ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

無関心ぶり

 
  無関心ぶり
 
   神学論争って・・・
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41550758.html
   楽山のブログ
 
 
何の議論も論争もせずに、関心が薄れたと書いている楽山ですが、今までの経過からは、先ず、正常な議論をする気がないと思います。やんわりやんわり自分の言いたいことを刷り込んでくるだけなのです。
 

実を言えば自分は、宗教の教義論争は、けっこう好きな方ではあった。
でもさすがに最近はそれほど議論はしなくなった。
こういうことは事実を確かめようがないし、
それなら、ああだこうだ議論しても仕方ないなと…。

 
事実を確かめようもないのは、宗教の超常部分だけを見ているからです。
楽山が、宗教について、そういう関心しか持っていないことが表れています。
楽山の中では、宗教=超常、ということなのです。これは大きな間違いです。
 
例えば、キリスト教においては、キリストと救われた人々の交流に焦点を当てれば、多くの違ったことが見えてきます。つまり、私たちは、人間として受け取れることを見るべきなのです。
 

自分なりの宗教観、人生観などはないこともないけど、
それについて、自分のそれは正しく、お前のそれは間違っているとか、
そういう議論をするほどの情熱はもてない。
ようは、年を取ったので、その手のことに対する興味関心が薄れたんだろうな。

 
こういうボンヤリ言語で楽山が言いたいのは、是々非々を言うな、ということです。そうして、楽山は、アドラー教を広めたいか、または、別の怨念宗教を広めたいのでしょう。
 
言っておきますが、人が、物事の是々非々を考えなくなったら、人類は、おしまいです。
 

なーんて書きつつも、
先日読んだ飲茶の『14歳からの哲学入門』(河出文庫)は面白かった。
哲学音痴の自分でも、分かった気分にさせてくれるほど、平易な文章で書いてくれてたのでよかった。

 
「なーんて」・・楽山がしばしば使うオトボケは、ボンヤリ言語のひとつです。やさしい印象を与えたいのでしょうが、わざとらしいので、嫌味になります。しかし、こういうのを、真に受ける人は多いのかもしれないので心配です。
 
楽山は、「分かった気分」だけしか持っていないと思いますし、楽山が与えるのもそういう気分だけでしょう。少なくとも人生の助けになったり、救いになったりすることはないのです。気に入らないことは無視するという信条は成長を拒否しているだけですから。
 
 
神学論争って…というタイトルですが、結局、神学論争なんかするな、と言いたいのでしょうか。
 
私は、信仰について書いています。聖書は全部読んだわけではないけど、受け取ったものはあるので、その範囲で書いています。神学は殆ど知りません。だから、神学論争という名で語られることは知りません。神学論争は、神学者がするのだろうか・・くらいにしか思っていません。
 
成りすましが疑われる3者について書いておきます。別人であろうと、同一人物の成りすましであろうと、何らかの異常人格が疑われます。精神病は、薬物療法と精神療法が有効ですが、人格障害には効かないようです。
 
シャロームについて:
 世辞と丁寧語、そして自説妄想を並べ立てる、罪を認めていない、悔い改めをしない、それで、敬虔なキリスト者気取り、誇大的妄想的豪語による、造語を交えた幼稚な信条を持つが、決してキリスト者ではない。平気で嘘を吐く。総てが嘘とも言えるだろう。逆らったら、はぐらかし、言い逃れ、嫌がらせ、削除、根拠もなく誹謗中傷、そして無視。妄想的人格が想定される。私は、サイコパスと言ったことがある。
 
易坊について:
 最初は、やさしげな丁寧語、そして自説妄想というより、博識気取りの自慢を始める、逆らったら罵詈雑言。サディスト的人格が想定される。相手が従順なあいだ好意的だが、逆らうことを許さない。罵って相手が苦しむのを喜んでいるようだ。私は、サイコパスと言ったことがある。相手が慌てるのを悦ぶサディストとも言えるかもしれない。
 
楽山:について:
 ああでもないこうでもない、ボンヤリ言語の丁寧語、わざとらしい卑下、しかし、人の言うことを本気で聞いたり肯定することがないので、気味が悪い。アドラー心理学を利用したらしいアドラー教を信じているが、本当に信じているかどうか、他に企みがありそうな、いかにも、わざとらしく中庸を気取った文章を書いてくる。次の段階がありそうである。印象操作と刷り込みを手段としている。
 
3者に共通するのは、悲しみを表すことが出来ない、悲しみを知らない、悲しまない、悲しむ心がない。そして全能感に満たされている。訂正不能、不感不応、自己中心で、快と不快、ゆえに、笑いと怒り、ゆえに、嘲りと怨念しかないように思える。しんみりさせる深みがないのです。
 
シャロームも、楽山もこの記事のように、神学論争など出来ません。私も、神学論争は出来ません。神学者ではないから、知識が不足しているからです。私は、信仰の心について、どうあるか、そして、どうあるべきかを、書いてきたつもりです。
 
神学は人の学問で宗教の糧となり、宗教は信仰の土台のようなものです。その2つが直接人を救うわけではありません。人を救うのは、神と個人との関係であり、キリストの心と信仰者の心の絆であります。それは縁であり愛なのです。
 
したがって、その心に真っ向から反するような信仰の感じ方と考え方は、絆の縁と愛を否定することですから、それを批判するのは当然のことなのです。シャロームと楽山の言説は、いずれも大きく的を外しています。
 
ですから、楽山が、神学論争しても仕方ないと言うのは、信仰について議論や批判をすることには何の影響も持たないのです。そこをわざと混同して、批判に婉曲的に当てつけてきても、批判しても、実際は、いちゃもんをつけていることにしかならないのです。
 
 
(2019年06月19日)
 
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