ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

偏執狂

 
  偏執狂
 
 
(私)
シャロームの転載記事です。恐らく私に当てつけているのでしょうが、ぴったり当てはまるのは、シャロームのほうなのです。そこに気づかず、正反対の気持ちで、引用していることが、逆に、シャロームの継続する異常性を示すことになるのです。
 
偏執狂とバランス病
2015年10月23日 / TAKA SAKAMOTO
本文記事引用元
https://takasakamoto.com/2015/10/23/%E5%81%8F%E5%9F%B7%E7%8B%82%E3%81%A8%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%97%85/コミュニケーションについて書きます。現在の日本社会において散見されるコミュニケーション態度について、僕の実感を元に下記の三段階にまとめてみました。
 
シャロームの転載記事です。
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28975355.html
 by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 

1.偏執狂タイプ
2.バランス病タイプ
3.責任ある個人

 
>以下、各カテゴリーについて順に解説します。
 
>1. 偏執狂タイプ
 

誰がどう見ても偏執的で妄信的なのに、その自覚が全くないタイプのコミュニケーション態度です。

 
(私)
どう考えても、罪を認めない、悔い改めないでは、キリスト信仰ではないのですが、シャロームは、それでも、預言者気取りで尊大な記事を書き続けています。
 

自分が信じている世界観・価値観を「絶対的正義」として掲げているため、世界観の異なる他者を許容することができず、攻撃さえします。

 
(私)
シャロームは、根拠がないことを指摘すると、神の啓示と聖霊の導きだから議論の対象にならないと言いました。それがシャロームの「絶対的正義」なのです。
(私)
神から導きを受けて、人間は考えるのです。そこで、受け取り方は人間にとっての問題になります。議論の対象になるのです。シャロームは、議論が出来ないし、弁明も出来ないから、また、他者の記事から、都合の良いところをもってきて、当てていますが、また勘違いもしているようです。
 

主義主張を異にする偏執狂同士で攻撃し合うケースが多いですが、これはおそらく同族嫌悪の類でしょう。このタイプとはコミュニケーションが成立しないので、僕は一切付き合いたくないし、関わることもないように気をつけています。

 
(私)
私も、シャロームとは、いっさい付き合いたくないのです。しかし、他の人が騙されることのないように警戒を呼びかける必要があるため、批判記事を書いています。
 

しかし後述する「責任ある個人」もまた、この偏執狂タイプにとって無関心ではいられない存在なので、僕もその生き方を目指す以上、偏執狂に絡まれるリスクは避けられないと考えています。嫌だけど仕方ないですね。

 
(私)
そういうことです。だから、注意を喚起する必要があるのです。
 
ついでにもうひとつ嫌なことを言うと、これも後述しますが、程度の差はあれ全ての人間は偏執狂的性格の種を抱えているというのが僕の人間観です。態度として表出までしていなくても、人って常に何かしらの妄念や排他的な思い込みに囚われてたりするものです。嬉しい事実ではないですが、自己理解も他者理解もそこから出発するしかないと思っています。
  
(私)
偏執的に、こだわるということは誰でもあるでしょう。しかし、シャロームは、一時的ではなく、私が見てきただけでも8年、恐らく実際は何十年も、訂正不能に執着していると思われます。さらに、彼の「(笑)」には悪意も感じますから、根っからの体質的なもので、自分に逆らう者に対して、弁明が出来ないものだから、反省もせず、悪意をもって、ただ排除することしか考えられないのでしょう。
 
>2. バランス病タイプ
 

これは僕が知る限り、日本で育った日本語話者の日本人に突出して多く見られるカテゴリーです。意見や主張を行う際に「偏執的に見えない」ために異常に気を遣う強迫観念的な振る舞いに取り憑かれたタイプです。僕の実感では「偏執狂」カテゴリーを抜けた日本人の大半がこのカテゴリーに留まっています。なので、僕の目には強迫観念的に見えますが、日本ではむしろ「普通」と思われていることの方が多いかもしれません。

 
(私)
シャロームは、自身は社交の世辞を言うことで、やさしい人格のつもりでいるのです。しかし、実体は、自身の妄想的確信について、無根拠な自己中心の救われ妄想なのに、反省も訂正もする必要を感じず、批判者を、カルト呼ばわり、依存者呼ばわり、サイコパス呼ばわりしてきました。
(私)
そして、今回は、偏執狂呼ばわりを加えています。これで、ますます批判の動機が増し加わることを考えないのです。
(私)
シャロームは、いつも、その場その時の、憂さ晴らしをしてくるだけで、何の反論にも弁明にもならないわけです。つまり、シャロームは、理路が成り立たない人なので、反論も弁明も議論も出来ないのです。にもかかわらず、自己主張だけは、自尊の勢いだけで、豪語してきたのです。卑怯でしかない。
 

具体的に言うと、このタイプは何につけ「言い切る」ということをしません。相手の反応を伺いながら話し、語尾を和らげて更に相手の反応を伺い、そこで同意を得ると一気に勢いづいて断定に踏み切ります。あるいは相手のネガティブな反応を確認すると、あっさりと自分の意見を妥協したり引っ込めて「調和」に駆け込みます。

 
(私)
シャロームの、世辞の挨拶など真実の追求に社交を用いる姿勢、信仰は人それぞれ、だから人の言うことを受け取らない姿勢、などが、それに当たります。しかし、信仰の真実を求めるうえで、社交、世辞、などは意味がなく、また、あまりに外れた信条を、そのままにすることは、他者への影響を考えれば、してはいけないことです。
 

それだけでなく「自分の主張とは別の考え方もあることを自分はちゃんと認識しており、それはそれで敬意を持って受け入れている」ことのアピールにも余念がありません。じゃないと「偏っている」と思われるからです。偏っていること以上に、偏っていると思われることが問題なのです。

 
(私)
それが、シャロームの、信仰は人それぞれ、ほっといてくれ、という考え方です。この考え方は、逆に思考停止を招いて、他者にも思考停止を強いることになります。自分は気を遣っているのに・・で正当化されてはたまりません。キリストはただ御一方です。著しく違ってはならず、違いを正すには話し合うしかありません。それを、全然してこなかったのが、シャロームであります。
 

要は「仲間外れ」になりたくないのです。また、偏執狂タイプが名実ともに「絶対主義者」であることと比べると、このタイプは逆に徹底した相対主義者に見えます。しかしそれは見かけの話で、実際には「相対主義者の皮を被った、抑圧された個人」であることが多いです。

 
(私)
この望ましくないあり方・考え方は、自他未文化や日本教に通じるところです。協調性のつもりが、差異を受け容れてなどいない人なのです。シャロームが典型ということになるでしょう。
 

よって実際には多様性や他者との差異を受け入れるだけの器を備えていないため、「尖った意見」を口にする「責任ある個人」を前にすると激しく動揺します。

 
(私)
このように、シャロームが、分別なく、自分が斬られているにもかかわらず、お構いなしに、当てつけ記事をぶつけてくることに表れているのです。
 

その動揺が「尊敬」や「憧れ」に転じて前向きに作用した場合、その人のコミュニケーションは「責任ある個人」型への変化に向かいます。一方、動揺が「不安」や「嫉妬」に転じて後ろ向きに作用した場合、自分を変化させるのでなく相手をバランス病ウイルスに感染させて抑圧の中に引き込もうとします。

 
(私)
バランスのために、自分の意見を引っ込める習慣のことでしょうか。シャロームは、バランスという言葉が好きなようで、以前、よく書いていました。シャロームのバランスは、文句を言わないことであり、批判をしないことであり、何も進歩のないことを意味しているのです。
(私)
シャロームは、何かを追求しようという意志はなく、ただ、自分が言い得たと自己満足することだけが目的だと思います。
 

残念ながら日本の社会環境で育った人間の殆どはバランス病に感染します。本当に嫌なんですが、僕も患者の一人です。何らかの意味で「日本」という環境から離れるとウイルスが働かなくなって快方(解放)に向かいますが、「日本」に身を置くとウイルスが餌を得て増殖し、再び感染度が高まります。このウイルスが最初に奪うのは「表現の自由」ですが、やがて感染者の生命力そのものを蝕んでいくので、非常に危険です。

 
(私)
ということで、シャロームの、主張のあり方は、バランス病ウイルスが支えてきたのだろうという推測が成立します。もちろん、ウイルスは比喩ですが、シャロームの感染と伝染性は、笑えない問題となるでしょう。しかも、命と人生に関わることだから、今の段階で、批判することの必要性を新たにしています。
 

僕がこのブログを遠い地球の反対側の内陸国で作って最初の幾つかの記事を書いたのは、自分が帰国後に再感染することを見越して抗体を打っておくためでした。その後帰国して案の定ウイルスが活発化しているので、頑張って対抗しているところです。

 
>3. 責任ある個人
 

このカテゴリーこそ、円滑で生産的で、何より自由なコミュニケーションのために人が目指すべきところです。このタイプの人の特徴を一言で言えば「議論ができる」ということです。つまり多様性や意見の相違などは自明の前提で、その上で自らの責任で意見を明確に表明します。それに対する反応はあくまで次の段階で起こることだとして、「まず顔色を伺う」「まず空気を読む」ということはしません。まず自らの立ち位置を表明し、その上で反応を待ったり、あるいは待たずに行動を開始します。

 
(私)
シャロームは、本を読めない人で、今までも、自分が斬られていることに気づかずに、賛同して、読んだつもりになっていました。日本教についてもそうでした。推測ですが、なぜ、上の文章を転載したのでしょう。シャロームは、ひょっとして、上の文章を悪い例と受け取って私に当てつけたつもりでいるのではないかと思います。読書と言い、この転載といい、自分で墓穴を掘っているシャロームです。
 

反応に対しても自分の責任(responsibility)で対応します(対応しないという対応も含む)。また「議論ができる」というのは「応答」(response)ができるということでもあります。「応答」するためにはまず相手という他者の声を聴いて、理解できていなければいけません。つまり相手の話を落ち着いて聞けるということです。

 
(私)
私は、シャロームの意見を、今は、記事かコメントなので、落ち着いて読むように努めています。もちろん、キリスト信仰から、あまりに外れているわけだから、腹の立つこともありますが、感情はコントロールして批判記事を書いています。十分ではないかもしれませんが、罵詈雑言を言います、という前置きも、その一つです。
(私)
それでも、最近では・・馬鹿じゃないの・・と書いたこともあり、しばしば、きつい比喩を使ったり、感情的文言を入れたりするのは、シャロームには、殆ど理路は通じないからです。私は、理路を扱うのは苦手ですが、努力することは、ある程度、できます。シャロームは、読んで理路を理解したり、書くときに理路を組み立てたりが、全くできない人だと思います。
(私)
私のガス抜きという意味もあります。ある時期から、批判はシャロームを変えることではなく、うっかりシャロームに騙されることのないように、読む人一般に、危険があることを知らせるためという目的になっています。
 

「落ち着いて」というのがポイントで、聞いている途中で相手の話の「偏り」が気になって口を挟んで「フォローを入れる」とか「バランスを取りに行く」みたいなことをしません。落ち着いて話を聴いて落ち着いて考えられるので、相手の意見と自分の意見を冷静に比較して取捨選択します。変えるべきところを変え、貫くべきところ貫くということにおいても、自分の責任で判断して実行します。もちろんそれが「正解」になるとは限りませんが、「失敗」のリスクと責任も自分のものとして捉えているので、構いません。そもそも「正解」なんてないからこそ自分の責任と判断で決定し、行動するのです。

 
(私)
これは、私が努めていることであります。そして、一方、
シャロームが全くできていないことで、する気もないことです。
 

以上三段階です。これは必ずしもどれか一つののタイプに100%収まるという種類のものではありません。例えば偏執狂タイプについて言えば、既に触れたように「人間は程度の差はあれ誰もが偏執狂的性格を抱えている」というのが僕の基本的な人間観です。「どれくらい偏執的か」というよりは、「己の偏執的側面をどれくらい客観的に認識しているか」によってコミュニケーション態度の個人差が生まれます。また、同じ人でも状況や相手によってタイプの変化が起きます。なので、「自分はどのタイプか」と単純に考えるのでなく、例えば全体を100あるいは10とした場合に、この3つがそれぞれどの程度の割合を占めているか、という発想で考えた上で、「責任ある個人」が圧倒的優位な状態に近づけていくようにしています。

 
(私)
シャロームは、言論の責任を一切取ったことがありません。言い放って終わりという人で、それが通るならお気楽ですが、その異常な態度は、重要なテーマほど、存在してはいけないものなのです。
 

また自らは「責任ある個人」として意見を発信する準備ができていたとしても、相手がバランス病優位タイプの場合、それを踏まえた表現を選ばないとコミュニケーションが立ち行かなくなることが多々あります。これはカウンセリングの場において特に気をつけていることです。但し要注意なのは、バランス病に合わせたコミュニケーションを行うと、そこを突破口にしてウイルスが自分の側に感染してくるリスクが非常に高いことです。

 
(私)
シャロームに都合の悪い内容ばかりの記事でした。恐らく、シャロームは、無条件に無根拠に、自身を責任ある個人と位置付けて、この記事を転載したのではないかと思います。だとすれば、ここにも、シャロームの、とんでもなく妄想的な自意識があるということになります。
 

補足しだすとキリがないので今回はここまでにします。「責任ある個人」として自由に表現し、一度きりの人生をしっかり命燃やして生きたいものです。

 
(私)
シャロームは、本を読んでも理解していない、理路がない、共感性がない、悲しむ心情を持たない、罪悪感も羞恥心もない、ということが今までに明らかになっており、彼の信条?は、キリスト教ともキリスト信仰とも、全く逆であり、他罰的な自己中心の権威主義者であり、その根拠は神ということになっている、という、とんでもない人です。言論の責任など負う気はなく、全く「責任ある個人」としては失格であります。
(私)
シャロームを自立した個人などと思ってはいけません。
間違ってもシャロームの影響だけは受けないでください。
人生と人格を破壊される危険が大です。
 
 
(2019年05月19日、同日一部修正)
(2019年05月20日、一部修正)
 
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