ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

霊癌

 
  霊癌
 
   神のみわざと悪魔のわざ
   https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28996750.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
   (※ 霊癌は造語です。)
 
 
シャロームの不感不応は、まさに悪魔の所業としか言えないものです。超常の悪魔は知らなくても、悪魔のような人がいることは誰でも見聞きしているでしょう。
 
何を言われても笑っていられる、騙すという目的のために常に悪しき言葉を善の言葉に見せかけて用意できる、どんなに醜いことをしても自覚がなく平気でいられる尊大さ、だから、人を下に見て上から教えるスタンスを持ち続けられる、人間らしさの深みを知らない、これらは、シャロームにぴったり当てはまります。
 
悪魔のような人というのは、揺るがない信仰の代わりに、不感不応の本性を持っています。本音を滅多に表さず、柔和を装います。罪人の自覚の代わりに、救われ芝居をします。恵みを大仰に強調し、試練と挫折を全く自覚していません。神の平安の代わりに、人の意見を無視して葬り、無刺激の安穏を貪ります。何を言われても、返すことが出来なくても、無根拠に無条件に平気なのです。
 
シャロームをひいきにする欲望に神?のことを、シャロームが書けば書くほど、批判の対象になるということが、8年続いても、シャロームは、まだ、分からないようです。驚くべき無感受と無反省と無思慮です。私にとっては、まるで、通常業務のようになってきました。
 

★今日のみ言葉★(2019.5.11)
「試みる者とは」
目に見えないので、わたしたちには悪魔はいるかどうか分からない場合が多いのですが、聖書には極めて現実のこととして、悪魔のことが記されています。

 
シャロームは、聖書を超常話としてしか受け取らないために、現実の悪魔性について語ろうとしません。分からない場合が多いと言っています。とんでもない、至るところに誘惑を用意して悪魔は出没します。悪魔の手先のような諸行に明け暮れているシャロームは、書物に書かれた悪魔しか知らないのです。
 

エスの荒野の誘惑の中から、
試みる者、悪魔とはどういう者かが明らかにされています。
悪魔は、人の弱みを見事についてくるという点では、きわめて賢い存在です。
弱みをつかんで、人を自分の思うように支配しようとするわけです。

 
悪魔は賢いと言って、そのあとの4行目は、シャロームがいつもやっていることです。その手段は、この記事もそうですが、詭弁と当てつけ、という、とても醜いものです。シャロームは、その醜さを自覚しません。人間は、あまりに醜いことにはブレーキがかかることが多いのですが、悪魔の心は、その反省力を奪うからです。
 

また、悪魔は人がどういう者であるかという、そのアイデンティティを脅かしてくる者です。
そしてまた、悪魔も自分の目的のために神の言葉を引用しています。
ということは、悪魔も神の言葉を信頼はしていなくても、知っているということですね。

 
シャロームは、超常の悪魔のことを聖書から言葉を拾って書くことが出来ても、人間の心に住む悪魔性を語ることが出来ないのです。
 
人間には反省力があり、悪い自分を自覚することがあります。悪い自分、すなわち、人間の心には、例外なく、悪魔性が住んでいるということです。善と悪の戦いというのは、終末の超常話以上に、私たちの心の中で起こっていることです。シャロームには、その自覚がありません。
 
人間の心には、アダムとエバと同じように悪魔性があり悪魔の誘いに乗りやすいわけですが、また一方で、神様から良心も与えられています。私たちが、信仰を求めるのも、良心が与えられているからであり、ゆえに、罪に気づき、罪を悔い改めるのです。
 
シャロームには、自らの悪魔性を認める心はなく、悪魔性は外にあるものとしてしか書かないようです。また、シャロームにとって、アダムとエバは、失敗した愚か者という見方にしかならないのでしょう。自らはいつも信仰のお手本として、見下ろすような発言しかできないのです。そういう目線しか持たないのは、聖書ではパリサイ人と悪魔です。
 
キリスト・イエスは、救い主でありながら、罪人のように殺される道を歩まれました。キリスト・イエスは、誰よりも、ご自身の身を低くされる御方であります。善と悪の、救いと誘惑の、決定的な違いが、キリスト・イエスによって明らかにされているのです。
 
シャロームが、それに気づけないことが、シャロームの、罪を認めず悔い改めないという信条に表れており、その分、やさしげな丁寧な言葉だけで、誘ってくるのでしょう。だからシャロームは、いつも冷静な知識人気取りであり、聖職者気取りという上の立場を捏造して身につける必要があったのでしょう。上から、知識めいた、小学校の道徳のようなことを言っても、先生という立場を前提とすれば、鵜呑みにする人がいるからです。
 

エスの荒野での誘惑から分かることは、試みる者、悪魔の最大の狙いは、
神と人とを引き離すことでした。
そして、一回目のエデンの園では、それに見事成功しました。
しかし、第2のアダムであるイエスへの誘惑は失敗しました。

 
また、どんでもないことを、シャロームは言っています。アダムは、罪深い私たち人間のことなのです。一回目は成功、二回目は失敗、などと、キリストと並べることは決してできません。キリスト者ではなく、キリスト者のふりだけする偽者というのは、基本的なことでぼろを出します。基本的なことが、偽者ゆえに、分かっていないからです。
 

自分を拝むならと言っている悪魔は、
自分が神に代わる者として君臨することを狙っています。
「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
エスはこの悪魔に対して、
み言葉で対応しておられ、最後には「サタンよ、退け」と権威をもって命じておられます。
その権威ある言葉に悪魔は従わなければならなかったのです。

 
こういうことを、シャロームが引用するのは、シャロームが、自分の罪の問題として受け取っていない証拠になるでしょう。超常話に終始しています。悪魔が、イエスが、という遠い昔の解釈の話にして、自らの罪の話を遠ざけてきたのでしょう。
 

この話から、イエスとはどういう方であるかは、すでにお話しました。
では、この話から人間とはどういう者でしょうか。
パンだけではなく、神の口から出る言葉によって生きるものとされている者。
衣食住の中で食べることを一番大切にするものであって、
また、そこが誘惑に弱いところでもある。
神を信頼することと神を試みることを混同しやすい。
そのため神を試みたくなることがある。
この世のものに誘惑されやすい。
これが3番目の誘惑でしたね。
つまり出世できること、お金が手に入ること、守ってもらえること、
通事故に合わないこと、そのためには何でもするというところがある。
ということで、御利益宗教に引かれやすい者である。
どう思いますか。

 
神を試みるとは、どういうことでしょう。シャロームが、何を仕出かしても、どんでん返しの奇跡で、有無を言わさず、神が自分を守り、救う、という、何の節操もないことを無条件に言い張っていることと関係しているのでしょうか。つまり、信仰を、欠片も示さずに、ご利益を期待してしまうことでしょうか。自分を救う神を決めつけて。
 
シャロームは、神に仕える者を装っていますが、偽者らしく、人目を気にして、ちょうどよさそうな信仰話をしてきます。その分、人目を気にしていることを悟られないために、信仰話は、人間離れして、善と悪の戦いを無関係なところで観ているような、超常の捏造話しか語れないようになってきたのかもしれません。
 
ひいき眼で見なければ、そういうシャロームの特徴は、今まで、ずっと表れ続けてきたのです。自らの罪の話をしません。悪いことは、みな、自身の外なのです。そして、何でもかんでも救われるという無節操で乱暴な、ありえない救い話をしてきたのです。
 

《shalomのコメント》
目に見えないので・・・私たちには神も悪魔もいるかどうかわからない場合が多い。
その通りですね。
しかし、聖書には極めて現実のこととして、神のこと、悪魔のことが記されています。
不思議ですね。

 
不思議ではなく、シャロームの話だけが、現実離れしたところで、奔逸しているのです。だから不思議と言いい、現実を見ないから、また、現実にシャローム自身の悪魔性を無視しているから、反省も悔い改めもしないわけです。
 

エスの荒野の誘惑の中から、
試みる者、悪魔とはどういう者かが明らかにされています。
私たちもこの世の荒野の中での誘惑、苦難、試練の中で
霊眼という目に見えない眼を開かれ、
目に見えない神や悪魔の存在とわざが明らかにされることが多いようです。

 
霊眼などという特殊な?目を持たなくても、シャロームの言動を見ていると、悪魔性しか表れてはいないと思います。いつも高く高く高いことを言おうとして、その度に、偽者ぶりを表してきたのです。人間には、いと高きところは語れない、ということを知らない者だからです。
 

この世の荒野は苦しい道ですが、
わたしたが肉眼のまま、悪魔の欺きの中をさ迷い歩くか、
また、わたしたちが霊眼を開かれて神の恵みに生きるかの関ヶ原の戦いのようです。

 
霊眼、霊の眼、などという言葉だけ立派にする必要はありません。普通に持っている人間性と人間の眼で、救いに与る信仰としては十分です。シャロームの造語癖が表れています。・・神主主義、霊心症、・・、今度は、霊眼、実にカルト臭い名称です。
 
関ヶ原の戦いでもありません。信仰は日常の歩みです。悪魔は、その人間の日常に巣食う場所を探しているのです。そして、私たちは、ある程度、悪意という形で巣食われているのです。その自覚のないシャロームは、巣食う者であっても、救いに導く者ではありません。
 

エスの荒野の誘惑によって、
悪魔は、人の弱みを見事についてくるという点では、きわめて賢い存在です。
弱みをつかんで、人を自分の思うように支配しようとするわけです。
また悪魔はイエスがどういうものであるかを脅かそうとしたように、
あなたが、人がどういう者であるかというアイデンティティを脅かしてくる者です。

 
シャロームは、知っているむずかしい言葉を使って、ホラーのように大仰に書いていますが、要するに、罪に誘導するのが悪魔です。人は悪魔を詳しくは知らないので、悪魔性と言うほうがマシかもしれません。
 
知性も感性も直感も人間性も欠けているものが、教える立場にしがみついて、豪語した末に妄想で信仰さえもメチャクチャになる、というのが、悪魔性の結果です。
 

しかし、悪魔の最大の狙い・・・それはイエスの荒野での誘惑から分かることは、
試みる者、悪魔の最大の狙いは、神と人とを引き離すことなのです。

 
決めつけた自家製の神?に誘導して、どんどん、真の神から離れさせてゆくことも、悪魔の狙いなのです。しばしば、造語を含めた自家製の超常言葉を振り回します。
 

悪魔は自分の目的のために人の言葉のように相対化し、
私たちの知性や理性や経験に訴え、歪曲し、神の言葉を引用するのです。

 
理性がないために、理性を、罪の根源のごとく、敵視しているシャローム。ずっと同じようなことを言っているのは、訂正不能のカルトの特徴でしょう。感じることと考えることを放棄したら、人間ではなくなります。まさに、そのモデルが、シャロームなのです。
 

私たちの父祖であるアダムとエバはその誘惑の罠に欺かれ、
神の言葉といういのちの木の実を食べてしまい、
神との信仰という神との関係、交わり、絆を切り捨ててしまったのです。

 
また、シャロームは、繰り言のように、アダムとエバを悪者にしています。
それで、シャロームの罪が軽くなることはないのです。
 
>聖書の失楽園の物語は神話のようですが、現実を神話風に告白しているのです。<
 
解釈の問題ですが、なぜ、シャロームに、現実だと断言できるのでしょう。シャロームがそう言うのは、シャロームが、神話から深い意義を考えてゆくような思慮も感受性も持たないからです。これは、特殊な能力ではありません。人間としての道理と情感があれば聖書を読むことは出来るのです。シャロームには、それさえも、ないようです。だから、一気に短絡して、それで、もったいぶって、理解したつもりでいるのです。
 

エスはこの悪魔に対して、ただ神のみ言葉で対応し、
最後には「サタンよ、退け」と権威をもって命じておられるように、
私たちも聖書という神の言葉を信仰による告白によってのみ勝利できるのです。
悪魔は神の権威ある言葉に従わなければならないのです。

 
神の権威ある言葉であって、決して、シャローム権威主義の言葉ではありません。
 
シャロームは、神の言葉と言って聖句をいっぱい悪用してきましたが、神の言葉と神の御心は一致するはずですから、それは、単なる言葉ではないのです。また、超常の言葉を言えばいいというものでもないのです。
 
神の言葉を理解するのに必要なものは、シャロームのような、大仰に、ぶった言いまわしではありません。神の言葉を理解するのに必要なのは、他でもない、温もりと潤いを持つ人間性に他なりません。
 
聖書は、人間のために書かれています。超常は既に超常であり、超常のために書く必要はないのです。人間のために書かれたものを理解するのは、人間性以外にはないのです。
 
なお、私の言葉でもありません。言葉は暗号です。偽善者やカルト以外の誰かの言葉がきっかけとなって、読む人の心が動くところに、信仰は生まれるのです。
 
シャロームの、超常言葉からは、偽者のインチキ宣伝があるだけです。分かったふうだけを見せているシャロームは、人間が分からないから、共感も否定しているから、罪も認めないから、悔い改めようともしないから、権威ある?権威主義の自分の言葉を振り回して、目を回しているだけです。
 

しかし、悪魔は私たちを欺くために、いつも神の言葉を歪曲し、論争しようと、
私たちの知性や理性や経験やあるいは罪責感、欲望、恐れにつけ込み
「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。と、目に見えない悪魔の代行者である偶像のもとにひれ伏すように惑わすのです。

 
シャロームは、また知性・理性・経験を否定して、何が言いたいのでしょうか。人間性を否定しているのでしょうか、そうしてきたシャロームは、どうなっているでしょう。壊れた機械のように、人間性の欠片も共有できず、常同の言動を繰り返しているのです。シャローム、人間をやめたいなら、独りでやめてください。
 

「では、この話から人間とはどういう者でしょうか。
パンだけではなく、神の口から出る言葉によって生きるものとされている者。
衣食住の中で食べることを一番大切にするものであって、
また、そこが誘惑に弱いところでもある。
神を信頼することと神を試みることを混同しやすい。
そのため神を試みたくなることがある。
この世のものに誘惑されやすい。
これが3番目の誘惑でしたね。
つまり出世できること、お金が手に入ること、守ってもらえること、
交通事故に合わないこと、そのためには何でもするというところがある。
ということで、御利益宗教に引かれやすい者である。」
自分を拝むならと言っている悪魔は、
自分が神に代わる者として君臨することを狙っています。

 
シャロームが、何か重要な話をしているなどと思わないでください。結局、悪魔ではなく神に従いましょう、悪ではなく善を行いましょう、という、それだけでは、何も語ったことにはならない当たり前の幼稚なことを言っているのです。この辺は、成りすまし疑惑の楽山に似ています。これを、もっともだと、何の感動もなく受け入れる人々を騙してきたのでしょう。カルトとは、そういうものなのです。
 

ひとたび悪魔の誘惑によって神との関係を見失うと、
私たちは自分のあるべきアイデンティティを見失い、
自分が誰で、何処からどこへ向かって生きているのかがわからなくなるのです。

 
今、シャロームが、そうなのです。何も分からないのに、分かっているふりをしています。多くの外れた言動から、キリスト者ではないのに、キリスト者であるかのように教えようとすることこそが、シャロームが、信仰と人間性アイデンティティ(同一性)もオリエンテーション(時や場所や立場の見当識)も分からずにいることを表しているのです。
 

そのような姿をアダムとエバの長男カインの姿はあらわしているのです。
そのカインの姿は私たちの現実の姿でもあるのですが
神の恵みによって失われた霊眼が開かることなしには見えないのです。

 
またまた、スーパーな"霊眼"を、自分は持ってると言う勘違いといっしょに出しています。
これが、シャロームの、いわば唯我独尊妄想なのでしょう。
 

大阪でのG20は終わりました。
全世界はノアの洪水とバベルの塔の崩壊の前夜のような
大混乱の真っ只中にあることを覚えさせられました。
しかし、人の傲りの終わりも神の御手の中にあり、
神の恵みの支配の始まりなのです。

 
鳥が交尾に誘うときに、また敵を威嚇するときに、羽を広げて大きく見せるように、実は欲望の翼を、大きく見せるために、個人の信仰の話に、それも、シャロームの妄想話に、聖書の話と政治の話を混ぜこぜに、数行で表したつもりになっているシャロームです。
 
さらに大きな災いの前夜と言い不安を煽るというカルトらしい言い方をしています。
 
政治は確かに行き詰まりを見せていますし、大きな災いにつながるような気もしますが、政治も思想も宗教も、シャロームが、多くの記事でやっているような、同じことを繰り返して、誇大的で被害的な言葉を並べて、豪語して言い張るような発言で、語れるような話ではありません。
 
当然のこととして、シャロームの傲りも終わりも神の御手の中にあります。
 
 
(2019年07月03日、同日一部修正)
 
 
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