危険運転
危険運転
心の安全運転
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41518404.html
楽山のブログ
(全文引用はじめ)
「
体のためには、
食事、運動、睡眠などに
気をつけることが大切。
心も、これと同じ。
心の栄養、
心の柔軟体操、
心の休息などは、
大切なこと。
心を磨き、鍛えるために、
時には、
ある程度の
ストレスも要るだろうけど、
無理は禁物。
自分の心の運転技術は
まだまだ未熟なので、
ここは気をつけなくては…。
」
(全文引用終わり)
これを読んで、やさしい、いい感じ、と思った人は、
少なくとも宗教的には、甘ったるい人です。
楽山は作為的で、決してやさしい人ではない。
また、心の安全運転なんて、危険がいっぱい、やさしくないカルトがいっぱい。
子供への説教にもならない記事だと思います。
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体のためには、
食事、運動、睡眠などに
気をつけることが大切。
<
こういう、一見やさしい導入から始めて、次から、誘導になります。
とても、婉曲的です。
>
心も、これと同じ。
心の栄養、
心の柔軟体操、
心の休息などは、
大切なこと。
<
気に入らない者は無視して
好きなものばかりで栄養を取っているつもりの楽山です。
柔軟に見せかけていますが、臭い芝居です。
中身は訂正不能の万能感です。
この辺は、カルトのシャロームと同じです。
楽山には、シャローム、そして、荒らしの易坊との
成りすましの疑惑があります。
それぞれキャラ設定して違う人物を装っていますが、
あるとき、筆致が別のキャラに変わったことがあります。
楽山の休養は、不都合を一切無視することです。
だから、学習機能が全くありません。
だから、従えば、成長のない人格になるでしょう。
この記事も人を騙して誘導するための文章です。
こういう文章で警戒が解かれやすいことを知っているのです。
同じことを、ずっとやっているのだろうと思います。
>
心を磨き、鍛えるために、
時には、
ある程度の
ストレスも要るだろうけど、
無理は禁物。
<
気に入らないものを無視する心は、鍛えられることがありません。
楽山は、そういう無視する心を欲していることが明らかになっています。
楽山は、ストレスを何よりも嫌って、不都合な刺激を無視します。
そのために、何を言っても、後では忘れています。
作為の健忘によって、いつも、とぼけた書き方をしてきます。
無理は禁物と言って、
必要なことも怠る楽山のような、不正直な人にならないでください。
>
自分の心の運転技術は
まだまだ未熟なので、
ここは気をつけなくては…。
<
気をつけてください。
何も気をつけていない楽山が書いています。
他者に気をつけることも、気を遣うことも捨てて、
気にしない、という無反省カルト宣伝です。
楽山は、他者に気を遣うことはありません。
気を遣っているように見えるのは、世辞の言葉と芝居です。
彼には、シャロームと同様に、共感力と罪悪感がありません。
未熟という謙譲があるなら、
過去の、あまりにも幼稚な、侮辱的発言はなかったはずなのです。
さらに、後悔、反省、訂正、謝罪、一切しない人です。
楽山は、他者のことを何とも思っていません。
私は、こういう人物は、良心の破壊者だと思っていますから、
他にもたくさんの批判記事を書いています。
気をつけてください。
巻き込まれないために。誘導されないために。騙されないために。
自己中心の軟派カルトであるアドラー教の宣伝なのです。
アドラー心理学という学問の名を出してきて
学問だからと、油断させてくるでしょう。
楽山が運転するのは、他者の心です。
しかも、危険な運転です。人生を破壊する大きな事故のもとなのです。
楽山も、シャロームも、なぜ、幼稚な記事を書き続けるのでしょう。
楽山も、シャロームも、軟派カルト宣伝を、それこそ、生業としているのでしょうか。
人を騙す続けることが生業なのでしょうか。人の良心を滅ぼすことが生業なのでしょうか。
そうやって、死ぬまで、あらゆる良心の敵でありたいのでしょうか。
弱い心を受け容れてくださるキリストに惹かれる心貧しい謙虚さを持つ人がキリスト者になります。
謙虚さだけでも尊いですが、そのことが、キリスト者としての神への敬虔を育ててゆきます。
楽山やシャロームには、謙虚さも、弱い心も、敬虔もないので、
自分らにないものが忌々しいために、逆の破壊者になるのでしょう。
良心に見せかけて、敬虔に見せかけて、芝居をして、近づいてきます。
楽山とシャロームの敬虔と謙虚の言葉には、深みが全くないのです。
深い敬虔も謙譲も知らないからです。それが、シャロームの誇大的讃美となり、
楽山の、とぼけた謙譲芝居となっているだけです。
低い自分を認めないで、つまり、弱さも罪深さも認めないで、人間の真実に至ることはなく、人間としての信仰に至ることもありません。
見せかけの言葉以外、信仰についても、良心についても、愛についても、
何も言えないにもかかわらず、楽山とシャロームは、何か書くたびに、
調子の軽さで真に受けられやすいために、批判が必要になります。
楽山の言うところの、気に入らないことを無視するアドラー教というのは、楽しく生きていけるというような感じがして、一見よさそうに見えますが、実体は完全自己中を目指す生き方です。
ですから、何が起ころうと、人に何を言われようと、どんなに迷惑を掛けようと、反省せず、たとえ、罪に罪を重ねて、偽善に偽善を重ねて、どんなに人を不幸にしても、どんなに人に嫌われても、楽しそうに笑って生きてゆけるように、心ではなく、無神経を養うもので、いつも笑っているけれど、そういう不自然で人間とは思えないことを平気で出来るような化け物になるということです。
そばにおれば、いずれ間違いなく、ひどい目に遭わされる必然があります。楽山のアドラー教は、人をそういう目に遭わせても、お構いなしに楽しそうに笑っている、ということです。そして、同じことを説教してくるのですから、つまるところ、決して、そばにいてほしくない人になるということであります。
こういう罪悪の必然性についても、不都合なこととして、気に入らないゆえに無視するわけですから、もはや、不可逆であり、手遅れなのかもしれません。巻き込まれないようにするしかないでしょう。
(2019年04月08日アップ)
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