ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰の理屈?(1)

 
  信仰の理屈?(1)
 
   『カラマーゾフの兄弟 2~5』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳〈光文社古典新約文庫〉
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41543518.html
   楽山のブログ
 
 
楽山の宗教に対する見方が表れています。人間を見ているふうに小説を引用しながら、実際は、誰も知らない超常の理屈を言葉で表そうとして、平板で、長いだけの文章になっています。カルトが知らない世界を書くときの曖昧でボンヤリした言語の有り様として挙げておきます。
 

*つづき
前の記事のつづき。
もうちょっとだけ、『カラマーゾフの兄弟』の気になった箇所について、感想を書いてみた。

 
これで、ちょっとだけだそうです。しかも、くどくて、ととのっていない。
楽山の、ちょっとだけが、これくらいだと言うなら、読者をバカにしていますね。
 

(引用)
児童虐待についての宗教的解釈は?
児童虐待のニュースを聞くたびに、何でこんなことが起きるんだと腹立たしくなったり、憂鬱になったりするけれども、『カラマーゾフの兄弟』でもそれに関連した議論があった。
イワンは酷い児童虐待の例をいくつも示した後で、その宗教的な意味についてアリョーシャに問いかけている。
(引用)
もっとも、こういうばかげた話がないと、地上の人間はどうにも生きていかれない。なぜって善悪の認識ができなくなるから、などとほざいている連中もいるにはいるがね。じゃあ、これほどまで犠牲を強いるものなら、いったいなんのために、このくそいまいましい善悪など認識しなきゃならないんだ?  
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.238)

>これは確かにその通りのように思う。
 
善悪の認識を忌々しい、という引用文に、楽山は、同意しています。驚きです。
楽山は、善悪の認識をしたくない、するべきでない、という本音なのかもしれません。
善悪の判断しないなら、世の中の悪、どうにもならないですね。
 
>さらにイワンは、児童虐待についての次の宗教的な見解も強く非難してる。

(引用)
人はみな、永遠の調和を苦しみであがなうために苦しまなければならないとしたら、子どもはそれにどう関係する、どうだ、ひとつ答えてくれ? なぜ子どもたちは苦しまなくちゃならなかったのか、なんのために子どもたちが苦しみ、調和をあがなう必要などあるのか、まるきりわかんないじゃないか。いったいなんのために子どもたちは、だれかの未来の調和のために人柱となり、自分をその肥やしにしてきたのか?
人間同士が、なんらかの罪の連帯責任を負うというのは、おれにもわかる、復讐の連帯責任ということだって、おれにはわかる。だが子どもたちが罪の連帯責任を負うというところは、おれはわからない。
(同上、p.244)

 
そんなことが言われていようとは、引用文に、驚きです。
 

この世の不幸や悲劇について、自分はキリスト教ではどのように解釈しているのかはよく知らないが、自分が知っている某宗教について言えば、霊性を磨くためだとしていたのだった。この世は魂修行の場であって、この世における様々な経験はすべて魂の糧となり、霊性を磨くための砥石となるという考え方である。
また因果応報、前世のカルマという解釈もあった。禍はその者の罪の報いだという考え方であって、昔からよくあるやつだ。さらには人知のおよばぬ神の壮大な計画のためという考え方もあったように思う。
この世の不幸や悲劇の原因や、受け止め方については、この他にもいろいろな見解があったように思うが、いずれにしても大人が犠牲になる悲劇ならともかく、子供が犠牲になる悲劇に対しては、どれも全然説明にならないことばかりのように思える。

 
この世の不幸や悲劇については、考えるのはいいとしても、人が勝手に意味を決めつけてはいけないと思います。何故なら、決めつけなくても善悪の判断はするわけだし、決めつけは、大方、成り立たないことが明らかになるからです。
 
子供が犠牲になる悲劇の宗教的な説明など、確定的には、人は、できないと思います。
 

児童虐待など、子供が犠牲になる悲劇について、霊性の向上のためだとか、自身の罪の報いだとか、神の計画の一部だとか、そんな説明によって納得できる人はいないだろう。というか、人としてそういった説明で納得してしまってはいけないような気もする。

 
楽山は「ような気がする」という程度なのでしょうか。説明によって納得してはいけないのですし、それ以上に、納得できるはずがないのです。悲劇は悲劇なのです。
 
心のない者たちが、辻褄合わせの理屈をあれこれ考えているだけです。
超常信仰の宗教の悪い癖でしょう。
 
>さらにイワンは次のようにアリョーシャを問い詰めている。

(引用)
いいか、かりにおまえが、自分の手で人類の運命という建物を建てるとする。最終的に人々を幸せにし、ついには平和と平安を与えるのが目的だ。ところがそのためには、まだほんのちっぽけな子をなんでも、そう、あの、小さなこぶしで自分の胸を叩いていた女の子でもいい、その子を苦しめなくてはならない。そして、その子の無償の涙のうえにこの建物の礎を築くことになるとする。で、おまえはそうした条件のもので、その建物の建築家になることに同意するのか、言ってみろ、嘘はつくな!」
「いいえ、しないでしょうね」アリョーシャは静かな声で答えた。  
(同上、p.248)

 
まだ、楽山は、理屈を続けたいようです。
 

どんなに善いことのためであっても、それを実現させるための犠牲として子供を選ぶことはできないというのは人としては当たり前の感情だろうし、そうであればアリョーシャの答えは当然だと思う。

 
まだ、楽山も、直観で子供の犠牲を否定するべきところを、理屈に持っていきたいのでしょうか。
心を理屈で表すことはできません。理屈を言ってもしょうがないのです。言う前に、気づくべきです。理屈っぽい説明からは、距離を置く姿勢が必要です。
 

でもそうすると、このあとはイワンと同じ結論に達せざるを得なくなり、これは神様を信じたい者からするとつらいことになりそうではある。この場合、神様を信じたい人はどうしたらいいのだろう。
うーん。信仰者としては、イワンの疑問については、論理としても、情緒としても納得できる宗教的な見解を成立させるのは困難だろうし、そうであればこの問いは棚上げして沈黙し、祈るほかはないかもしれないなとは思う。

 
虐待も、信仰も、楽山は、理屈をこねてゆくようです。人間の弁えるべきことの本体は、理屈ではないところにあるということを知らないのでしょうか。
 
>神様を信じたい人はどうしたらいいのだろう
 
そのまま、こういう疑問になってゆくのは、理屈で辻褄を合わせて理解するものだという体質が、楽山にあるからでしょう。
 
疑問に対して、どうしようもなくなったときに、神に任せるのが信仰です。そういう神様がいるという信仰です。
 
気持ち悪いのは、楽山は、神を信仰していないということです。楽山の信仰?は、アドラー教の自己中心の、気に入らないことは無視する、ということを中心としていますし、この点で、既に、広く人に教えるようとするのは、著しく間違って、楽山は、知りもしないキリスト教の話に加わって、聖句の理解の片落ちで、悔い改めより、赦しが先だとかいうのです。神の寛容の気持ちと、人がどうすれば赦されるか、という問題を混同して、シャロームの味方をしました。
 
祈るほかない、とは笑止であります。楽山は、神に祈ったことはないと思います。ペテン師ですね・・
 

*事実と解釈
カラマーゾフの兄弟』のなかで、イワンとアリョーシャの会話はすごく興味深いのだけれども、ここはちょっと難しかった。
(引用)
おれはいま、何もわかりたくないんだ。おれはただ事実ってものに寄り添っていたいんだ。だいぶまえに、おれは、理解しないって決めたんだよ。もしなにかを理解しようと思ったら、とたんに事実を裏切ることになるからな、事実に寄り添っていることに決めたのさ……
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、pp.241-242)

 
事実は受け入れる以外にない、ということなら分かりますが、寄り添うという言葉は不適切に感じます。
 

これは悲惨な事件の例をいくつも述べた後のイワンの言葉ではあるが、そういった事について、それに何らかの意味づけをすることなく、その事だけを見ていたいということなのだろうか。

 
楽山の推論は、事実を見ていたい、ということのようですが、何を言いたいのでしょうか。人は、事実あるいはその記憶を見ている、なんてことに、耐えられるわけでもないでしょう。立ち直る話は?
 

ちなみに、『心霊電流』(スティーヴン・キング著)の登場人物である牧師は、妻子を悲惨な事故によって失ったあとで、信仰をも失い、それを公然と語るのだが、それを聞いた別の登場人物は次のように批評していた。
(引用)
師はひとつだけ正しいことを言った。人生でひどいことが起こったとき、人々は必ず理由を求める。理由がない場合でも
(『心霊電流 上』スティーヴン・キング著、峯村利哉訳、文藝春秋、2019年、p.104)

 
結局、受け入れないといけない時が来るのでしょうけれど、加害者がいるような犯罪がもたらした不幸であれば、言うまでもなく、加害者が責めを負わされるのは当然です。
 

これはその通りのように思える。少なくとも自分のことをかえりみれば、一つの出来事について、それが自分にとって大きな出来事であればあるほどに、「これは××のためだったにちがいない」というような理由付けをしないではいられなくなる傾向はある。また他の人がそういうことを言っているのを聞いたことも一度や二度ではない。

 
「理由付けをしないではいられなくなる」に「傾向」と付けるのが、楽山のボンヤリ言語です。
思い切って言って、後付けの語尾で、ぼかしています。
 

イワンが言いたいのは、こういう理由付け、意味づけをすることなく、事実だけを見ていたいということなのだろうか。もしそうであれば、これには自分も共感できそうだ。ただそうはいっても、事実だけを見て、解釈、意味づけ、理由付けなどを施さないというのは、言うは易し行うは難しであって、かなり難しそうではあるけど…。

 
事実を、いつまでも見ていることは、できないです。楽山が言っているのは、言葉となった事実の内容のことでしょうか。そうだとしても、事実を見ることを意識した時点で、解釈を意図していることになります。分からない、という悲しみが、まともな人間にとっては、いかに必然かということを、知るべきなのです。
 
>*私が神さまならみんな許してあげる

各人が持っている神のイメージは、自分自身をうつす鏡なのだろうと思うけれども、『カラマーゾフの兄弟』のグルーシェニカも、それっぽいことになってる。

 
シャロームのように、神のイメージが自分自身を映す鏡になることを、偶像崇拝というのです。
キリスト信仰では、神は、偽善者以外には寛容だが、人知を超えた、恐れるべき信仰対象です。
 

(引用)
わたしがもし神さまだったら、みんなを許してあげるわ。『わたしの愛する罪びとたち、今日からみなさんを許します』って言ってね。で、わたしはちゃんと許しを乞いに行きます。『みなさん、どうか、この愚かな女を許してください』って。
(『カラマーゾフの兄弟3』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.321)
(楽山)
人が「神とはこういうものだ」と言うときは、グルーシェニカと同様に「わたしが神だったら、こうする」と言ってるのに過ぎないのだろうな、たぶん。

 
たぶんじゃなく、女性は、まさに、そのまま、そう言っていると思いますが。
 

人が、相手の心を想像して、「彼はこう思ってるに違いない」と言うときは、自分の心を相手にうつしているにすぎないという見方があるけど、「神はこう考えるに違いない」という場合も、それと同じ構図になっているんだろう。

 
なお、私が神だったら、という仮定は、キリスト者においては、成り立ちません。その仮定は、行為以前に、神の全能と、人の意志と、一致もしないし、一致したかどうかの比較も出来ないからです。人が人を赦すのは、人として赦す以外にないのです。
 

で、自分がもし神さまだった場合はどうかといえば、とてもじゃないけど、グルーシェニカのようにはできなそうではある。グルーシェニカの言うことはひとつの理想だけど、自分にはなかなか難しそう。
ただ、アリョーシャはそういうことをすでに実践してはいるらしい。前の記事にも貼ったことだけど、作中にはアリョーシャについてこんな記述がある。
(引用)
アリョーシャという人間は、何があっても人を非難したりせず、すべてのことを赦していたのではないか――もっともそのおかげでひどく悲嘆に暮れることはよくあったが――とさえ思える。それどころか、だれかに驚かされたり動揺させられることもなかったほどで、こうした性格はごく若い頃から変わらなかった。
(『カラマーゾフの兄弟1』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳、光文社〈光文社古典新約文庫〉2007年、p.46)

 
だから、信仰の強さには、悲しみが付き物で、悲しみに共感することも必要です。それは、人間に備わっているはずですが、それを無視して、シャロームのように妄想や誇大的讃美を並べたり、楽山のように曖昧なボンヤリ言語の理屈をいくらこねても、信仰は分からないわけです。
 
「何があっても人を非難したりせず、すべてのことを赦していた」は、一見、立派そうに見えますが、偽善者を放置することにもなりかねませんから、神のように赦すことは、人には成り立たないのです。
 

ここを再読してみると、ひとを赦したことで、「もっともそのおかげでひどく悲嘆に暮れることはよくあった」という箇所は興味深いものがある。
自分は、「恨み心で恨みは解けない」という考え方を、ちょいちょい聞かされてきたので、人を恨んだり、裁いたりすることを止めてゆるしてこそ幸福になることができるというイメージを持ってる。だから、人を赦したことで、「ひどく悲嘆に暮れる」結果となるというのは分かり難い。

 
白々しい嘘だと思います。楽山が悲嘆にくれることの出来る人間なら、気に入らないことを無視できないはずです。また、人の話の中で自分に都合の良いところだけ挙げて、片落ちな判断やひいきなど、できないはずです。
 

人をゆるしても、悲嘆に暮れるものなのかな。それとも、アリョーシャは本当には人をゆるせてないから悲嘆に暮れたのかな。
でも訳文を読んでいると、ゆるすことについては、神が赦す、人が許すと使い分けているっぽい雰囲気はあった。

 
「かな」「分けてるっぽい」、とても不釣り合いな女言葉のように感じるボンヤリ言語。
 

とすると、グルーシェニカは「許す」で、アリョーシャは「赦す」となってるから、アリョーシャのそれは神寄りのようであるし、きちんとゆるせてないというわけではなさそうでもある。

 
神寄り、などと、どうやって判断するというのでしょう。人が赦すという行為には限界があります。許すべきではないときもあります。神は、偽善者以外、つまり、神の前で偽るもの以外は赦すでしょう。
 

やっぱり著者の考えは、人を心からゆるせても、それによって心は平安になるわけではなくて、「ひどく悲嘆に暮れる」ことにもなりえるということなのだろうか。
うーん、やっぱりよく分からない。この疑問はとりあえず棚上げかな。この手の疑問は、忘れないでいれば、そのうちに答えは見つかるだろうと思うので。

 
楽山は、悲しみが、信仰によって癒されて、神の平安に包まれうることを知らないようです。
 
また、シャロームは、コメント欄を閉鎖したを、神?の平安と呼んでいました。批判を書き込まれなくなったというだけの、無責任な自己中心の単方向に満悦しているに過ぎません。
 
>*イワンとメフィストフェレス

カラマーゾフの兄弟』の第五編では、アリョーシャは、去って行くイワンを見送りつつ、次のことに気づいたらしい。
(引用)
そこで彼はなぜかふと、兄のイワンが妙に体を揺らして歩き、後ろから見ると右肩が左肩よりもいくぶん下がっているのに気づいた。
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.301)
巻末の「読書ガイド」によれば、これは何らかの暗示であるらしい。
これは、何を暗示しているのか。アリョーシャの目の狂いにすぎなかったのか。それとも、実際にイワンの右肩は左肩よりも下がり、足をひきずるようにして帰っていったのか。ここも読者のみなさんには、実際に『ファウスト』をひもとき、ご確認いただくしかない。右肩の下がり、体の揺れ……。おそらく、衝撃的な発見に遭遇できるはずである。
(同上、p.499)

 
楽山は、長ったらしい文章を書くくせに、教える立場に立つ何様かのつもりが抜けないようで、親切な引用・解説もせず、リンクもつけないようです。(一応(2)に関連記事あり)
 
(ネット検索)
「右肩がおち、つまりは足をひきずっていると描かれるイワンは、やはり『ファウスト』の足の悪い悪魔、メフィストフェレスに重ねあわされている!
メフィストフェレスが足が悪いというのは私には読み取れなかった。この悪魔が足を引きずっているような記述ってあったのかな?アウエルバッハの酒場の場面でメフィストの片足が蹄になってるということはわかるし、その後も足が蹄であることは何度も描写されてはいるけれど。
とのことなので、『ファウスト』を確認してみると、「ライプツィヒのアウエルバッハの酒場」にこんな箇所があった。でも現在では差別語とされる言葉が使われているので、そこは伏字にさせていただきたい。
https://red.ap.teacup.com/coquelicot/66.html
キリスト教では「右」が尊重されています。例としては、キリストの十字架のときに、同時に処刑された二人の罪人がいますが、右側の罪人はその場で悔い改めて、キリストから天国に入るのを許されており、対照的に左側の罪人はキリストを侮辱しています。さらに、キリストの昇天後は、父なる神の右に座していると言われています。こういうことからみると、イワンの右肩が下がっているということは、キリスト教的な理想からは縁遠い姿を象徴しているんでしょうか。
https://qa.itmedia.co.jp/qa3691812.html
 
悪魔や宗教的由来などは、少しばかりの興味をいだくことあるかもしれませんが、人間の心に響くような共感できる話でなければ、楽山と違って、言葉だけで、衝撃的とはならないのです。
 
(2)につづく
 
 
(2019年05月24日)
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
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