ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰について

 
  信仰について
    まとめのようなもの
 
 
キリスト信仰について:
 
まず
旧約聖書新約聖書から
信仰の分別、節操、弁えと言うべきものがあります。
 
神は、創造主であり、全知全能で完全であるが
人は、あらゆる点で不完全であり、罪を犯す性質を持っている。
 
しかし、神は罪の性質だけを人に与えたわけではない。
創世記の話には、神が、良き創造を為したことが書いてある。
それが、神に答えられる心、すなわち、良心である。
 
そして、良心は、正直であろうと努めるのである。
そのおかげで、この世界は、まだ滅びてはいないし、
神もアダムとエバ以来ずっと人を見捨ててはいない
という神の愛の寛容を示す聖書の大きな文脈がある。
 
創世記:
神は見て、良しとされた。(1:21)
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。
(1:31)
 
 偽善者、偽キリスト者は、
 そこを曲解して
 神がよい創造をしたのに、アダムとエバが悪魔の誘惑に乗ったために
 罪を犯し、悪魔に支配を渡してしまったと
 アダムとエバのせいにしてしまう。
 そして、自らは、罪を認めず、悔い改めもしないのである。
 恐ろしいことに、ほぼ100%不感不応で、不都合を無視できる者がいる。
 
誤解しないようにしてほしい。
アダムとエバ失楽園は、総ての人間の今の姿である。
 
神は、全能者そして絶対者で、その姿や、その意志を、
人に、分かりやすく、いちいち教えながら、ことを進めることはない。
 
人は、神の意志を知るとか、分かるのではなく、
信仰によって推測して、行ない、思い込みを避けるために決めつけず、
その経過と結果を、正直に神に捧げるのである。
 
前にも書いたように、正直さ以外は、神に通用しない。
 
間違いや嘘を言ったときには気づいたときに、
その罪を正直に告白し、悔い改めることが必要である。
 
今も、世々の信仰者たちも、多く、罪を犯した。
そして、その罪を認め、悔い改めの告白をし、神によって赦されて生きた。
 
神から救いの約束を反故(ほご)にすることはない。
それが、神の愛の寛容である。
 
 
キリスト・イエスは、救い主である。
神の子とも呼ばれ、神聖なる御方である。
 
私たちは、聖書によって知るほかはないが、
キリストは、人間を鋭く洞察する能力を持ち、
同時に、人間の肉体を持ち、人間に深く共感できる人間性をも持っておられる。
神性と人間性を両方持って、人間のために、命をささげた。
 

どうすれば救われるかについて聞かれ、
キリストが何度も言っているのは、
神に従い罪を犯さないようにするということを思い込みやすい人々に対して
 
例えば次の聖句
情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
(マタイ5:28)
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
(マタイ5:44)
 
ここを勘違いしてはいけない。守れという教えではない。
守れば救われると言う教えではない。
できるだけ守りなさいと言う道徳でもない。
 
ここまで厳しい教えをキリストが言うのは、
これでもお前たちは守れると言うのかという意味を含んでいると思う。
すなわち、守れないことを承知の上である。すなわち
 
罪なき者は一人もいない。
ゆえに、総ての人は、正直な告白と悔い改めが必要だ
という教えである。
 
キリストの愛の限りない寛容さを
厳しい戒律つまり守るべき掟にしてはいけないし、
できるだけ守りましょう、という安い道徳にしてはいけない。
 
正直な祈りだけを救いの条件とする寛容さと、
裏切りを承知の上で十字架につくほどの限りない愛を示している。
 
善行は、信仰の経過と結果に過ぎない。
だから、いかなる罪人も、十字架上の犯罪人も
正直な告白ゆえに救われたのである。
私たちは、聖書において救われた、このような人々以上ではない。
 
 神とキリストの超常の偉大さだけを
 これ見よがしにベタぼめで大仰に讃美しても、
 自分以外をボロクソに言って、自らを振り返らない者は、
 罪の自覚が生まれず、救いの道筋が成り立たない自己中心に凝り固まり、
 自ら救いを拒んでいることさえ気づかないまま外れてゆくのである。
 
 何でも受け入れて悦ばせて信じ込ませたり
 罵ったり脅したりして従わせる者は
 ほぼ間違いなく偽善者です。
 
人生の経験の中で、
聖書を通して、このキリストの愛に触れた人間は、
キリストに絆(ほだ)された者であり、
その縁ゆえに、他に救いを見出せず、
他にないから、キリストの名によって神に祈るのである。
 
 
イエス・キリストによって導かれる信仰は、
 
絶対の神に対する人の不完全と罪の自覚であり、
(信仰の節操の認識)
 
人の罪の悲しみにもかかわらず、
イエス・キリスト
人を知り、人を見抜く洞察力と、
人のために命を捧げるほどの
人に対する限りない慈しみと共感によって、
(信仰の情感の感受)
 
祈りにおいて正直であろうとする心を持ち
悲しみに濡れる時も
癒やされる温もりの時も
キリストの同伴のもとで祈ることのみに
救いの希望をいだき続ける生き方の道であります。
(信仰の忍耐と同伴)
 
 

神は、異教や無宗教の人々について
同じような正直さ、謙虚さ、心貧しさを持っているかどうかを見られるでしょう。
神が、良心を持つ人々を、キリスト者ではないからといって見捨てるとは思えません。
また、キリスト者とは別の役割を与えている可能性を除外できないからです。
 
 
(2019年06月20日、同日一部修正)
 
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