ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

反信仰の詭弁(2)

 
  反信仰の詭弁(2)
 
   『カラマーゾフの兄弟 1』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳〈光文社古典新約文庫〉
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41532984.html
   楽山のブログ
 
 
楽山の本性が表れてきます。
 

作中では、嘘と怒りについて、おもしろい見方が提示されてる。
自分に嘘をつくものは、他のだれよりも腹を立てやすい。なにしろ、腹を立てるというのは、時としてたいそう愉快なものですからね。

 
それは、易坊やシャローム、そして楽山がそう思うのでしょう。怒りやすさを、自分に嘘を吐いている、と言って、自分はそうではないと、ボンヤリ言語を正当化しようとしています。ここにも、悪いのは相手、自分は正しい、という訂正不能の確信が表れており、反省しない自分を正当化しているのです。
 

「腹を立てやすい人は、他人の嘘にすごく厳しいことが多い」とは常々感じていることではあるけど、「自分に嘘をつくものは、他のだれよりも腹を立てやすい」ということは迂闊なことに考えたこともなかった。でも言われてみれば、さほど悪質とも言えない嘘に、怒髪天を突くような怒り方をする人は、嘘つきの自分を相手にうつしているのかもしれない。こう考えると、激怒癖のある人が、他人の嘘に対して、ものすごく過剰反応することも理解できるような気もする。

 
もろに悪口を、いや、罵詈雑言を放っています。自らの曖昧さやボンヤリには、何の反省もなく、相手の嘘に厳しい、自分に嘘を吐いている、と言っています。しかし、結論だけで、根拠は何も示せていないことに注目してください。
 

また激怒癖のある人は、傍から見てすごく大変そうである。お節介かもしれないが、そんなに怒ってばかりいたら辛いだろうな、そういう性格はなおした方がいいのではないかと思ったりもする。でもその手の人は、そういう自分の性格を反省してなおそうとするよりも、相手を責めてばかりいる。「自分は本当は怒りたくないんだ」「なんで自分を怒らせることばかりするんだ」「自分を怒らせるな!」などと、さも怒ることに嫌気がさしているようなことを言いつつも、自分の短気をなおす努力をしている様子はない。

 
今度は、つらいだろうと嘘っぱちの思いやりや、性格の問題にしたいようです。そう言いながら、直す努力はしていないと、お見捨て発言です。いかに安っぽいかが分かると思います。言葉だけなのです。心がないから深いことが書けないのです。
 

結局これは、口では怒りたくないと言ってても、内心では怒ることに愉快を感じているということなのだろうか。だから短気をなおそうとはしないのだろうか。そういえばHS信者とアンチの議論をみていると、信者の中には自らの短気を、義憤であると正当化して胸を張っているような人もいたのだった。正しい信仰を持つ自分が、何が正しいかもわからず道を踏み外したアンチを叱責しているという構図を心に描くことで気持ちよくなってるらしい様子だった。

 
そして、思いやりとは逆の、怒ることに愉快を感じている、という、これまた、無責任な結論にしています。義憤と言われて、義憤でないと言うなら義憤でない根拠をあげなければならないのに、楽山は、いつもねちねちと言ったあげく、ボンヤリ言語で、恐ろしい決めつけをしています。
 

怒ることに快楽を見出しているという見方は、なんだか嫌味っぽすぎる感じがしないでもないが、それでも一面の真理を表していないこともないのかもしれない。
激怒癖の原因は、他人に対して期待と関心を持ち過ぎているからだろうと思っていたけど、自分に対する嘘と快楽のためというのはなかなかおもしろい見方ではある。

 
自分に対する嘘と快楽のため、というのは、シャローム、易坊、楽山にすっぽり当てはまります。それを避けようと、おもしろい見方と、他人事として書いてくる始末です。罪悪感の欠如なのか、自分に罪や悪や過ちを当てはめることの出来ないのが、シャロームと易坊と楽山の特徴のようです。
 
 

*師には絶対服従すべきなのだろうか?
作中では、長老制について次のような説明があった。
人は、いったん長老を選んだなら、自分の意思を断ち、それを長老にささげ、その教えに絶対的にしたがい、私心をいっさい捨て去らなくてはならない。

 
キリスト教においては、そんなことはありません。長老は人間ですから、絶対ではありません。
 

この後は、長老に対する「生涯にわたる服従をとおして、最終的には完全な自由、すなわち自分自身からの自由を獲得」するという記述が続いている。またもし長老から課された責務を怠っていたならば、たとえどのような善行を積んだとしてもそれらは少しも認められないともいう。

 
だとすれば、間違っているとしか言えないでしょう。認められないというのが、長老からなら、気にしなくていいでしょう。神からかどうかは、偽善であるかどうかにかかってくるでしょう。
 

こういう制度は、理論によってではなく、長年の経験によって構築されたということであれば、現代の考え方によってあれこれ言ってみても詮無いことかもしれないが、それでもやっぱりあまりにも極端すぎるように思えてならない。

 
理論的教理的な基盤というのは、どの教派にもあるでしょう。さらに、キリスト教においても、カルトが生まれてくることを考えれば、おかしなことを言う人を批判しないということが、全く間違っているということも分かるはずです。批判を、怒りやすい性格だと見なして語ろうとする楽山に耳を貸してはいけません。
 

個人崇拝はよくないということは誰もが知っているはずのことではある。またマインドコントロールが問題だということも誰もが知っていることである。でもそれであっても、教祖を絶対視して崇拝するカルト宗教はなくならない。生き神様崇拝だとか、グルイズムは危険だと周知されているはずなのに、それらはなかなかなくならない。
またスピリチュアルなことに関心がある人の中には、内なる神を信じると称して、自己を絶対的な教祖として崇拝しているかのような人もいる。これも広い意味では、個人崇拝と言えるかもしれない。
この辺りのことは宗教、精神世界に関心がある自分は、常々、気をつけなければいけないなと思う。他人のことも自分のこともも絶対視することなく居続けたいものである。

 

グルイズム=教祖を絶対とすることらしい。
http://www.joyu.jp/message/cat68/0011.html
 
口だけの楽山です。自らを絶対視しないならば、気に入らないことを無視することはないのです。逆に、気に入らないことを無視してゆけば、自らの快感を絶対視してゆくのです。楽山は、ここを、恐らく無視するでしょう。
 

宗教と道徳との関連については、新渡戸稲造の「武士道」でも触れられているけれども、宗教なしには道徳は教えられないという発想は、やっぱり自分にはよく分からない。
だから自分としては、道徳を教えるには、人に迷惑をかけるな、恥ずかしいことはするな、良心にもとる行いはするなというだけで十分であって、いちいち天国、地獄などの物語を持ち出す必要はないように思えるのである。時にはそういう話がいることもあるかもしれないが、それでもそれを中軸に据えなくてはならぬとはならないだろう。

 
先ず、キリスト信仰は、道徳ではありません。そのことは、私の記事に書いていますが、楽山が読んでいないのは、気に入らないものは無視するアドラー教のカルトだからでしょう。
 

もうずうっと前に見た朝生で、景山民夫が宗教の大切さをうったえるのに、信仰とゴミ拾いの話をしたのに対して、池田晶子はゴミを拾うのに神様は必要ですかと問いかけていたと記憶しているけれども、これは確かにその通りと思う。

 
これで分かるでしょう。今まで宗教について長々と語っていながら、神様不要に同意しているのです。このような、ばらばらで一貫性もなく、知りもしないことについて、自分で、あるいは、こう書いてあると、語りたがるのが、シャローム、楽山、荒らしの易坊に共通しています。
 

全地上には自分と同類の人間を愛することを強いるようなものは何ひとつ断じてない。人間が人類を愛するような自然界の掟はまったく存在しない。若しもこの地上に愛があり、これまであったとするなら、それは自然の掟から出たものではなく、ひとえに人々がみずからの不死を信じてきたからだ、と。

 
不死が出てくるのは、よく分かりません。念のため、この世で思う不死を信じ込むのがキリスト信仰ではありません。
 

だから、人類から不死に対する信仰を根絶やしてしまえば、たんに愛ばかりか、この世の生活を続けていくためのあらゆる生命力もたちまちのうちに涸れはててしまう、と。それだけじゃありません。そのときには、もう不道徳もなにも何ひとつなくなって、すべては許される、人喰いだって許されるというのです。

 
今度は、不死ということで、信仰を語り始めました。いつも信仰の核心を外している楽山です。
 

人は宗教によってこそ、愛をいだき、道徳的に生きられるという考え方からすれば、このように結論づけるのはある意味当然かもしれない。

 
不死については、全然、当然ではありません。楽山の、信仰を知らない証拠が積み重なります。
 

でも人が持っている愛も、道徳も、宗教に由来するものではなく、人が進化の過程で獲得した本能のようなものであるとすれば、その限りではなくなるのではなかろうか。ちなみに、宗教は持たず、不死を信じているわけでもないだろう動物たちが、愛をいだき、道徳的な行動をしているかのように見えることは、そう珍しいことではないらしい。

 
動物で、道徳を語るのでしょうか。愛は、本能でしょうか。楽山の反信仰は動物でしょうか。
 

・動物たちの無償の愛。人間を助けた10の動物たちの物語
これらのエピソードの真偽は分からないが、いかにもありそうな話ではあるし、この手の話が山ほどあるとするならば、愛や道徳は、信仰を持つ人の特権というわけではなさそうではある。

 
反信仰で反宗教の、易坊にそっくりな楽山は、愛も道徳も本能だと言っています。本能だけに任せて、人は動物を、人は人を、人は神を、愛するでしょうか。恐ろしく次元の低い話です。
 

こういった点から考えてみれば、宗教を信じていようが、信じていまいが、愛の深い人もいればそうでない人もいるのであろうし、

 
そのことと、動物と同列にして、愛を本能だというのとは、全く違います。著しい間違いですが、気に入らないことを無視するアドラー教の楽山は、気づかないまま、生きてゆくのでしょう。
 

宗教を信じなければ、または不死を信じなければ、愛も道徳も失われてしまうというのは極論であって事実であるとは言い難いのではないかと思う。

 
そういう極論というのを言っている人は多いのでしょうか。どうも、楽山の独りよがりの宗教論は、何も実がないように思います。以前から、言葉尻や理屈の欠片をあげて、文句を言うだけなのです。
 

ふう。古典新訳文庫の『カラマーゾフの兄弟』は「5」まであるけど、「1」だけでも結構長くなってしまった。これでも論点は削りに削って少なくしたつもりだけど。まあブログは義務ではなく、趣味であるし、あまり根を詰め過ぎず、時間があったらちびちび書こうというお気楽モードで行くことにしよ。

 
ブログを趣味だと言っています。趣味ならば、宗教や真実追求のテーマについて、本気で考え、信じている人に対する侮辱ですから、書かないでください。やはり易坊の成りすましなのか、楽山は、宗教を嘲笑う、ふざけた男です。
 
 
(2019年05月02日)
 
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