ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

脅し?

 
  脅し?
 
 
宗教が
あるいは宗教を利用して人が
人を脅すというのは
例えば
このままでは祟りが来ますよ
といった文言で
おもにカルトにおいて
おこなわれることだろう。
 
人が人を脅すのではなく
神が人を脅すのでもなく
 
人は神を恐れるべきである
というのは
全知全能の御方と信じた神への
キリスト信仰の主軸である。
 
信仰者は人間であり
明らかに全知全能ではなく
神に比べて
はるかに劣った民であるから
神と人の関係を語る上で
神が上で、人が下
という節操を持たなければならない。
 
そのことを利用して
人が人を脅してはいけない
という指摘に対しては
 
まず批判が脅しと違うのは
根拠と理由をはっきり示すということであり
 
上に書いたような神を恐れるべき根拠と
記事に書いているような
批判対象が神を恐れない言動である
という根拠を示して指摘するにあたって
遠慮してはいけないということです。
 
また
人が批判してはいけないなら
人が神への恐れを言わなくても
神は人を叱って脅してくださるか
という問題になるが
 
言うまでもないが
神はひょいひょい顕れて
人を脅したり怒鳴ったり戒めたりはして下さらない。
現象としては
神は沈黙の神である。
 
神は基本的に
起こった現象の
どれが神の意志で
どれが神に逆らう意志であるか
人が推測はしても
神はいちいち正解を教えてはくださらない。
 
神と人の関係において
神は、人が恐れるべき存在
ということが信仰の主軸であるから
人が信仰を伝えるときには
この関係も伝えなければならない。
 
やさしい神だけでは信仰にならない。
 
これを私は
信仰の節操あるいは弁えと呼んでいる。
 
神よりも劣っていて
不完全で罪深い私たち人間は
直接神に訴えることは出来ない存在である。
 
神をどこかにいる人格者の
やさしいオジサンと思ってはいけない。
 
全知全能の神に対して
ご機嫌取りの讃美や
世辞の誉め言葉や丁寧さは通用しない。
 
正直さ以外は何も通用しないのが神である。
 
これが神への恐れであり
恐れると前に書いていたものを
畏れると書き替えてはいけない理由である。
 
その恐るべき神に祈るときには
愛のために命を惜しまない救い主
イエス・キリストの御名を通して祈っている。
 
キリストにおいて成就された救いとは
神への執り成しである。
 
したがって
神の前に不正直や
ましてや故意に嘘を吐くことは赦されないが
 
神の前に
あるとき隠したり嘘を吐いたりしても
別のときに罪を認め、悔い改める者を
神は見捨てたままにはしないし
その機会は一生を通して与えられている。
 
そこに神の
人の正直さに対する限りない寛容さが表れている。
 
このことが
キリストの負いやすいくびきであり
キリストの愛であり
キリスト信仰の芯となっている。
 
 
(2019年05月29日アップ)
 
脅し(おどし)
 
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