ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

寒気

 
  寒気
 
   主よ、いつまでなのでしょう。(詩編6:4)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41557618.html
   楽山のブログ記事。2019/6/30(日) 午後 4:14
 
 
どうも、いつのまにか、楽山は、キリスト教の解説を始めたようです。知ってるさ、とばかり、気安く考えて、言葉の知識だけをなぞってきたようです。
 
気に入らないことは無視するという信条のカルト、アドラー教が、深みのない言葉で書いています。何も言ったことにはならない、という、内容の薄い気安さに塗(まみ)れています。楽山の独り芝居が続きます。
 

わたしの魂は恐れおののいています。
主よ、いつまでなのでしょう。
 (詩編6:4)
わたしは嘆き疲れました。
夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
(詩編6:7)
主はわたしの嘆きを聞き
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
 (詩編6:10)
これは読んでいるだけで、
作者のつらさが想像されて、
泣けてくる一節である。

 
盛んに泣き真似をしている楽山です。多分、笑っていると思います。
楽山にとっては、泣くことは、鳴き真似なのでしょう。
 

でもそれはそれとして、
「涙は床に溢れ、寝床は漂うほど」
という表現は、すさまじい。
涙で枕を濡らすではなく、
涙によって寝床は漂うほどって
これはいくらなんでも…と思える。
でも、考えてみれば、
涙で溺れるという表現は聞いたことはあるし、
実際、涙で息を詰まらせることはありそう。
それなら、
「涙は床に溢れ、寝床は漂うほど」
というのも大袈裟すぎることはないかな。

 
誰に向けて書いているのでしょう。まるで、子どもに書く手紙の文面のようです。
知恵の足りない者への優しい手紙を書いていますが、
楽山の優しさは、言葉だけのもの。だから、今までの経過に対して、連続性がないのです。
このような不連続なシーンをつないで、騙す者は永らえているのでしょう。
 

*ところで、
作者のおかれた状況や意図とはちがうだろうけど、
自分も、「主よ、いつまでなのでしょう」と思うことはある。
若い頃は、さして苦を感じることはなかったせいか、
「いつまでなのでしょう」なんて思うこともなかったけれど、
昨今は、一切皆苦を実感してきているので、
「いつまでなのでしょう」と思うこともある。

 
楽山が、のぼせ芝居をする間、苦は、意味もなく、苦であり続けるでしょう。何故なら、実感と経験の裏打ちもなく、信仰芝居をすれば、三文芝居は、とても、臭い芝居になるからです。今までとは違うキャラを演じられることを自慢したいのでしょうか。
 
安直に唐突にキャラを変えてきたことこそ、成りすましの傍証となり、演じなければ、保てない楽山の人格が、寒気のするホラーとなってゆくでしょう。
 
どういう人か、これから見てゆくのではないのです。すでに、卑怯なひいきで、シャロームの味方をしたこと、いい加減な言い方しかしてこなかったこと、こちらの批判に、まるで、真摯に答えることがなかったこと、ボンヤリ言語、ああでもない、こうでもない、・・これらによって、既に偽善という評価は、ほぼ定まっており、その上に、芝居で、良いキャラを塗りたくっても、唐突芝居でしかなく、それを平気でやってくることは、常識的な判断が出来ない異常な人なのだろう、ということにしかならないのです。哀れです。自分の醜さを自覚できないということは。
 

聖書を読んで、
一切皆苦を連想するなんて、おかしな話だけども、
「いつまでなのでしょう」
「この苦は、いつまでなのでしょう」
「四苦八苦は、いつまでなのでしょう」
一切皆苦は、いつまでなのでしょう」
という具合に、考えないわけにはいられなかったのである。
あとは、
「主よ、いつまでなのでしょう」には、
映画『バッファロー’66』のこの場面を思い出してしまった。
イメージ 1(省略)
宗教は、多くの場合、
苦からの解放を説いているだろうけど、
それを本当に実現できたら、どんなにいいだろうと思う。

 
苦からの解放が出来たらどんなにいいだろう、という空疎なリップサービスです。何故なら、誰でも、これくらいは言えるという程度のことで、言っても言わなくても、いっしょだからです。
 
思慮深い人なら、このようなサービスが、悪い政治家に似ていて、嘘だろうと分かります。楽山の書く記事のレベルの低さは、知識がどうこうではなく、罪深い人間の実感としての、低さ、乏しさ、心貧しさが、どこにも表れていないことです。言葉をいじれば、騙せる、という、人間をなめた態度だけが目立って、鼻に突く結果となっています。
 
嫌いなタイプの政治家の、そういうリップサービスを、いっぱい見てきましたから、楽山の、こういう文章を見て感じるのは、信仰でもなく、真実でもなく、何の共感も持てない者が、わざと、こしらえた、いわば、ご機嫌取りの、あざとさでしかないのです。
 
楽山は、滅多に苦を感じることはないと思います。罪悪感を感じないからです。罪悪感からの罪の認識による共感と共有が、信仰者の交わりの前提となりますが、楽山にそれを感じたことはありません。
 
苦からの解放、楽山は魔法のような解放を夢想するのでしょう。
 
苦からの解放、信仰者は、苦を受け取って、耐え忍ぶために、祈るでしょう。
 
楽山の信仰芝居「実現できたら、どんなにいいだろう」・・決まり文句のように、書いてくるのでしょうか。中身がなく、文面だけ、良いこと書いていると言われたいために書くのでしょうか。
 
小学生の作文でも、もう少し日常の実感を書いて、悩みを書いて、悲しいことを書いて、具体性と深みを持たせるでしょうに。
 
 
 
  あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない (詩編9:11)
  https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41557622.html
  楽山のブログ記事。2019/6/30(日) 午後 4:47
 
 

主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。
あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。
(詩編9:11)
詩編を読んでいると、
悲しい言葉が多いようにも思うけど、
ときどき、
こういう救いの言葉に行きあたると、
すごく、ほっとする。

 
悲しみを感じることの出来ないのでしょうか。楽山は、救いの言葉だけを取り上げて、すごく、ほっとする、と書いています。ボンヤリ言語です。中身のない筆致が陳腐の定型みたいになってきました。
 
読んでも、何も受け取るものがありません。芝居だからでしょう。だから、救いの言葉の、言葉だけしか受け取れないのです。キリスト者らしく、聖句と現実から、その人なりに突っ込んだ話とかが、何も言えないのです。キリスト者ではないからでしょう。それでも、かっこつけるために、書こうとするのは、ナルシシストだからでしょう。
 

これと同じく、
求めることがカギになってる言葉といえば、
「求めよ、さらば与えられん」があると思うけど、
こちらは勇気、元気が出てくるのに比べて、
「あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない」は、
慰められ、涙が出てくる言葉のような気はする。
どちらもそれぞれに心にしみる。

 
楽山は、恐らく、怒りを交えた悔し涙以外の涙を流したことはないのではないかと思います。悲しむことが出来ないのではないかと思います。前に、そういうことを書いたので、最近、悲しみの話を、言葉だけ、書いてくるようです。
 
勇気、元気、慰められ、涙が出て、心にしみる、・・使う言葉の種類だけ、過剰になるほど、キリスト者の真似をしても、キリスト信仰からは程遠いのです。いちばん単純で、いちばん大切なものが、欠けているからです。言葉はあっても紙の上を滑っているだけでは、心が無いのです。
 


ところで、
この言葉は、
文語ではどうなんだろう
と思って調べてみたが、
これはなかなかむずかしい。
聖名をしるものはなんぢに依頼ん そはヱホバよなんぢを尋るものの棄られしこと断てなければなり
詩篇(文語訳)
文語の方が格調高くてきれいとは思うが、
やはり自分には、口語でないと無理っぽいな。
ていうか、聖書は口語でも難しいしね。

 
こういう興味本位の読み方しかできないと思います。無理っぽいのは、楽山です。
 
 
(2019年07月04日)
 
 
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