ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

死者と救済

 
  死者と救済(修正再録)
 
 
神は生ける者も死せる者も支配し救済する
というのは
神の全知全能からの思いである
しかし
死んだ人のことはもちろん
神が生きている人をどう支配し救うかについて
全知でも全能でもない人が
確信できることは何もない
 
一方
「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神」
という聖句がある
ここで注意すべきことは
この聖句は
生ける者に向かって語られているということである
神が死者にどう関わるか
あるいは関わらないか
生きている人に確信できることは何もない
 
人は神による被造物であることを思えば
神が自分の造ったものに対して
造るにしても育てるにしても壊すにしても
その理由を手取り足取り
いちいち納得できるまで人に説明はしないだろう
それゆえ神のなさることはしばしば
人には救済と思えないことがある
 
神を信じる者は
恐るべき御方として
無条件に
神を信じないでは生きられない者のことである
 
信仰は恐れを知り、確信は恐れを忘れる
 
神の行為について
人が確信できることは何もない
 
ゆえに確信を持てないのだから
人は、あらゆる物事について
神を恐れるべきである
 
 
(2011年09月01日)
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(上の本文に示した聖句:
マタイ22:32、マルコ12:27、ルカ20:38)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
22:30
復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
22:31
また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。
22:32
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。
 (マタイ22:30-32、新約聖書
 
マルコ、ルカも、ほぼ同様
 
私は学者でも牧者でもないから詳しい聖書の解釈は知らない。
ではなぜ、今までもそうだが、聖書についての解釈を書くのだろう。
 
例えば、愛について書かれている聖句についても、
ある人は、異性を、ある人は、家族を、あるいは、隣人を、あるいは、キリストを、あるいは、神を、考えるだろう。そのとき自分が一番気になっていることを考えてしまう。そして、そこで真実と思ったことは、別のときに自分で修正するときまで、主観的な真実であり続けるからだ。そのように、個人が受け取ったことは、正しいかどうかわからないまま、個人の真実となってゆく。
 
ここに、カルトや偽善者の、訂正不能の悲劇があり、
また同時に、
人間の成長の必要性と、それを可能にする信仰のあり方があるとも言えよう。
 
その都度、受け取り、かつ、折に触れて、反省して、祈り、願うことがある。
 
だからこそ、私たちは、信仰者として敬虔でありたいと思うなら、自分の解釈を、そして人に教えてもらった解釈を、さらに広く認められている解釈さえも、決して絶対化してはいけない。人の伝えるものに、地上の一生を通じて、絶対はない。
 
上に挙げた聖句であるキリストの言葉の前後には
アブラハム、イサク、ヤコブの神」
という当時としても大昔の祖先の名前が書かれてあり、
「人はみな神に生きるもの」という聖句もあり、
キリストは肉体の死を
「死」とは考えておられなかったような気もする。
しかし、肉体の死さえも、自分については、まだ知らない私たちにとっては、
救いに密接に関連している死の問題について、語れることは少ない。
 
また別に
葬式に行かせてくださいと言う弟子に対して
「私(キリスト)に従え」「死人の葬りは死人に任せよ」
という聖句もあるが、(マタイ8:21-22)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:20
エスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
8:21
また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。
8:22
エスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。
 (マタイ8:20-22、新約聖書
 
これは上とは別の意味を持つのかもしれない。
キリストの弟子がキリストとともにいて
直接教えを聞くことの出来る期間は僅か約3年であり、
それをご存知のキリストの20節の哀しい言葉があり、
それゆえ今優先すべきことを言われたのであろうか。
 
いずれにしても、前にも述べたようなことだが、
聖書は必ず人の解釈を通して読まれることを思えば、
約二千年前の聖書の登場人物を、
聖書の記事だから正しいという理由で、気安く自らに当てはめて人に対するのは、
聖書を学ぶ態度ではなく、自分を聖人と同格と見なす行為であり、
聖書の乱用、さらには、聖書解釈くずれの信仰とでも言うべきものであり、
遠慮を持って慎むべきことである。
 
今回、私は聖書の解釈めいたことを書いたが、
どんなに聖書に詳しい人であっても、人の解釈は、あくまで人の解釈であって、
どこまでいっても、
神への思いが強くなることはあっても、神の意志と行為の確信に至るものではない。
 
そのことを全く理解していないのは、カルトの所業である。
 
正しいと思う言動において人は怯むべきではないが、
その思いと信仰のうちに、神への恐れを抱き、
ゆえに折に触れて自らの罪性を省みるべきである。
 
神の確信が信仰なのではない。
 
神への思いと神への恐れが信仰である。
 
それが「神を恐れよ」を、とみに私は衰えてゆくのに、
あえて執拗に、うんざりするほど繰り返す理由である。
 
 
(2019年04月21日、修正)
 
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