペディアによると、
日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99
と、書いてありますが、相対化がいけないということでしょうか。私にはよく分かりません。
(私)
もともと、キリスト教には、絶対の神はいても、いや、いるからこそ、人間の絶対性は否定されるべきことです。シャロームは、何を血迷って、日本教という言葉をもてあそんでいるのでしょう。
 
(私)
シャロームが、本も、聖書も、人の意見も、理解できないのに、日本の、絶対化、相対化、ということをどう見なしているか、恐ろしいものがあります。
(私)
弁明も反論も出来ないで言論の自由だけをもてあそんで、勝手なことを言い続けて、不快なことには沈黙して無視するような、シャロームのような者たちに、公開の場での発言を許すことは、信仰にとっても、人間にとっても、社会にとっても、少なくとも、害毒以外の何ものでもありません
 
 
(2019年03月20日アップ)
 
私が書いている「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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