ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

的外れの引用

 
  的外れの引用
 
   議論が荒れる理由 (人格攻撃はよくないということ)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41556619.html
   楽山のブログ記事。
 
 
楽山、シャローム、などの偽善者の、言い訳めいた詭弁に利用されやすいのは、聖書の言葉、名のある人の発言と思想、などです。今回は、後者のようです。キリスト教関係の人でしょうか。楽山は悪用で、柔和を装う作為の虚言を続けるつもりのようです。
 
>(引用)
*人格攻撃
わたしは多くの論争を見聞きしてきましたが、とくに、インターネット上で行われる論争では、しばしば続行不可能な状況に陥り、閉じなければならなくなった掲示板もいくつかあります。なぜ、これらの論争は続行不可能となっていったのでしょうか。それは、批判が、意見や思想ではなく、人格攻撃に向けられたからです。批判が、意見や思想にではなく、人格攻撃に向けられれば、啓蒙のための論争とはならず、愚鈍なケンカになってしまいます。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/n027.html

 
人格に問題があれば指摘することになります。議論の成り立たない相手に対しては、論争ではなく批判をします。批判は、攻撃ではなく、抗議であり、不正の指摘であります。
 
喧嘩と批判の区別が出来ない楽山は、自身が批判されることを、根拠もなく愚鈍な喧嘩と見なして、他者の言葉を、その範囲も分別せずに、批判者に当てつけています。後で、批判に対してじゃないよ、とでも言うつもりだからでしょうか。楽山は、正当な返し方をしたことがないので、わざと的を外した当てつけをしてきます。
 
楽山は、批判されても動じない姿勢を示したいようですが、批判に対する正当な反応は、弁明と反論か、訂正であります。 
 

佐倉哲さんのページを読んでいたら、上の文章があった。これは本当にその通りだと思う。議論は、人格攻撃が混じると、売り言葉に買い言葉といった具合に、荒れに荒れて収拾がつかなくなりがちである。だから実のある議論のためには、人格攻撃は止めた方がいい。

 
一般的に、人の言うことに全く反応しない者というのは、相手の神経を逆なでするために、喧嘩を招く原因となることもあるでしょう。小姑のいじめのように、うじうじ遠回しな言い方をする楽山はその陰湿な攻撃の例です。しかし、喧嘩は喧嘩であり、批判は批判なのです。
 

ただ、かくいう私自身も、人格攻撃はよくないと思いつつも、ついついそこに踏み込んでしまうこともあるのだから情けない。ここは、よくよく気をつけねば…。

 
根拠を示さず、相手を指定せず、当てつけるのも、狡猾かつ卑怯な人格攻撃です。楽山は、善人ぶりながら、攻撃しているのです。そして、また、一般的な、気をつけねば・・というボンヤリ言語で済ませています。こういう言い方だと、結局、言うことに実(じつ)がないので、お仲間以外には、誰にも信用されなくなるでしょう。
 

宗教は、もともと、人の心の問題を扱うものであるせいか、議論では、相手の意見だけでなく、その心掛けにも批判の矛先が向かうことが多くなる傾向はある。
たとえば宗教の議論では、「あなたは傲慢だからいけない」「謙虚でないから真理が分からないのだ」という類の発言が飛び出してくることはそう珍しくはない。ときには、「信仰心がない者は、人というより、獣だ。悪魔だ」という具合に、相手を悪魔呼ばわりする人さえいる。

 
心掛けを批判するなと言っている楽山ですが、心掛けには考え方が表れ、考え方には心掛けが表れてきますから、楽山は言葉を変えれば違うと思い込んでいても、同じことです。
 
そうやって、楽山は、批判を不当だと言いたいのでしょう。しかし、結局、楽山は、罵詈雑言の例を挙げて、自分は好きなように書くが、批判はするな、という身勝手なことを言い張っているだけなのです。
 
つまり、楽山は、柔らかく言っているようで、実は、批判を根こそぎ否定しているのです。自分がされているからでしょう。いつもながら、とても、いやらしい言い方をします。これが、人格攻撃は良くないと言っている楽山の正体なのです。
 

宗教の議論で、容易に人格攻撃が紛れ込んでくる原因は、人は〇〇でなければならぬという戒律だとか、悪霊悪魔などの目に見えない邪悪な存在を信じているところにあるのだろうけど、ここは特に注意が必要だと思う。

 
また「注意が必要だと思う」という、具体性のない曖昧な言い方で、柔和を装っています。
 
人のあるべき姿を語るのは議論であり批判であります。それを「人は〇〇でなければならぬ」と言うのが戒律だから、悪魔信仰だから、人格攻撃にが紛れ込んでくるという根拠のない理路で言っています。
 
楽山の自己中心の信条は、人間を破壊するからカルトだということであって、戒律のように決めつけることも悪魔信仰のように超常や魔界を根拠にもしていません。
 
楽山のボンヤリ言語の当てつけは、決めつけの前提を、オブラートに包んで、悪意を善意に見せかける詭弁ですから、注意深く読まないといけません。いつもながら白々しい印象操作です。

 
総ての言論には「と思う」が付いているわけです。だから、間違っていると思ったら、決めつけではなく、悪口や当てつけや嫌がらせでもなく、弁明か反論を返せばいいのですが、楽山は、仕返しをして、自らは、丁寧な言い方をする人と思われたいのでしょう。そういう作為の文脈です。
 
気に入らないことは無視する、というアドラー教の信条で、人を無視してきた楽山が、悪霊悪魔という邪悪な存在、と言うとき、私は、悪魔が、逆に、誘惑するときの狡猾さを思います。
 
悪霊と悪魔は、超常に限らず、言ってみれば、いたるところに、悪意と作為と嘘という表れ方をしているのです。自分に悪霊悪魔など関係ないと慢心しているものほど、悪と罪を、悪霊悪魔という超常に擬して、注意が必要、と言って済ませるのでしょう。
 
ボンヤリ言語の当てつけも、印象操作も、楽山が柔和で正しいと思わせるための、誘惑のようなものです。終わりが、注意が必要、で終わっているのも、具体的には何も書けないから、印象を与え、ほのめかすしかないからでしょう。
 
印象操作と、真っ当な意見や批判との違いは、根拠があるかどうかです。また、真っ当な意見や批判は、曖昧な言い方をできるだけ避けます。批判対象だけでなく、読者にも伝えたいからです。
 

*人格批判に対する反論
「いや、わたしの人格は立派です」などという内容の反論は自己矛盾ですから、人格攻撃に対する反論は始めから不可能なのです。そうなれば、攻撃し返すか、ばからしくなってどちらかが、「反論できないから逃げるのだろう」という声を背中に聞きながら、引き下がる以外に出口がありません。

 
冷静であることも、ある程度は出来るでしょう。人格攻撃をされたら、人格攻撃をしていると言うことも、ある意味、返しにはなるので、むしろ、繰り返し、相手を特定して言うべきでしょう。しかし、向けられた批判に対して、人格攻撃を返してくる者も、悪い印象を与えて貶めようとする者も、曖昧な書き方で当てつける者も、実際いるということです。楽山やシャロームのことです。
 
楽山は、この記事で、批判者を、人格攻撃をする者と同様に、当てつけています。直球が理路の欠陥のために投げられなくて、やわらかくて滑りやすい物を、そっと道に置くようなものです。とても陰険な「人格」だと思います。
 

これもその通りだ。人格攻撃に反論しようとすれば、「私の人格は下等ではありません」「私は善良な人間です」という主張をせざるを得なくなる。自分で自分の人格を擁護するなんて恥ずかしくてやってられない。結果、人格攻撃は聞き流すしかなくなる。

 
楽山は、議論だけでなく、言葉の持つ効果も正当性も知らないようです。「私の人格は下等ではありません」「私は善良な人間です」などと、滑稽なことを言い張る必要は全くありません。楽山はそういうことをしてきたのでしょうか。
 
批判は、悪を向けられたとき、その悪に根拠がなければ、根拠なく悪と言っている、また、そこに何らかの悪意を指摘するなど、という返しがあるのです。最近もシャロームに対して、それをしましたし、ずっと、それを、先ず言うことが必要な、シャロームと楽山なのです。
 

「反論できないから逃げるのだろう」というのは、議論の終わりによく聞く言葉ではある。自分の場合は悲観的な方なので、反論が無かったら、「愛想つかされたかな…、相手にされてないかな…」などと思うのだけども、巷には「俺の意見が完璧で、反論できないから逃げた」と考える人もあるようで、世の中には本当にいろいろな人がいるのだなと思う。
でも、そんな風に「反論できずに逃げた」と嘲笑されても、何も言わずに立ち去るというのは大人の対応のように思えるし、自分もそんな風になりたいものである。

 
いえ、楽山の逃げ方は、逃げながら、当てつけ、ほのめかし、刷り込み、印象操作、など婉曲的な、情けない嫌がらせを続けていることだと思います。
 
「何も言わずに立ち去ると言うのは大人の対応」というのは、相手が、感情的になって、何も聞かず無視していて、自分の言い分をねちねち言い続けるなど、何を言っても無駄で、そのときに疲れて感情的に反応しそうな時だと思います。楽山のように、何も答えないで、自己正当化するのは醜いです。
 
楽山とシャロームは、不感不応の無視によって、まさに、疲れさせて、去らせる、という、やり方をずっと続けているのです。私は、もうしばらくは、書いてゆくつもりです。
 
例えば、私の場合は、長くはないだろうが、死ぬまでの間、PCに向かえる間、動機次第で書くでしょう。鼻が曲がりそうな、あちこち痒くなりそうな、マイナスの刺激で、楽山とシャロームは、結局、反発の動機を与え続けているのです。
 

*人格攻撃に対する対応
ちなみに仏陀は、人格攻撃に対して、次のように対応したという。
悪口雑言を受けたブッダが、「出した食事に客が手を付けなければ、それは主人のものになるしかないように、向けた怒りを相手が受け取らなければ、それは本人の元へ戻り、本人のものになるしかない」と言ったという有名な話がありますが、これは本当にそういうものだろうと思いますね。
https://twitter.com/neetbuddhist/status/920792963881451521

 
楽山みたいな人は、議論の場では、ここに書いているような、曖昧で、ああでもない、こうでもない、という口調で、いちばん相手に疲労を与えるから、いちばん憎まれ、怒られ、結局、のちに関わろうとしても、結局、誰からも相手にされなくなってゆく典型のような気がします。荒らしの易坊は、まさに、そのような道をたどっています。
 
偽善者の出した柔らかそうな食事が、猛毒を含むものであったなら、結局、食事に偽善の毒の臭いが表れて、相手が手を付けなければ、毒入りの食事は、気に入らないものをすぐ無視してしまう偽善者の食事となるのでしょう。自業自得は、結構、実現することが多いです。毒を逆に食らっても、自覚なく、中毒に溺れながら壊れてゆくのが、楽山とシャロームだと思います。
 
また、逆に言えば、批判に相手が真摯な対応をせず、ボンヤリ言語でごまかし続けたならば、より粘り強い批判が必要になるという必然を、尊大な楽山は与え続けているのです。
 

もう一つ、こういうページもある。
・その悪口はきみのものだ
これは若干、嫌味っぽい感じがしないでもないが、言わんとすることは分かるように思う。

 
シャロームは、先日、反論も弁明も出来ないときに、自分に向けられた言葉を、根拠もなしに、こちらに向けてきました。また、別のときには、これも根拠も示さないで、そっくりお返しします、などと書いてきました。
 
2つとも、それ以前に、私が根拠をいっぱい書いた後で、おかしなレスを書いたシャロームに対して、使った言葉なのです。根拠があるなしで、批判にも、悲惨にもなる言い方です。
 

ちなみに、これとは違った切り口では、こういう言葉がある。
ものいえばくちびるさむしあきのかぜ【物言えば唇寒し秋の風
芭蕉の句。人の短所を言ったあとは寒々とした気持ちに襲われる、の意〕転じて、うっかりものを言うと、それが原因となって災いを招く。口は災いのもと。

 
唇が寒いと気づくのは、芭蕉の優れた感性による自己洞察であり反省なのです。
 
それを書かないで、また婉曲的に、楽山は、口は災いのもと、つまり、災いの原因だから、批判するなと、言っています。楽山の引用と当てつけの対応が、すさまじい作為と悪意となるところです。軟派カルトの脅迫とも受け取れる、楽山の本性を表すものだと言っていいでしょう。
 
うっかりものを言うと・・と楽山は書いていますが、これこそ、口は災いのもとである例として、楽山に対して文句を言うのは、うっかりものを言うことだと決めつけています。楽山の、自己中心の尊大さが表れています。
 

大辞林 第三版の解説
人のことを悪く言ったあとの嫌な気持ちというのはよく分かる。やはり、人格批判にしろ、人格攻撃にしろ、そういったことは人のためにも、自分のためにも止めておいた方がよさそうではある。ここは議論に熱くなってくると、自分も失敗しがちなところなのでよくよく反省せねば…。

 
つまり、言うな、批判するなと、嫌なことになるぞと、遠回しに、脅しながら、・・自分のことですよ・・、と誤魔化して結んでいるのです。よくもまあ、口が減らないものだな・・と思います。
 
人格批判は人のためにも自分のためにもやめたほうがよい、と言っています。他でもなく、楽山の、自分に向けられた批判を総て不当な人格批判だと決めつけての、自身が楽でありたいだけの詭弁です。
 
やむを得ない場合、つまり、放置したら自己中心が蔓延する必然のある自己中心のアドラー教ですから、できるかぎりの批判をするべきなのです。
 
批判するべき人を批判するのは、その気のある人に限られます。その気にならない場合は、批判したら、かえって批判にボロが出て、批判対象の思うつぼなので、やめたほうがいいです。
 
最近、反省と言う言葉が見られます。しかし、このような当てつけの記事を書き続けるくらい、底意地は、嫌みと恨みで、執念深い訂正不能の無反省であることが、どんなに婉曲的な書き方をしても、嗅覚を刺激するような胡散臭さとともに、書くものに、滲み出てくるのです。
 
反省せねば・・には、それに対応した言動が今まで一度も伴っていません。言葉だけだと思います。このように、見せかけの反省の文言を重ねて、実質が、いかに伴っていないかを、露呈し続けるのでしょうか。
 
楽山のボンヤリ言語、詭弁、言葉だけまともに見せかけ、執拗に言い続ける姿勢、理路の矛盾、それだけでは薄くて説得力のない当たり前の幼稚な書き方だと気づかずに、自分でだけ分かったつもりで、言葉だけ反省を繰り返す白々しさ、自尊のためだけの執念のしつこさから、根深い怨念、・・楽山の病膏肓に入る感があります。どうか楽山に近づかないでください。
 
 
(2019年06月29日、同日一部修正)
 
病膏肓に入る(やまいこうこうにいる)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
滲み出る(にじみでる)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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