ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

多様性の皮

 
  多様性の皮
 
   多様性の確保:そのためには、押しつけはいけません
   https://blogs.yahoo.co.jp/mine197272/69065689.html
   Mineのブログ記事
 
 
昔からですが、シャロームと好意的に、社交で付き合って
シャロームのブログにコメントも書いている人がブログに書いた記事です。
この記事で書いていることが信仰者を含んでいるのなら
当てつけの癖を移されたのか、意地の悪いことを言っています。
 
7月3日、先方にコメントで
私の批判と関連があるかどうかを問い合わせたが
レスがないということは、関連しているのでしょう。
ということで、一応批判記事として書いておきます。
(7月5日、01:59現在)
 

●感心したり、気になったこと
お互いの才能の多様性を理解することで、相互信頼というきわめて
重要な一歩を踏み出すことができる。
(マックス・デプリー著 『響き合うリーダーシップ』 より)

 
才能の多様性についての言葉です。
信仰が人によって正反対に違っていていいのでしょうか。
シャロームは、罪を認めず悔い改めなくてもいい、と言いました。
これは、キリスト信仰ではありません。
 
そういう信仰を信仰と認めれば
キリスト信仰というのは何でもありになって
誰に対しても、聞かれても、
信仰の正しさを何も示せなくなります。
 

●思ったこと
私たちは、
他者(ひと)に、
自分の習慣や、
価値観を、
押しつけたり、
他者(ひと)を、
自分の好き嫌いで、
評価しがちです。

 
・・しがち、という言葉では、
することもあり、しないこともある、ということになりますが、
信仰は
信仰を求める者にとって好き嫌いでもなければ、
信仰を求める者に対して押しつけが出来るものでもありません。
 
私は信仰が必要だからキリスト者になりました。
 
自己中心の教義でいい
というような著しく異なった信条を総ての人が信じたら
自己中心の勝手放題になって
キリスト信仰の名で表されるものが
ばらばらになって
もはやキリスト信仰という一つの信仰ではなくなるので
著しく異なっている者に対しては
異なっていることを指摘しなくてはいけません。
 

信じるものを、
大切にすることは、
良いことです。
しかし、
押しつけは、
いけません。

 
押しつけ、という言葉で、何を指しているのでしょう。
信仰は、やろうと思えば、押し付けられるものだと思っているのでしょうか。
 
信仰?を押し付けて?いるのはカルトであり
それは信仰ではありません。
その手段は、おもに誘導と脅迫であります。
シャロームと楽山は
刷り込みによる誘導を専らとしています。
 
批判は、不正を指摘することです。
それを聞かず、改めない者に対しては、
聞かぬ者がいて、こういう信条だ、ということを公表し
広く読者に伝え、不正の影響を受ける者が
さらに出てこないように注意喚起する必要があります。
 
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい
というシャロームの信条は
キリスト教でもキリスト信仰でもないのです。
 
シャロームの信条は
偽キリスト信仰のカルトであり
影響されないように注意を促すことは
キリスト者の務めです。
 

何故なら、
それらは、
他者(ひと)の、
尊厳を傷つけ、
多様性を、
失わせるからです。

 
信仰の多様性は、
つまりシャロームの言うところの
人それぞれ
というのは好きなように信じて勝手でよい
ということとは全く違います。
 
信仰の多様性は、
聖書に出会い、神とキリストに出会い、
キリスト者になって、いかなる務めが与えられるか
という使命が人それぞれなのであって
 
あなたの言う多様性は
教会からの批判禁忌の固定観念であり
そのような単純に短絡した見方だと
カルトをも批判するなということになり
結果として
カルトを容認する行為なのです。
 
そのことで
反省も修正もせず
神に任せるのが正しいと言うのなら
できることをしない怠慢なのです。
そういう、ごまかしの詭弁こそが
シャロームの信仰?です。
 
このことは、既に、ずいぶん前に
シャローム批判として言ったことです。
ここでまた同じことを言う人がいるとは
既にシャロームの影響を受けているのでしょうか。
信仰の節操において
とても幼稚だと言わざるを得ません。
 
カルトの尊厳を守り、言葉を和らげ、
いいですよ、と言ってあげようと言ってるのと同じだからです。
 
そういう多様性は
やさしさの衣をまとった偽善であります。
敬虔の皮をかぶって
お付き合いの一般道徳を振り回して
良い子ぶることであります。
 
押しつけはいけないというのは戒める言葉であり
聖書でもないのに
押しつけはいけないという言葉で批判に当てつけるなら
それこそ押しつけを語っているのです。
 
批判が苦手と言うならしなくてよい。
しかし、批判しないことを正当化するなら
信仰の節操に対する怠慢の正当化として
批判対象になります。
 
シャロームも楽山もそうですが、都合が悪くなると、解決する方向ではなく、無視する方向に向かいます。記事投稿がいったん止んで、しばらくして、何事もなかったかのように、別の記事を書き始めます。それで、克服したか、立ち直ったかの気分になるのでしょうか。
 
放置しても何も解決しないのは当たり前のことで、にもかかわらず、シャロームと楽山は、自己中心の信条に従って、不都合は何もない、また、あっても相手のせいにして済んだことにするわけです。正常な人間の活動ではありません。これがカルトなのです。シャロームと楽山は、今まで、ネットにおいて、実際にそうしてきたのです。
 
こういう宗教が広まったら、どうなるでしょう。無視だけですから、問題が解決することはなくなるのです。それでも、お仲間だけとは普通に挨拶できる、ということを、神の平安と呼んで、感謝と讃美の祈り?を捧げるのでしょうか。進歩と成長を削除した異常世界の誕生です。
 
信仰は命の問題に直接かかわっています。
ぬるい道徳で裁けるものではありません。
「他者(ひと)に、
 自分の習慣や、
 価値観を、
 押しつけたり、
 他者(ひと)を、
 自分の好き嫌いで、
 評価しがち」
という言葉で信仰をくくることは出来ません。
もし信仰を含めて語っているのなら
いつから神の教えを教える立場になったのでしょう。
シャロームの二の舞になりませぬように。
 
 
(2019年07月05日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp (更新、コメント不可)
http://st5402jp.livedoor.blog/ (移行スピードは速かった)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html