ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

反信仰の詭弁

 
  反信仰の詭弁
 
   『カラマーゾフの兄弟 1』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳〈光文社古典新約文庫〉
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41532984.html
   楽山のブログ
 
 
楽山は、本を読んで理解したつもりになって、まとまらない筆致で、書いてきます。そして、キリスト教を知らない者が書くと、このように、いい加減な文章になるという見本と、適切でちょうどよいだろうと思われたい欲望だけが明らかになるような無駄な話を書いてくるのです。
 

アリョーシャは、「一緒に過ごして一部始終を見ながら、なにひとつとがめだてしなかった」ことで、彼の「心臓をぐさりとつらぬいた」。
(『カラマーゾフの兄弟1』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳、光文社〈光文社古典新約文庫〉2007年、p.249)
物語の語り手によれば、アリョーシャは、父フョードルの醜悪な振る舞いを目の当たりにしても、まったく裁くことはなく、それゆえに父フョードルに強い影響を与えたということらしい。さらにアリョーシャは、フョードルを軽蔑することなく、「つねに変わらぬ優しさと、心からごく自然にあふれ出る愛着を寄せ」たとのことである。
この部分は何となしに、良寛和尚の話を思い起こさせる。良寛和尚は、さる人から放蕩三昧の息子に意見してほしいと頼まれ、その子と会うが、終始無言で通し、ただ涙をこぼしたという話。

 
裁く、という言葉は、何らかの罰を与えるという意味で書いているのでしょうか。批判されていることについて、本にこう書いてあるということで、他者の口を利用して、批判返しをしているつもりなのでしょうか。
 
批判について言えば、誰も批判をしなかったら、それこそ、楽山のような詭弁家の天国になり、騙し合いが横行し、犯罪の横行する世界になります。楽山は、それを望んでいるのでしょう。
 

こういう話を読むと、人の心に寄り添うことの大切さをつくづく思い知らされる。人の身になって考え、理解することの方が、人を裁き批判するよりも、結局は相手のためにも自分のためにもよいことなのかなと。

 
楽山は、気に入らないことは無視する、というアドラー教と言う軟派カルトに毒されているので、気に入らないことは無視して、突っ込めるところだけ、ねちねちを文句を言ってくる人です。
 
批判しないでいることは、楽山や、シャロームや、荒らしの易坊などの、異常な者たちにとってのみ、都合の良いことになるのです。そして、そこには、都合の悪いことを無視する分、退廃や堕落はあっても、一歩も成長することのない生き方が待っているのです。
 

もっとも、人生問題に関しては、いつでもどこでも誰にでも常にこれが正しいというものはないだろうから、人を裁き批判することが必要となる場合もあるかもしれないが…。
ただそれでもやっぱり基本は、人の身になって考え、理解しようという姿勢が大事であることは変わりないのだろうとは思う。

 
こういうのを、詭弁による印象操作、または、刷り込みと言います。どっちつかずのことを書いて、どっちも受け入れている懐の広い自分を自己顕示することで、結局、自分の正しさを、否定させず、肯定させようとする詭弁なのです。楽山は、どこまで汚い書き方をするのでしょう。
 

アリョーシャという人間は、何があっても人を非難したりせず、すべてのことを赦していたのではないか――もっともそのおかげでひどく悲嘆に暮れることはよくあったが――とさえ思える。それどころか、だれかに驚かされたり動揺させられることもなかったほどで、こうした性格はごく若い頃から変わらなかった。

 
何も文句を言わない人を、楽山、シャローム、易坊は、こよなく悦ぶでしょう。簡単に騙されてくれるからです。何でも赦される、それは盲目の世界だ、ということが分からない人の言い分です。
 
神も、キリストも、そういう赦しを与えたのではありません。言葉尻をもってきて、こう書いてある、と言い張るのは、シャロームの常套手段でした。同じことを、楽山はしています。
 

ここではアリョーシャについて、二つのことが分かるように思う。まず一つは、アリョーシャが人を裁かなかったのは、本人の意思によるものだったということである。想像するにたとえ悲嘆に暮れることになっても、人を裁かない姿勢を貫いたというのであれば、そこには強い意志が介在していたということなのだろう。またこれについては前段において、語り手はもっとはっきりとした形で、アリョーシャには「自分は人々を裁くようなことはしたくない」「何があっても人を責めたりはしない」という思いがあったと書いている。

 
裁くというのではなく、実際、ネットでは人体に対する強制力はありませんから、おかしいことを、おかしいという批判について、楽山は、ここでも、ねちねちと文句を言っています。
 

「人は変われるか? 変われないか?」「人のどの部分は変えられて、どの部分は変えられないか?」この辺りはややこしい問題だけども、個人的な願望としては、裁き癖は変えられる部分であってほしいものだなあとは思う。

 
このように、誰を指しているかを明確に言葉にせず、裁き癖、という汚い言葉を当てはめてくる卑怯さが、楽山の持ち味のようです。すりこみ、すりこみ、くりかえし、筆致が似ているので、楽山の易坊同一なりすまし説が強化されることになるでしょう。
 

その人が申すには、わたしは人類愛に燃えているが、自分で自分に呆れることがある。というのも人類一般を好きになればなるほど、個々の人間を、ということはつまり一人ひとりを個々の人間として愛せなくなるからだ、と。
人類は愛するけれども、そのうちの一人と一晩だって一つ屋根の下にはいられないという感覚はよく分かるように思う。仮に最高にウマが合う相手であっても、年がら年中べったりしてたとしたら、やがてはうんざりして、なんてことない箸の上げ下ろしにさえも腹が立ち、いらつくようになるというのはありがちだし…。

 
広い意味の人類愛と、個人に対する個別の愛の違いを述べる必要のある文脈でしょうか。こういうのは、惑わし、煙に巻く、というような、楽山の、ボンヤリ言語なのでしょう。
 

こういうことは、人が先天的に持っている習性のようなものであって、後天的な努力でもってはいかんともしがたいことではなかろうか。もしそうであれば、結局、他人と良好な関係を保つには、距離感が大事だということに尽きるのかもしれない。

 
他人との良好な関係を、双方向や学習や修正機能を考えずに、先天性と、距離感でしか語れないところに、楽山の、どうしようもない言論の貧困が表れていると言えるでしょう。
 

ゾシマ長老によれば、上のような気持ちに対しては、自分に嘘をつかないことが肝要だという。「自分のなかで忌まわしいと思えるものは、それに気づくだけでも浄化される」ということなので。たとえ、よくない思いであっても、そういう自分の気持ちに嘘をつくことなく、そういう自分をありのままに認めた上で、できるだけのことをするのが大切だと。

 
自分に嘘を吐かないかどうかは知らないが、自分の欲望に生きて、他者に平気で嘘を吐くシャロームは、できることをせず、いつも高みから見下ろす視線で、反省もせずに、言い放って終わりの、単方向のブログを書き続けています。楽山も同様でしょう。言い方を軟らかくしても無駄なのです。
 

自分の隣人を実践的に、そして怠りなく愛するよう心がけてください。愛することに少しずつ長けるにつれ、神が実在することも霊魂が不滅であることも、確信できるようになります。

 
愛するように心がければ、出来るようになり、神の実在や霊魂不滅まで確信という神聖領域を説教する言い方は、否定されるべきです。人間を見ていないか、分かっていない人の話だと思います。
そして、
 

こういうアドバイスは、宗教のみならず、人生問題全般についてもよくあるように思える。ああでもない、こうでもないと考えてばかりいないで、とにかく実践していれば、やがて分かってくると…。

 
ああでもない、こうでもない、ボンヤリ言語は、楽山の特徴です。ああでもない、こうでもない、ボンヤリ言語で、楽山は、人に物を言います。とにかく実践ということが出来るとは思えません。何を白々しく肯定的なことを言っているのでしょう。
 

心から実感し、確信するというのは、頭で考えて分かるというよりも、経験によって可能となるということなんだろうな。

 
都合の悪いことを無視する楽山が、経験できるとは、到底思えません。その姿勢が、書くものに、全く表れてこなかったからです。
 

あなたのなかで悔いの念が涸れることさえなければ、神さまは何もかも赦してくださいます。そう、この地上には、真剣に悔いあらためているものを神さまがお赦しにならないほどの罪などありませんし、あるはずもないのです。
ちなみに歎異抄ではこういう言い回しになってる。
ですから、本願を信じるものには、念仏以外のどんな善もいりません。念仏よりもすぐれた善はないからです。また、どんな悪も恐れることはありません。阿弥陀仏の本願をさまたげるほどの悪はないからです。

 
神様は、何もかも赦してくださるわけではない、ということは、聖書に書いてあるのですが、楽山はスコーンと無視しています。赦されるのは、神の前に、故意に嘘を吐かず、精いっぱい正直である人です。聖書を読まずに、キリスト教を語る楽山です。おぞましい限りです。
 
さらに、楽山は、そして、キリスト教徒仏教を、どちらにも無礼なことに、同じ土俵で語ろうとします。いい加減な舌と指と頭が、好きなように見なせば、いかに害毒であるかという見本になるでしょう。
 

「神さまがお赦しにならないほどの罪などありませんし、あるはずもないのです」
「どんな悪も恐れることはありません。阿弥陀仏の本願をさまたげるほどの悪はないからです」
神様や阿弥陀様の愛と慈悲をさまたげるほどの罪悪などはないというのは、似てる気がする。神の霊感は、東西の隔てなく、世界に行き渡っており、どちらもその霊感をとらえたということだろうか。それとも人はみんな脳のつくりは同じだろうし、それなら同じような発想をするのも当然ということだろうか。どういう理由かは分からないが、時代も地域も大きく異なる人々が、同じようなことを考えていたというのは興味深いことではある。

 
知らない者が、似てる気がすると勝手に言っているだけです。世界に行き渡って、脳のつくりは同じ、言いたい放題、言ってしまうところにも、楽山の節操の無さが表れています。つまり、神に対して、何の恐れも抱いていないのです。
 

というわけで、ぼくも期待しているのです。一度は神さまを疑った身でも、後悔の涙を流しさえすれば許していただけるだろうってね

 
このような記事を書いて、ボンヤリ言語の、いい加減さを使って、言い得たかのように振る舞っている楽山に、悔い改めが出来るとは思えないのは、今まで、楽山の文章に表れてきたのが、真逆のことばかりだったからです。だから、批判を続けざるを得ません。
 
私が批判をしようと自主的に決めているのではなく、楽山が、おかしなことばかり書いて、批判対象となっているのです。楽山が書くたびに、そうなっています。後悔の涙、そのような心、楽山が見せるとは思えません。
 

これは悪全般の話ではなくて、棄教についての議論におけるスメルジャコフの発言である。スメルジャコフは、もしも自分がキリスト教徒に対する迫害を恐れて棄教したとしても、神はゆるしてくださるだろうと言っている。神様の無限のゆるしについて、こういうまぜっかえしをする人がいるのは、東西どこでも同じかな。

 
まぜっかえしではなく、殉教できるかどうか、死ねるかどうか、について、確定的に語れる人はいないということです。まぜっかえしという言葉で済ませてしまう楽山が、いい加減なのです。神など信じていないから、安易さだけで言ってしまう、という真剣味のなさが露呈しています。
 

あなたの信仰がたとえ麦粒みたいにちっぽけでも、山に向かって海へ入れと命じたら、あなたの最初の一声で山は少しもためらわずに海に入っていくだろうってね。どうです、グリゴーリーさん、かりにぼくが不信心者で、あなたがひっきりなしにぼくを罵倒できるぐらい立派なキリスト教徒でおありなら、ためしにご自分であの山に言ってみるといいんです。
これもスメルジャコフの発言だけども、キリスト教徒として迫害されるとき、もし自分に信仰が少しでもあるなら、この山動きて海に入れと命じればその通りになり、その山によって迫害者らを押しつぶし、意気揚々と国に戻れるだろう。でももし山が動かないなら、自分の信仰は少しも神に認められていないということであり、それなら神に認められていない信仰のために拷問を受けて何になろう?

 
そして、楽山のもう一つの特徴である、宗教と言えば奇跡にしか興味がないということの現れでしょう。心の奇跡について、語れないのです。心がないからでしょうか。
 

そういう場合はただただ拷問が怖ろしいあまりに正気を失い棄教をしたとしても、そういう心神喪失状態における行いについて、慈悲深い神が決してゆるさないなんてことはないだろうということらしい。

 
不信仰の代わりに、易坊にそっくりな理屈倒れとして、心神喪失を持ち出してきました。神に対して、心神喪失だから赦せとでも言うつもりなのか。
 

なんといったらいいか、スメルジャコフの意見は汚らしい感じがしてたまらない。それに屁理屈を重ねているだけのようにも思える。こういう主張をみると、信仰は理屈以上に実感が大事なのだろうし、論理だけではないのだなということがよく分かる。信仰について論理で語ろうとする議論は、不毛なものになりがちだけど、その原因はこの辺りにあるのかもしれない。

 
汚らしい屁理屈を重ねているのは、楽山に他なりません。
 

もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。
(新共同訳、マタイ17:20)

 
信仰を物や肉体に起こる奇跡で語ろうとするのは、キリストも神も聖書も知らない者の特徴と言ってよいでしょう。私の記事も、読んでいないわけですし、理解など出来ていないのです。
 
(2)に続く。
 
 
(2019年05月02日、同日一部修正)
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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