ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

綻び

 
  綻び
 
   他人の真似をしたら、自分の個性を見つけた!
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41542062.html
   楽山のブログ
 
 
楽山は、自分も成長し学習しているということをアピールしたいようです。
しかし、気に入らないことは無視するというアドラー教に成長はありません。
 
記事の引用
 

 
少し前のことだけど、
 
とあるブログで、
心に思ったことを
つらつら、つらつらと
すごく長く書いているのを読んで、
 
自分も真似して、
こんな風に書いてみようかな、
でもただ真似するのは面白くないから、
自分は改行はなるだけしないで、
ぎゅうぎゅう詰めにして長文を書いてやれ!
と思って書いてみたのだった。
 
そんで、
その結果はどうなったかというと、
真似したブログとは
似ても似つかない文章になりました(笑)。
 
とあるブログでは、
プライベートな事でもなんでも、
かなり率直に語っていて、
飾らない人柄が文章に出てるけど、
さすがにこれは真似できないかった。
 
他人の真似をすると
自分の個性を失うという話もあるけど、
 
自分の場合は、
他人の真似をしたことで、
自分の個性を知ることができたみたいだ。
 
 」
 
 
段落分けする必要を殆ど感じませんし、詩文を書いているわけでもないようです。
こう書けば、ぎゅうぎゅう詰めでないからという安心でしょうか。
 

とあるブログで、
心に思ったことを
つらつら、つらつらと
すごく長く書いているのを読んで、
自分も真似して、
こんな風に書いてみようかな、
でもただ真似するのは面白くないから、
自分は改行はなるだけしないで、
ぎゅうぎゅう詰めにして長文を書いてやれ!
と思って書いてみたのだった。

 
信者とアンチの共通点と相違点 (20190502修正)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41530818.html
のことのようですが、
なぜ、自分も真似して書いてみようとか思ったのでしょう。
さらに、ぎゅうぎゅう詰めにしてまで、だらだら長いだけの文章でした。
 
それは、読者のことを考えていない、
つまり、他者のことなど考えていないからです。
したがって、実感のこもった反省も謝罪も書かないのです。
 
今回の記事を書くような切実な必要があったとも思えません。
恐らく批判されたであろうことに対して、平気であり、
何も感じていないことを書きたかっただけなのでしょう。
 
本当に何も感じない人が書いた平板な文章のようです。
 
書き方を間違えたのなら、何らかの罪悪感や羞恥心があるはずですが、
それらを持ち合わせていないために、乾燥した言い訳に終始します。
まるで、他人事のように。
 

そんで、
その結果はどうなったかというと、
真似したブログとは
似ても似つかない文章になりました(笑)。

 
だから、笑いごと、冗談の書き方で、済ませられると思っているわけです。
真実を伝えようという意志など無かったということでしょう。
 

とあるブログでは、
プライベートな事でもなんでも、
かなり率直に語っていて、
飾らない人柄が文章に出てるけど、
さすがにこれは真似できないかった。

 
楽山には、率直さがないのが特徴です。
したがって、飾ったり、婉曲的な罠を仕掛けたりはあっても、
じっくり考えることがなく、しんみり悲しむということもないのです。
 
恐らく楽山は、深い気持ちを表出することを、
楽山は愚かなことと考えているのでしょう。
実際は、楽山の精神では、できなくなっているのです。
 
そうして、自分の中でだけ成り立つ言い訳をひねり出して
ここに書いています。
それ以上深いところまで、思考も心情も及ばないわけです。
 

他人の真似をすると
自分の個性を失うという話もあるけど、

 
それは自覚次第なのですが、容易ではありません。
他人に成りすますことを常套手段としているためでしょうか。
実に、抵抗もなく、気楽に書いています。
 

自分の場合は、
他人の真似をしたことで、
自分の個性を知ることができたみたいだ。

 
他人の真似をして自分の個性を知る
と言っています。
 
あくまで自分は自分として
他人の言動を受け止めることでしか成長はないのです。
 
「他人の真似をしたことで、自分の個性を知る」
 
安易な書き方です。
 
普通、これでいいだろうか、この書き方で伝わるだろうか、
他者の受け止め方を真面目に考えるものですが、
 
安易な見方しかできない人は
人間関係も安易に考えるのでしょう。
 
他人の真似って、
他人の気持ちや筆致や理路や文脈構成、
そんなに分かるものでしょうか。
 
自分の個性、これこそ、
知る、などと言う言葉で表して、
できた、などと言えることなのでしょうか。
 
一生の課題と言ってもいいようなことを、
楽山は、気に入らないことは無視してゆく信条のために、
極めて、気安く書いている、ということを見逃さないでください。
 
たまたま、ではなく、これが、楽山の本質であり、人生の考え方なのです。
 
実際は、
他人の真似をすることも難しく、
自分の個性を知ることは、さらに、難しいのです。
うっかり、知る、とか、できた、とか言えないことなのです。
 
それらは、洞察力を要するからです。
 
楽山は
真似をすることも安易にやってきて、
自分の個性についても反省がないので分かりもしないのに、
 
いつものように、まるで、気楽に、成りすますように、
いい加減な筆致で、いい加減な心性を露呈しています。
 
楽山、易坊、シャロームの、同一人成りすまし疑惑、
奇しくも、楽山自身が、強めているようです。
 
真剣に考えるべき問題を、ボンヤリ言語で、ごまかし、
理路においては、贔屓の片落ちの理路で、仲間ぼめをして、
破綻百出なのに、無反省無頓着に、
また、作戦を練り直したかのように書いてくることで、
その度に、本人の気づかない綻びが明らかになってくる経過です。
 
何事も、他人事のように書き、自身の問題として考えない
という、薄膜のような思慮と情性で、短絡した結論めいたことを書くけれど、
真剣味も説得力もなく、こう書けばいいだろうという安易な筆致によって、
シャロームとの類似性が、また、濃くなっています。
 
言い分けはしても、決して後悔をしない体質だから、
学習も成長もなく、自分の都合よさだけを中心とする個性となるために、
感情が薄く、思慮が浅くなるのは当然で、
 
気に入らないことは無視する、
 
という、アドラー教という軟派カルトの辿る末路なのです。
あるいは、そのようにしか生きられないから、
身勝手中心のアドラー教を作ったのかもしれません。
 
そのために、快と不快だけの、つまり、笑いと怨念だけの情性となり、
それを無視してゆく信条なら、感情も思慮も必然的に浅くなります。
 
そうして、無反省、無感動、冷酷、自己中心、
それをごまかすボンヤリ言語ということになります。
 
切実な情感と共感の欠如と、深い思慮と洞察の欠如、この二つが、
人のことを我が身のように深く感じることも考えることも出来なくなっている
という楽山の特徴であることに何ら変わりはありません。
 
決して近づいてはいけない人だと思います。
 
 
(2019年05月21日)
 
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