ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

取り越し苦労?

 
  取り越し苦労?
 
   生きる力の源は?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28932021.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
   類似記事:
   思い煩い⇒重~い患いからの解放
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28121267.html
 
 
この期に及んで、まだ、記事を書いてくるシャロームの、無節操と、不感不変の自己中と、高等感情の鈍麻には、想像を絶するものがありますが、どうやら、人が与える批判も反対意見も、神が与える試練も、彼は、自動的に、取り越し苦労だと思い込む、という、装置のような仕組みがあるようです。人間ならば、ありえないことなのです。
 
 
>今日の聖書のみ言葉です。

「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。
わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、
ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」
(新約・ピリピ人への手紙4章12~13節)

 
シャロームの秘訣は、無かったことのように無視することだけのようです
 

今は故人となられたある老牧師のお得意のジョークは
いろんな病気のうち一番重い病気はなんでしょうか?でした。
それは癌でしょうか。心臓病でしょうか。それとも脳の病気でしょうか。
何度もそのジョークを聞いて、答えを知っている人たちが
笑いながら、声をそろえてこう答えます。それは重い患い、そう思い煩いですと。
確かに私たちの生きる力を奪うものは思い煩い、重い患い、取り越し苦労ですね。

 
信仰の記事を書くときに、思い煩いを、重い患いと言って、そんなに面白いのでしょうか。本当の重い患いと混同しては困るのですが、癌、心臓病、脳の病気、などと、紛らわしいことを言っています。これらは、思い煩いでは済まされません。それに、シャロームの不感不応の自己中は、思い煩いではなく、重い患いでもなく、伝染性の害毒です。
 

痛ましい事件の多い中で一番心を痛めることは
いじめ、幼児虐待、子供たちの自殺です。
思い煩いを負い切れずいじめ、虐待し、死を選んでしまうのです。
思い煩いの理由にはほんとうに深刻なものもありますが、
案外取り越し苦労と言えるものも多いのではないかと思います。
でも取り越し苦労をしているその人にはやはり重い患いなのです。

 
幼児虐待を、取り越し苦労の思い煩いのついでに語っています前者は、決して後者と同次元では語ってはいけないことだと思いますが、シャロームは気づかないのです。
 

思い煩いも取り越し苦労も、後になってみれば、
なぜあんなことで、あんなに心配していたのかと思うこともしばしばあります。
心配している多くの理由が思い込みだといわれています。
り取り越し苦労の多くは、自分で作り出し、独り相撲をしているというのです。
そんなことは分かっていても、やはり取り越し苦労をしてしまうのが
弱くて、限界のある人間の悲しさですね。

 
シャロームは、自説が神によって与えられたもので、シャロームは奇跡によって、誰が何を言おうと、誰が何をしようと、神によって守られるという思い込みが訂正不能になっています。訂正不能のひとり相撲を続けて、寿命という限界に達するシャローム固有の悲劇です。
 

生活、健康、仕事、火事、人間関係や将来について思い煩ってしまいます。
つくづく人は信頼しあうことができないなと思われます。
愛し合って結婚していても、もろくも家庭が壊れてしまいます。
だれでも、互いに信じ、信頼しあうことができないと思い知らされます。
裏切られ、失望落胆し、生きる力も喜びも失ってしまいます。
人は信じあうことにも耐えられないと思い知らされます。

 
シャロームボロクソ節は、このように、他者に向かって一方的に、お前らはダメだと言ってきます。そして、結局、自分と同じように信じて、自分のようになりなさいと言っているだけですシャロームの言うとおりにすることこそが、人間にとっては、破滅だと思います。それは、既にシャロームに表れていることです。シャロームは、他者が、いかに劣っているかを言わないではいられないようです。ここまで、病識がなく、あざけりが固定してしまうのは、珍しいことでしょう。
 

人は信じあうより、愛し合うことが大切だと思われます。
お互いの弱さ、欠点、人のありのままを受け容れあうことですから・・・。

 
人が信じあうことと、愛し合うことは、そんなに違うことでしょうか。
どちらも「お互いの弱さ、欠点、人のありのままを受け容れあうこと」ではないのでしょうか

シャロームは、何も理解できずに、何を言っているのでしょう。言葉が違うから違うんじゃ、とでも言い張りたいのでしょうか。このように、シャロームの言うことを真に受けていると、ただ疲れるだけだと気づくことが、まず最初に大事なことです。恐ろしく程度が低く、また、いい加減なのです。
 

しかし、愛し合うことも身勝手で、利己的な私たちにはできそうにありません。
もし、人が人を信じあうこと、愛し合うこともできなければ、
私たちが思い煩い、取り越し苦労から解放される道はどこにあるのでしょうか。

 
身勝手で利己的なのは、他でもない、シャロームその人です。それを、全部同類と、他者に向けてくるのですから、迷惑極まりないのです。つまるところ、シャロームは、自分の言うことを聞けと言いたいのですが、まともに聞き入れたら、人格破壊しか待ってはいないのです
 
あらゆる説教は、一定以上の理解と共感のないところには成り立たない、という例になっています。
 
使徒パウロは次のように書いています。

ところが、主が言われた、
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。
それだから、キリストの力がわたしに宿るように、
むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、
弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。
なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」
(新約・コリント人への第2の手紙12章9~10節)

 
この聖句は、3行目の終わりに、閉じ括弧の、」、が付いています。主の言葉だからですでないと、その前後の「わたし」が、おかしくなります。聖書を長い文脈で理解しておれば分かることなのですが、シャロームは、今回も、前回の類似記事においても、どっちでもよいのでしょうか、上の引用前半2~3行目の主イエス・キリストの言葉と、後半のパウロの言葉を、区別しないでいられるのでしょうか。
(2019年03月24日23:36現在)
 
記事自体も、文末をちょっと書き換えただけで、肝心のところには気づかずにいるわけです。福音伝道を語ったつもりで、福音も聖書も、いちばん分かっておらず、ただ人格破壊だけが進んでいるのは、シャロームなのです。
 
行き詰まりに甘んじるとは信仰の忍耐力のことですが、シャロームにとっては、行き詰まりに気づかず、行き詰まっても何事も無かったかのように、平気でいることのようです。ゆえに、行き詰まりというより、シャロームは、一歩も進んでいません
 

ほんとうに不思議な言葉ですね。
《わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。》
 《キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。》
 《キリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。》
 《わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。》
パウロには弱さもすばらしい神から与えられた恵みのようですね。
これらの言葉は重い患い、思い煩い、取り越し苦労から解放された人の言葉です。
弱さは神と人、人と人とを結ぶ絆、帯、神の恵みのようです。

 
人間の弱さは、神に対して不完全な人間の本質です。弱さそのものが恵みではなく、それによって、神を知ることこそが恵みなのです。それと、パウロの弱さや迫害による侮辱と受難は、取り越し苦労だったのでしょうか。シャロームは、殉教の道を、取り越し苦労と、気のせいと、言っているようなものです
 
シャロームが何か言えば、必ず、筋の通らないことが表れる、という繰り返しが続いています。シャロームは、聖書もキリスト教もキリスト信仰も、見栄と虚勢だけで、何も理解していないからです。
 

このようなパウロの言葉によって、
私たちが思い煩い、重い患い、取り越し苦労から解放される道は
わたしたちを造り、生かし、愛し、私たちの必要を知り、
常に私たちを最善に導き、守っておられる神を知り、
神ご自身を信頼することだと知ることができます。

 
信仰者の試練をすっかり取り越し苦労扱いした後で、神を信頼、などと、讃美言葉をベタベタ貼り付けても、並べても、何の説得力もないのです。シャロームは、自分信仰の妄想家です。
 

ですから、イエスはご自分の死を前にして、恐れ戸惑っている弟子たちに
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
(新約・ヨハネによる福音書14章1節)と言われたのです。
このイエスの言葉も不思議です。
十字架の苦難と死を目前にしておられるのはイエスご自身なのに、
弟子たちが思い煩い、取り越し苦労のとりこになっていたのです。
エスは生ける神を見失い、思い煩い、取り越し苦労のとりこになっている
私たちを重い患いから解放し、生きる喜びと力を与えてくださるのです。

 
次には、弟子たちの思いを、取り越し苦労と見なしています。シャロームの思い上がりは、キリストの弟子さえも超えて際限がないのでしょう。キリストは、死を覚悟しているからこそ、また、キリストは、弟子たちの心が穏やかでないことを、さらに、裏切ることさえも、予想しているからこそ、心を騒がせないように、信じるように、と語っているのです
 
キリストの死という重大事が起こることに、弟子たちが取り越し苦労のとりこなどと見なして、全く愚かにも鈍感でいられるのは、シャロームだけなのです。シャロームは、神もキリストも信じていないペテン師だから、このような、信仰者とも人間とも思えないようなことを、説教として、平気で得意げに言って、満悦してしまうのです。
 
かつ、シャロームは、いつも、言い放って終わりで、批判に対して、弁明も反論も出来ないまま、被害者として迫害に耐えているつもりでいるのです。恐らく、密かに神?の復讐を願い、批判者を、神の御名によって、呪いながら。
 
シャロームには、決して好意的に関わらないでください。
いい人そうに見える人が、必ずしもそうとは限らない、という実例なのです。
 
 
(2019年03月25日アップ)
 
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