ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

決めつけは誰?(2)

 
  決めつけは誰?(2)
 
   人のことを決めつけてはいけない?
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41503450.html
   楽山のブログとコメント欄
   私の意見は、タイムスタンプのない意見が大部分で、
   記事を書くときに書き加えたものです。
   楽山とシャロームとの、議論は全く成り立ちません。
    結論が前提になっているからです。
 
 
(シャローム
欧米仕込みの反自然的な科学や人権意識はそういう美しい日本人らしいありかたをギスギスした関係にしてしまったという思いを自由さんは感じておられるのでしょうね。「文明と人間」の著者である志村さんもそういうことを書いておられました。表紙のカバーには次のような言葉が書かれています。
「科学・技術は未曽有の物質的繁栄や便利さなど、恩恵をもたらした。しかし、一方では画一的な価値観を産み、自然へのあくなき征服欲を増大させてきた。私たちは、多くのものを得ると同時に、多くの代価を支払ってきたのではないだろうか」と。
 
(私)
こういうことを、全か無の、全で語るのが、シャロームの特徴です。ゆえに、実際、全か無の、全で、自作の無罪妄想教理も決めつけているのは誰?・・つまりそれはシャロームです。
 
(シャローム
現実に文明の交流は衝突でもあり、世界的規模でグローバル化していく今日の世界にはそういうカルチャーショックはこれから誰にも避けられない時代でしょうね。
 急速に息苦しい時代に向かっているのは確かでしょう
2019/3/14(木) 午後 10:17 [ shalom ] 返信する
 
(私)
一人前の評論家と言われたいシャロームの発言ですが、彼は、本を読んでも、聖書を読んでも、自分が斬られていることに気づかないゆえに、何の反省もしない人です。

 
(楽山)
その辺りについては、自分の場合はそれほど整理されてないかも…。
 古を尊ぶ気持ちはあるけど、身分差別の封建時代よりは、四民平等の民主主義の世の中の方がいいし、でもポリコレとかいうやつにはうんざりすることもある。差別撤廃を目指すのはいいけど、積極的格差是正措置は逆差別になってるようにも思える。人権尊重は正しいのだろうけれども、人権は政治的な目的を達成するための手段、口実になってることも少なくないようだし、ここは警戒が必要…大体こんな感じかな。
2019/3/15(金) 午前 7:10 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(ネット検索)
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、性別・人種・民族・宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正・中立な言葉や表現を使用することを指す。「政治的妥当性」、「政治的公正」、「政治的適正」、「政治的正当性」、「政治的正義」などの訳語も使われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9
 
(私)
ポリコレに、うんざりすると言いながら、警戒を呼びかけながら、・・感じかな、で済ませて、自らの理解についても公正の解説をしない楽山です。ではどうすればよいか、という説明ができないなら、悪口の憂さ晴らしに過ぎなくなるということも知らないようです。
 
(楽山)
あと最近の洋画では、一つの映画にいろいろな人種の役者を遣ったりしてるけど、これってなんか画面が落ち着かないですね。統一感のある作品を作ろうとする場合は、この点、再考の余地はあるのではなかろうか。
2019/3/15(金) 午前 7:11 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
このように、悪口だけ言っているような、楽山自らが再考の必要があるのです。
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん おはようございます
「四民平等の民主主義ですか?!不思議な言葉ですね。
 積極的格差是正措置は逆差別になってるようにも思える。
 人権は政治的な目的を達成するための手段、口実になってることも少なくない。」
 政治が絡むと怪しげな言葉が独り歩きしてしまうようで
薄気味悪いなとは感じます。
 
(私)
私は、偽善を改めないくせに、偉そうなことを言うシャロームに、濃厚な気味の悪さを感じます。
(私)
シャロームの好き勝手放題の豪語が始まっています。誇大的に主題の観念が奔逸してゆくのが特徴です。
 
(シャローム
 最近の映画をあまり見ませんので、わかりませんが、
アメリカ映画にはだいぶん以前から登場しているようですが、いろいろな人種の役者を使うと画面が落ち着かなくなるという意味が分かりませんし、統一感のある作品をつくるのに差支えがある?再考の必要があることもわかりませんね。
 私にはかえって良い作品になる可能性があるように思いますが、
 映画愛の強い自由さんと私の映画に対する思いが違うのかもですね。最近日本の映画やテレビドラマ、テレビにも登場していますが、なんとなくわかるような気もしますが。
ますます日本在住のいろんな国からの外国人が多くなると思いますが、一時滞在の観光ではなく、日本に在住していると住みづらさ、息苦しさを感じる人も多いのではないかと思います。
2019/3/15(金) 午前 9:31 [ shalom ] 返信する
 
(私)
逆に、誰に向かっても受けを考えるシャロームに、返されています。
しかし、差支えがある、最高の必要、と言いながら、かえって良い作品になる可能性、と言って、結局、楽山を真似て、さらに両極端を行ったり来たりしています。判断をする前のバラバラのまま書いてしまうというシャロームです。さらに、違う、と言って、わかるような、と言っています。
(私)
そして、ここだけで、発展性のない、日本在住の外国人の住みづらさ、息苦しさ、と書いて、思いやっている自分をインスタント食品のように出したがるシャロームなのです。
 
(楽山)
そこは微妙な話ですけど、アメリカ映画ではいろいろな人種の役者が出てるけど、アジア系が出ると何となしに浮いて見えることがあるということです。物語の流れとしての必然性があるなら違和感なく見れるけど、そうでなくてさほどの必然性もなく、唐突に出てくると、なんか浮いてると…。
でもまあ、これは慣れの問題であって、そのうち何ともなくなるかもしれません。
2019/3/18(月) 午後 7:20 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん
何となしに浮いて見える
 なんか浮いてると…
自由さんのいつもの簡潔なコメントに2回も“浮いて”という言葉が浮いていますね。
アジア系の人は欧米系の物語の流れの表現の仕方、感じ方、とらえ方とはそぐわない異質性があるのでしょうか。
それは自然、風土、宗教の異質性に関係しているのかもしれませんね。
2019/3/19(火) 午後 6:52 [ shalom ] 返信する
 
(私)
顔貌や皮膚の色や言語の違いからくる印象の違いと多様性を消化しきれない楽山ですが、先入観かもしれないことを、対象についてだけ、なんか浮いてる・・と書いています。浮いているのは楽山ではないかと思います。
(私)
シャロームは、どんな異質性を考えているのでしょう。自然、風土、宗教の異質性と言って、また異質性で済ませています。この異質性は、違っている、というのと変わりないわけです。説明になっているかどうかを考えず、よさそうなことを並べているだけのシャロームです
 
(楽山)
まあその辺りのことは、上にも少し書いたとおり、時間が解決するのかもしれません。
 
(私)
子供じゃあるまいし、そういう映画を、いつから見ているつもりでしょう、長く続いているということでしょう。解決するべきは、楽山の心と時間なのです。
 
(楽山)
ところで、shalomさんはブログをどうするかお決めになられましたか。
 自分の方はいまだにどうするか悩んでるところです。
2019/3/19(火) 午後 7:58 [ 楽山 (自由) ] 返信する
(シャローム
> 楽山 (自由)さん
 ささやかな発信は続けたいと思っていますが、
 信仰という発信内容についてブログによる発信に疑問を感じておられる人もあるようですし、たしかに文字だけでの伝達にはかなりの難しさがあり、わかるような気持ちもあります。できるだけ人と顔を合わせながら言葉を交わすことが一番いいとは思いますね。そのほかの発信方法についてはあまり知りませんし、提示されているブログへ引っ越すかどうかも決めてはいません。
2019/3/19(火) 午後 9:12 [ shalom ] 返信する
 
(私)
ささやかな発信と言っていますが、シャロームは、不都合な湖面を削除して、コメント欄を閉鎖していて、ここ何日か、コメント欄が開いているのですが、私のコメントだけ未承認のままです。まだ消さないのは、消すとまた記事になるからでしょう。また、過去記事から、批判されたシャローム自身の記事を削除しているようです。
(私)
どこまでも、隠れて、削除によって、批判されたことの隠蔽偽装しかできないシャロームです。このように、シャロームの発信は、陰気な権威主義によるもので、悪い政治家みたいであり、ささやかな発信は、またしても、言葉だけの嘘です。それで、反政権の記事の転載などをするのですから、シャロームの偽善性は救い難いものになっています。
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん
「これは慣れの問題であって、そのうち何ともなくなるかもしれません。」
「その辺りのことは、上にも少し書いたとおり、時間が解決するのかもしれません。」
 映画に限って言えば、慣れや時間によってある程度解決できるかもしれませんね。
でもこれからますます海外から仕事の担い手だったり、留学や観光のためにたくさんの人が来られると思いますが、日本における現実問題として考えると、そう簡単ではないような気がします。日本教は日本人にとって自覚され、コントロールできる宗教?ではなく、とても柔軟性があるようですが、それは異質なものを取り込み、日本教に同化させるための柔軟性、というより懐柔し同化するためで、それができない異質なことはあるがまま受け容れることを拒絶し、排除してしまうようですから。
 平成の次は○○維新という日本人の心の開国ができるかどうかを問われる時代の始まりといえるかもしれません。
日本教社会学」にはこのあたりのことについて書いてあるようです。今第二部5章を読んでいます。
2019/3/19(火) 午後 9:57 [ shalom ] 返信する
 
(私)
評論家気思想家気取りのシャロームの憂慮みたいな文章ですが、ベースとなる思想が幼稚な妄想教理ですから、背伸びして、奔逸し、誇大化して、ひっくり返った有り様だと思います。それで、○○維新まで及びます。理路に、文脈がなく、ただ日本の悪口に過ぎなくなっています。
(私)
日本教は、このころにシャロームが読んだ本ですが、前にも書いたように、シャロームは、政治ブログなど他者に本を勧めながら、自分が斬られていることに、やはり気づいていないのです。それは、全く、自分振り返って内省する心がないからだろうと思います。無反省に人を責めるだけのシャロームです。
 
(ネット検索)
日本教(にほんきょう)とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。
山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので・・、・・、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99
 
(私)
シャロームは、やはり、ボロクソ節に表れているように、憂いをいだいているのではなく、日本に敵意か怨念をいだいているように思えます。絶対者を知らない日本教徒を批判するのであれば、シャロームと楽山で褒め合って慣れ合っているさまは、広がれば、まさに、シャローム・楽山教とでも呼ぶべきものです。しかし実際は、成りすまし疑惑もあり、作為的にやっている可能性もあります。
 
(楽山)
>信仰という発信内容についてブログによる発信に疑問を感じておられる人もある
 この問題は、幸福の科学でもありますね。
ネット上で声が大きい信者さんって、自分教の人が多いんですよね。
 教義解釈が我流すぎたり、ネット上では偉そうなことを言うけれども現実には支部にも行かず、全然活動してなかったり、そのせいで教団の実態には無知で、自分のイメージだけで語ったり…。
こういうのは、真面目にリアルで活動している信者さんからしたら、あまり愉快ではないだろうなあとは思います。
2019/3/21(木) 午前 8:51 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
シャロームからの信仰?の発信は、疑問というより、真っ赤な嘘だと思っています。我流というより成り立たない自己無罪妄想の教義解釈がベースだからです。つまり、シャロームの宗教?は全くの自分教の妄想であって、キリスト教ではなく、信仰?の方向が完全に逆方向で、反キリスト信仰だからです。
(私)
その信条は、自己保身中心妄想で、神の御名を悪用しているのです。誰にも読んでほしくない宗教妄想だから、批判しています。今の自分教の信条を捨てて、悔い改めない限り、誰の信仰にも人生にも有害です。今のままで、シャロームが愉快になることは、あってはならないことです。
(私)
楽山の、アドラー心理学を利用したアドラー教は、完全自己中心を勧めるもので、気に入らないことを無視して生きることです。そういう生き方を皆が見倣えば、勝手と勝手が、結局、我慢ならなくなって衝突するしかありません。
(私)
このように、カルトのひどい説教については、皆が信じたらどうなるか、ということを考えてみると、おかしいことばかりになる、ということも、シャロームと楽山については言えることです。
(私)
ただ、成りすまし疑惑もありますから、本当は、本気で信じてなどいないのかもしれません。サディスティックな趣味で人が困るのを見て楽しみたいのか、あるいは、何かの陰謀なのか、そこまでは分からない現状です。
(私)
ただ、どう考えても、
決めつけて、故意に人を貶めているのは、シャロームと楽山のほうなのです。
 
(私)
かたよらない、やさしそうな、やわらかそうな、バランスのとれているような、中庸のような、楽山の筆致は、そう見せかける作為の受け狙いの筆致です。ボンヤリ言語と呼んでいます。
(私)
シャロームをコメントで批判していたとき、裁判じゃないのだから証拠不十分はどちらとも言えないのにもかかわらず、楽山は、シャロームの味方し、シャロームのことを、熱心な信仰だと、キリスト者でもないのに言いました。
(私)
この時点で、楽山がずっとシャロームの味方をするであろうことを察知して、以後、信頼できないと告げて、直接の交流を断ち、批判しているわけです。以後、相変わらずの、ごまかしの筆致であり、何も変わりはありません。通用すると思っているようです。読者をなめています。
 
 
(2019年06月17日、同日一部修正)
 
中庸(ちゅうよう)
狙い(ねらい)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
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