ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

いちばん遠い者

 
  いちばん遠い者
 
   霊的な真理を自分で気づき、 発見する
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28977314.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
シャロームが、いったい、何を気づくというのでしょう。いちばん、気づきから遠い者が書いています。
シャロームの、いったい、どこが霊的だと言うつもりなのでしょう。
いちばん、動物的な者が説教まがいのことを書いています。
 
>★今日のみ言葉★(2019.5.1)
>「まず、自分で気づきが与えられるために」
 

人から教えられることも必要ですが、霊的な真理を自分で気づき、
発見することも素晴らしいことです。

 
シャロームは、自分の悪霊性にだけは気づかない男です。
今日も丁寧語で、騙しにかかります。
 

聖書のマタイ4:1-11のところは次の通りです。
4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
4:5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
4:6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
4:7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
4:11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

 

前回はマタイ4:1-11のところの内容確認の質問をさせてもらい、
その後、内容の確認をさせていただきましたが、もうすでに、ここから教えられること、
気づかされたことなどがあったかもしれません。
次はこのお話の中から教えられることを一緒に見つけていきたいと思います。
以下の質問の目的は、あくまでもまず自分で気づきや発見が与えられることです。

 
気づきも発見もなく、石がパンになることを信じて、飛び降りることは怖くてできないが人には勧めているカルトの誘惑者であり、どんでん返しの栄華を信じ込んで、あらゆる善と忠告と戒めを裏切っているのが、シャロームであります。そして、いつも、嘲笑いと、作り笑いで生きているのです。
 

1.イエスは御霊によって荒野に導かれたのですが、なぜ、わざわざ悪魔の誘惑に合うために
人里離れた荒野に出かけていく必要があったのでしょうか。
ナザレの小高い丘のようなところでは駄目だったのでしょうか。

 
悪魔の誘惑には、誰でも遭うからです。
地上は荒野のようなものです。
人々のために、キリストが試みに遭うという聖句があるのです。
 
>(shalomのコメント)

御霊の導きはイエスさまが“風は思いのままに吹く”と言われたように
その人、状況によって異なり、その人を霊的な真理、気づきに導くために常に最善です。
エスさまに出会った多くの人が、なぜ?、どうして?と思うような荒野に導かれていますが、
私もその一人です。きっとあなたにとってもそうだと思います。

 
シャロームは、もっともらしい飾りで、嘘っぱちを書いています。荒野を、どうして?・・という捉え方しかできないのは、誘惑のために、荒野だと思わせたくないからです。このような、安易で、間違った理解を広めることが、シャロームの定めのようです。霊的な真理と書けば、人々が頷くと思っているようです。シャロームは、悪魔の誘惑に従って生きている人だと思います。恐ろしい。
 
>2.別に断食をしないで、誘惑に合うことは駄目だったのでしょうか。
>(shalomのコメント)

エスさまの場合は神がすべての人をサタン、悪魔のくびきである罪の支配から救いに導くには、
来たるべきサタンの究極の試みである十字架の苦難と死に打ち勝ち、
全人類の罪のあがないを成就し、神の御心が成就される道は
人の道ではなく、神の道、神のみことばによる以外に道がないことを受け容れ、
神のみことばに自分の存在、生き方を完全に委ね、明け渡す、
十字架の道が唯一の道だからです。

 
キリストが試みに遭う、ということに、私たち人間のためだ、という視点を、全く持たないシャロームです。シャロームにとっては、キリストもサタンも、他人事なのです。その恐れるべき超常と神聖を、身の程を弁えずに、高みから眺めて、よしよし、とばかり、分かっていますと、満悦している偽善の悪霊的存在が、シャロームなのです。こういう人が、地上にいるということです。
 

3.1回目も2回目も「もしあなたが神の子であるなら・・・」と悪魔は言っていますが、
ここでの誘惑の狙いは何だったと思いますか。

>(shalomのコメント)

エスさまが神の御子であられることは神ご自身によってのみ証しできることだからです。
悪魔がアダムとエバを神のようなものになることができると誘惑し、神の御言葉を退けたように、
エスさまがご自分で神のようなものと証しするために、
エスさまがご自分の言葉や業によって証しするように誘惑し、
神の御言葉を退け、神に対する全き信仰、明け渡しを拒否するように誘惑した。
神に対する不信仰、罪とは神の言葉を退け、人の言葉、わざによって生きることです。

 
神のようなものとして、説教をぶっている偽善者が、シャロームです。その罪を、創世記においては、アダムとエバに着せました。今度は、まるで、自分がキリストを試しているかのような、神の立場に立って、書いています。実際は悪魔の誘惑の続きのように、キリスト者と求道者を陥れるために、誰も出来もしない全き信仰などと言っているのです。
 
シャロームの信仰は、始まってもいません。キリスト教に巣食うペテン師シャロームは、ずっと
神に対する不信仰、罪とは神の言葉を退け、人の言葉、わざによって生きることを続けるのです。
 

4.イエスはその悪魔に対して、人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる者であると言われました。神の言葉はどういう面で人を生かすのでしょうか。
これがなければ人はどうなりますか。

>(shalomのコメント)

人はパンのみにて生きる存在ではなく、神のいのちの息吹きである霊によって生きる存在、
神のかたちにかたどって造られ、神との交わりによって生かされているからです。
エスさまは、人を生かすのは霊であって、肉はなんの役に立たないと言われ、
私があなたがたに話した言葉は霊であり、いのちであると言われました。
エスさまは私はブドウの木、あなたがたはその枝である。
だれでも私に繋がっていなければ、実を結ぶことができず、枯れてしまうと言われました。

 
「神のいのちの息吹きである霊によって生きる存在」「神のかたちにかたどって造られ」「神との交わりによって生かされて」「人を生かすのは霊」「言葉は霊であり、いのち」・・この聖書語を並べただけの超常言葉を見てください。一つとして、人間の実感に結び付きません。こういうことばかり吹聴して、シャロームは、キリスト信仰を、まるでピンと来ない呪文に変えてきたのです。
 
イエス・キリストというブドウの木から、いちばん、遠いところで、実感から遠い言葉を並べて、笑って、そそのかしているのがシャロームです。こういうことしか、シャロームは、言えないのです。それでも、批判されても、答えられなくても、執拗に教えようと書いてくるのは、シャロームの根っこからの悪性と悪霊を示すものです。聖書など、どうとでも言えると思い、どうでもよいと思うから、書いてくるのです。
 

5.「神である主を試みてはならない」とイエスはみ言葉を引用しておられます。
神を試みるとはどういうことですか。
神を試みることと神に信頼することはどう違いますか。

 
お分かりでしょうか。総てを見抜かれる神に対して、
神を試みることなど決して出来ないからです。
 
にもかかわらず、わざわざ、試みることと信頼することの違いなどという、実際は、真逆のことを比べて、知識を誇りたいのがシャロームなのです。神を恐れない者は、こうなります。総てを見抜かれていることを全く分かっていないのが、シャロームであります。
 
神に信頼する、ということで信仰を表すこともあり、それは、神を試みることが論外だと知っていることなのです。神を恐れることです。シャロームが、まるで、する気のないことです。だから、今回も、自分の罪と偽善を気にもかけないから、偉そうな言葉を集めて見せびらかしているのです。
 
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていいとか、悔い改めは神が与える、などと、シャロームは、言って、訂正していません。そう言っても救われると思い込んで、いつも、どこでも、神を試みるシャロームのような者は、神によって、隅から隅まで、その罪と偽善の凶悪さを見抜かれて、来たるべき裁きを用意されるのです。つまり、神を試みるな、というのは、ここでは、シャロームのようになるな、ということと同義なのです。
 
>(shalomのコメント)

神を試みるとは人が自分を神のようなものとして、
自分の言葉や、わざによって生きようとすることであり、
神に信頼するとは神の御言葉を告白し、自分の言葉、わざによらず、
エスさまが歩まれた十字架の道を、みことばと御霊に導かれて歩むことです。
次回に質問がもう少し続きます。

 
「自分の言葉や、わざによって生きようと」しているのが、シャロームであります。それで、生きられると思っているのです。罪人の自覚がなく、悔い改める必要など全く感じていないシャロームだから、自らを省みないで、こういうことを平気で言えるのです。
 
「イエスさまが歩まれた十字架の道を、みことばと御霊に導かれて歩む」・・十字架の贖罪の道など、人間には決して歩むことなどできない、ということが、シャロームは分かっていないのです。明らかでしょう。この無理解。
 
テキトーに言葉を繕って、キリストと同じ道を歩む・・とか言えば、キリスト者が、うんうん、と、頷いてくれると思っているのです。この人とだけは、同じ道を歩んではいけません。
 
総ての質問において、シャロームの背教と、不信仰ではなく反信仰が、明らかになってきたし、これからも明らかになってゆくでしょう。決して偽善者でペテン師のシャロームに近づかないでください。

 

>質問に一人一人ご自分で考えてみてください。

>他の人と異なっていてもいいのです。

 

シャロームについて一人一人自分で考えてみてください。

他の人と異なっていてもいいのですと、シャロームが言うのは、

信仰?は人それぞれ、違っていてもいい、と言いたいのでしょう。

聖書が表す信仰が、シャロームのように真逆でいいなんて、ありえないのです。

滅びゆく人間離れの仲間にならないように、祈っています。拝。

 
 
(2019年05月22日、同日一部修正)
(2019年05月23日、一部修正)
 
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