ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

ボンヤリ言語

 
  ボンヤリ言語
 
   自分勝手な奴だと思ったら…
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41512859.html
   楽山ブログ
 
 
前から言っていることですが、自己中が、やんわり自己正当化を図ろうとすると、こういう書き方になるという例になるでしょう。分からないと言うことが出来ず、自分が悪いところを反省して言うことが出来ないで、ごまかしに走る者の筆致です。
 
>先日は、こんな会話を耳にした。
>「あいつは自分勝手な奴だよな。腹が立つ」
 
楽山は、気に入らないことは無視する、という信条を持っている自己中で、かつ、荒らしの成りすましではないか、という疑いを持たれている状況で、今回も、曖昧な、いい加減な、ぼんやりした文章で乗り切れると思っているようです。他者の口を借りて
 

「そう言うなよ。彼は持病があって、みなが食べるものが食べられなかったり、みなと同じように動けなかったりとか、いろいろ制約があるらしいぞ」

 
本当に、そういう人がいたのかどうかは知りません。しかし、楽山は、他者のことを心配したり、他者のことをきっかけにして、何かを教えられるような状況にはありません自分が、どう受け取っているか、どう反省しているか、あるいは、弁明か反論をするか、という自分自身の問題があるからです。そういうときに、平気で、他人事を語れば、むしろ不感不応の、ひどい自己中と思われることに気づいていない楽山です。
 

こうしてみると、やはり誰かが他とは大きく違うとしたら、そこには相応の理由があるということなんだろうなと思う。必ずそうなるというわけでもなかろうが、そういう場合は多いと…。

 
誰について、相応の理由があるというのでしょう。前に、ろくにキリスト教について知りもしないのに、一方的にシャロームの味方をして、こちらを悪または間違いを信じている者と決めつけて、変質的な宗教人のように扱ったのは、楽山のほうです。このように、何やら暗示的な、当てつけとも取れそうな書き方で、嫌がらせをしてくるのが、楽山の、以前からの筆致です。
 

ただそれが分かっていながら、他と違う人を見ると、「なんだ、あいつ」と反感を持たないではいられないこともあるのだからややこしい。

 
そして、反感を持たないではいられない、と言いながら、ややこしい、という言い方で、お茶を濁しているのです。
 
故事ことわざ辞典:
おちゃをにごす 
【意味】  お茶を濁すとは、いいかげんなことや適当なことを言ったりしたりして、一時しのぎにその場を取り繕うこと。 
http://kotowaza-allguide.com/o/otyawonigosu.html
 
>こういうのは自分も人のことは言えないし、気をつけなければ…。
 
自分も人のことは言えない、と言いながら、その結論は、気をつけるのだそうです。何を、どのように、気をつけるのでしょう。自分の言動に気をつけたほうがよい者が書いています。それと、前に書きましたが、楽山には、易坊の成りすましではないかという疑惑が、これからもついて回るということです。
 
記事本文が別の人のことだという言い訳は成り立ちません。別の人を題材にして、話を逸らしてよい状況ではないからです。偽善者そして軟派カルトだと言われている楽山が、まっとうな人間であるなら、このような記事で和むことなど出来ないはずだからです。
 
楽山が言い訳をすれば、自分に起こったことについて、全く何も感じない人だということになります。そして、それは、そのまま、気に入らないことは無視するというアドラー教の信条を、楽山が認めたことに他ならないのです。
 
気をつけるとは、自分に当てはめて反省すると言っているのか、反感を持つような相手に関わらないように注意すると言っているのか、この二つは、反省と、特定の他者への警戒と忌避、という、全く意味が違ってくる言い方なのに、はっきりした態度や内容を書かないことは、婉曲的に事を有利なほうに誘導しようという詭弁であり、そういう心性を示しているのです。
 
こういう曖昧な書き方が柔和だと思っているのでしょうか。それとも、最初からの企みで自己弁護の補助としているのでしょうか。自分はこんなに柔らかい人だから味方してください、というアピールなのでしょうか。曖昧にしてはいけない問題で、謝罪も反省も訂正もなく、曖昧な書き方しかできない人を、信用してはいけない、という教訓になりそうな記事です。
 
シャロームは、表面的な謝罪、つまり、申し訳ありませんでしたと、コメントに書くことがありました。しかし、それは、本当の謝罪ではなく、何かを書き忘れたとかいったような些細なことについてだけです。重要な問題について、一度も謝罪も反省も訂正もしたことはありません。ここは、楽山の書き方に、よく似ています
 
シャロームは、前に、記事にも書きましたが、失礼しました、と書いて、後のコメントで、負けるが勝ち(笑)、と書いて、まるで、真剣に謝罪も反省も訂正もする気がないことを露呈したことがあります。シャロームの場合は、相手を軽く見て、嘲笑っている筆致になります。
 
楽山は、曖昧に、遠回しに、どうとも取れそうな書き方をして、あなたのことではありませんよ、という、言い訳を可能にしておくつもりの書き方をしてきます。
 
どちらも卑怯だということです。
 
どちらも、何か真実追求につながるようなテーマについて、何もストレートには書けないし、今の書き方で書いてはいけない人だということです。
 
シャロームと楽山の、一見柔和に見えるようで、実は、曖昧、ぼんやり、いい加減、そして、実感のない書き方に、惑わされることのないようにしてほしいと思います。
 
誰も傷つけたくないから、という言い訳をしてくるかもしれませんが、曖昧で、うやむやにすれば、傷つかないのでしょうか。きわめて、浅はかな、そして安易な、物の見方だと思います。
 
前にも引用したことがありますが、三島由紀夫原作の映画≪午後の曳航≫の字幕の台詞の中に次のような言葉がありました。
 
 「殴られるより悪いことがある
 
大事な問題について、ボンヤリ言語で、その場しのぎで、ごまかそうとする、さらに、それによって、自分は柔和で中立ですと言いたがっているような者に出会うと、いつも、上の言葉を思い出します。
 
ボンヤリ言語を使わず、罵詈雑言を言ってくる者は、受け取る人によっては相当応えると思いますが、ストレートに敵意を表していて、自らの悪を表していることで、特に直接には暴力に結び付かない言論においては、立場が明らかな分、むしろ、マシなほうなのです。
 
罵詈雑言という空疎な言論を恐れないでほしいし、それより、ボンヤリ言語、という曖昧な言論に対する感性を養ってほしいと思います。ボンヤリ言語は、言葉だけ、やさしくて穏やかですが、これが社交でなく、真実を語るときに用いられるときには、何も真摯な思いの込められていない、空疎なだけでなく、腐った言い逃れや話をそらすために使われるところの、卑怯な言語なのです。
 
ボンヤリ言語は、保身のための、そして、何らかの誘導のための、偽善者と詭弁家の典型的な筆致です。
 
 

話は変わりますが、一般の社会では、例えば、
仕事の話をしていて、白黒つけなきゃいけないときに、
はっきり言わず、遠回し、遠回しにしか言わない奴は大嫌いだ!

という話に似たところがあります。
一時的か、この記事のように恒常的か、という違いはあります。
 

なお、わからないと言うことは、決してボンヤリ言語ではありません明確な学びへの意志表示であり、神聖についてなど、本質的に分かるはずのないことについては、これが、人間の真実なのです。
 
 
(2019年03月29日アップ、同日一部修正)
 
曖昧(あいまい)
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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