ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

人の復活(修正)

 
  人の復活(修正)
 
 
死人が蘇る話よりも
先に考えるべきことがある
 
信仰はその原初から
神への依存であり
自立した信仰などありえず
信仰は紛れもなく
神に人が依存し甘えることに他ならない
 
語弊があるなら
神のみに依り頼むことと言ってもよい
 
多くの信仰者は同意するだろう
しかし 
私たちの信仰は
100%を目指すことは出来ない
 
100%を目指せば目指すほど
思い込みを強くして
偶像信仰になってゆくだろう
 
何故なら私たち人間は
他者を完全には理解できないでいる
ならば
神の全知全能完全絶対永遠不変など
理解できるようなものではなく
手に負えないのである
 
私たちの信仰は
本質的に100%を目指すものではない
 
神はそれをご存知で
福音を賜ったと思うべきである
 
 
 100%を目指し
 奇跡を固く信じ込んだばかりに
 日常の人間性を疎かにして
 100%に近い傲慢だけになり
 他者に負けない尊大な態度ばかり示して
 敬虔はおろか
 信仰の節操さえも弁えず
 大口をたたいては
 人間の理路を破壊し
 人間の共感を滅ぼして
 信仰者ではなく
 思い込みの化け物になった者もいる
 
 信仰のいちばん大事なところは決して難しくはない
しかし、そこを間違えれば
おぞましい反信仰に陥るだけの欠点が人間にはある
  
 
主の復活にまつわる聖句
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
エスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:28-29、新約聖書
 
 
見ないで信じるということは
今信じていることを固定することではない
それは目のチリにも梁(はり)にも気づかない盲目の信仰?であり
偽善者とカルトの信じ方である
 
信仰は
不明を呑みこんで信じ込むことではない
 
信仰において信じるということは神を理解することではなく
100%を目指すことでもなく
救いの成就が目に見えなくても
一生の付き合いとなるほどの賜物を心に受けて起こることである
だから、見ないで信じた、と言うのは、慢心に他ならない
 
心に受けた賜物を知っている敬虔は
信仰の自慢などしない
 
それでも人間の信仰は不完全である
それは人間が不完全だからに他ならない
 
だから固定されたまま成長しない信仰はあり得ない
 
信仰は固定ではなく成長であり
信仰は境地ではなく道である
 
 
「聖書は神の言葉」と言われるが
そのことが既に
それ以上に尊いものを知らないという讃美である
 
讃美を振り回すことが望ましくないのと同様に
「聖書は神の言葉」という言葉を振り回すことは望ましくない
 
 
 大袈裟な讃美を聞いて
 大袈裟な讃美を繰り返して満悦するような
 大袈裟な信仰?はキリスト信仰にはない
 何故なら神の前で
 人は決して大袈裟にはなれないからである
 
 
 人の言葉で書かれている聖書が
様々なカルトに悪用されている事実を見ても
聖書に心を揺さぶられたことがなく
心に受けたものがないのに
讃美と信じ込みが信仰だというのは間違っている
  
人が真の神を相手にすることは出来ない
そんな能力は人にはなく
真の神に人知はどこまでも及ぶことがない
 
ならば信仰は否定されるだろうか
人は神を信じてはいけないのだろうか
 
人を信じられず
自分を信じられないとき
たとい偶像であろうと
神が許そうと許すまいと
たとい土の器から涎のように
だらだらと引きずる醜い姿であっても
その結実が悲惨な生と死であっても
祈り願い
最後は叫ぶ以外にないのが信仰だ
 
この世の何処に
信ずるに足るものがあろうか
それは信仰においても言えることだ
 
悪い夢を見て
目が覚めたら
現実はもっとひどい悪夢だったとき
実在が幻想と化して
善悪が糞尿ほどの価値も持たないとき
逃げようもなく
絶望的に無力な狂気が
すがりつく糸も
しがみつく藁も信仰である
 
人が神を信じれば
時々に偶像信仰にしかなりえない
ゆえに信仰は決して固定できない
ということをむしろ知るべきなのである 
  
他にないという人にとってのみ信仰なのであって
 
他にもあるけど・・という信仰なら
気軽に付き合いのように分かったというべきではない
そこは人間にとって不可欠な真実からは
まだ遠いと弁えるべきである
 
少なくとも一度は来るはずの
生と死への思いの境界に立つとき
信仰と思っている自らを省みるべきである
 
もはや神の器に成り上がった微笑の調和も
バランスも保つことなど出来はしない
 
何を捨て
何に捨てられているのか
そこにすべての教義は死に絶え
踏絵は踏みひしがれ
 
神の御業を知らない
キリストの奇跡を知らない
聖霊の体験を知らない
讃美も感謝も知らない
 
語るべき何ものもなく
ずれた顎から舌を垂らし
眼球は偏り流れ
手も足も投げ出されて
ぶらぶらと関節の規則を外れて曲がり
人の形を失ったその果てに
受けとめる器があろうとなかろうと
落下に任せるしかないときが
人によらず
人にあらず
収めようとすればするほど
壊される土の器の日常である
 
土の器は強くはない
むしろ脆くて壊れやすい
 
それでも学ぶことを止めないのは
他に頼るものがないためである
 
そのとき信仰は
壊れた魂の土の器を
神の前に捧げて祈るしかないからだ
 
大言壮語の讃美では
傷心しやすい弱小のわが身は消えない
何故なら自分で強さを呼び寄せようとしているからだ
 
来たるべき艱難に備えるのは
傷心しやすい弱小のわが身を弁えて
神の導きを受け容れられる我が身であることを
修正可能な我が身の弁えを神の前に捧げて
赦しと癒しと救いと導きを祈り願うことだけである
 
他にないというほどの愛の賜物を受けること
それが地上を生きる人間にとっての復活である
 
 
(2011年12月08日)
(2019年05月17日、修正)
(2019年05月18日、一部修正)
 
艱難(かんなん)
依り頼む(よりたのむ)
脆い(もろい)
藁(わら)
 
 
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