ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

忘れた頃に自己顕示してくる

 
  忘れた頃に自己顕示してくる
 
   隷属思考 3/3
   https://blogs.yahoo.co.jp/nogatera/56487788.html
   この記事は、このサイトに対する批判ではありません。
   批判対象はコメントを書いているシャロームです。
 
 
シャロームは、今までの8年間で、私が、信頼できないと判断している人です。今までの言動の一貫性がまるでなく、例えば、嘘を吐く、反省しない、自己中心である、自己顕示欲がメインである、自分に都合の悪いことは総て無視する、理路がまとまらない、特に謙虚さや無力さや悲哀についての共感が全く成り立たない、いつも人を食ったように尊大で、教える立場でしか物が言えない、などの、害毒として、疲労を与えるだけの他害性しか持っていないという判断です。
 
そのため、たとえ、その発言の一部に、真実と矛盾しないところがあったとしても、その思想は一方的で誰かの糧(かて)になるようなものではありません。大方、他サイトや本など、他者からの受け売りを捏ねまわしたに過ぎず、話の筋を追うと、理路が破たんして、妄想的な執着に陥っているようです。
 
基本的な信頼関係が成立せず、理解力と共感力の決定的な欠如があることと、しかも本人が全くそれを自覚しないために、世辞で褒めあう以外の遣り取りが成立しないことから、直接の議論においては疲労物質としての作用しかもたらさず、記事においては、批判対象にしかならないという現状です。恐らく、何らかの人格障害があるのだろうと思います。
 
前に、このサイトで、押しつけがましい自説を唱えましたが、その単方向性のために、私はシャロームを批判して、結局、シャロームは退却するに至りました。シャロームは、批判に対して、何も答えることが出来ないことが続いています。しかし、また、しばらくして見てみると、彼が本で学んだという「日本教」について、長いコメントを一方的に書いているのです。
 
シャロームは、その我執のみにおいて分かったつもりになり、カルト的使命感でもあるのでしょうか、教えよう聞かせようと厚かましく振る舞っているだけです。それを見苦しいと感じて反省し自制する態度が皆無なのです。ブログ主が、ノーレスなのは、賢明な対応だと思います。
 
厳しく批判されないで済みそうなところに、盗人のように近づいて、思想家気取りで書いて、さらに、カルト的預言者気取りで真理を教えようというつもりで押してきて、いつの日か、感銘を受けました!、という感想でももらえる時が来ると信じているのでしょうか。もはや、恒常的に、説教からも、議論からも、退くことだけが良識だろうと思いますが、それもシャロームは、全く意に介していないようです。
 
反省と学習機能のないところに、説教も議論も成立しません。
 

おはようございます。
隷属思考1~3読ませていただきました。
「>安倍政権はひどい政策をずっと続けているのに、なぜか長きにわたって政権を維持している。>ここには合理的には説明のつかない力が働いており、私たちはそれに従わされている。」
「合理的には説明のつかない力」について小室直樹さんと山本七平さんは「日本教社会学」第四章日本教の教義 日本人を理解するためにで次のように述べておられます。長くなりますが、引用します。
[ shalom ]
2019/6/28(金) 午前 9:27

 
学習意欲のないところに、異常な熱だけが焼き付いてゆく、という、他者の迷惑を省みないシャロームの、独り舞台というより、独り言です。
 

小室さん
さて、そこでいよいよ、この日本教の神学的公正とその宗教社会学的意味について討論を深めてみたいと思いますが、山本さんの偉大な業績は、実に、「日本教」の発見にある。このことの重要さは強調され過ぎることはありません。ひとたび日本に入ってくると、キリスト教でも、仏教でも、儒教でも、あちらのものとは似ても似つかないものに変容してしまう。そして、独特な様相を帯びてくる。まったく不思議千万なのですが、このことが日本教という概念装置を用いると明快に説明されうる。つまり、みんな日本教の分派になってしまうんです。要するに、日本教とはそのものであり、何教を信じようとも、どんなイデオロギーを持とうとも、結局、日本人はみんな日本教徒なのです。
[ shalom ]
2019/6/28(金) 午前 9:27

 
独特な様相とは何なのでしょう。民族宗教なのでしょうか。古い村落の、半強制的な、慣れあいのことでしょうか。肝心の説明がなく、それでも、比喩的にではなく、日本教徒だと断言して、どういう宗教なのかは書けないところから、ただ日本の悪口を、持ち前のボロクソ節で、言いたいだけではないでしょうか。
 

だから、日本教を理解することは日本を理解し、日本人を理解することだと言っても過言ではないでしょう。

 
このように、自分が大事と思ったことだけを、迷惑省みず、必修課程であるかのように、決めつけて豪語しますが、そこに、理路を正した説明力も説得力もないのです。
 

日本教「とは、それほど重要かつ有効な概念装置でありながら、神学的構成・宗教社会学的意味はまだ明確にされていない。その素材は山本さんのお書きになった論文に散在しますが、体系化されてだれでも使える形にまとまっていないのです。
われわれが、ここでチャレンジしたいと考えるのは、その日本教社会学的にとらえ直すことです。そもそも、まったく体系的でない日本教を、方法論的には体系的にとらえようというのですから、この作業は大変なことで、この目的のために、私は次のような研究戦略を用いることにしました。
[ shalom ]
2019/6/28(金) 午前 9:28

 
学問の体系を理解するような理路を、シャロームは、示し得たことがないのに、研究戦略などと言っています。完全に学者気取りです。神学を理解しているなら、自身の、キリスト信仰と言っている言説の、罪を認めず悔い改めのしない信条の誤りに、気づかないことはないはずなのです。大ぼらを吹いたと言ってよいでしょう。シャロームの思考は、誇大的に奔逸してゆきます。
 

キリスト教の場合ですと、その神学的構成・宗教社会学的意味を研究するためには、教義、救済儀礼、神義論などが、決定的な役割を演じます。また、キリスト教の本質を理解するうえで最も適切なのがファンダメンタリズム(基本主義)です。

 
(ネット検索)
原理主義(げんりしゅぎ、英語: fundamentalism、ファンダメンタリズム)は、主に以下の意味で使用されている[1][2]。
キリスト教の用語で、聖書の無謬性を主張する思想や運動(キリスト教根本主義)。対比語は自由主義神学(リベラル・リベラリズム)、近代主義モダニスト)、世俗主義など。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%90%86%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 
基本主義ではなく、原理主義のことのようです。そういえば、シャロームの記事において、検索して書いたのを、あまり見たことがありません。自分は、知っている、全部わかる、分かっている、という確信に満ちた妄想的自意識が背景にあるのかもしれません。
 
だから、シャロームは、めんどくさいことをしない、というより、自分はしなくていい、と思っていて、ゆえに、至るところに思考の破たんが表れても、どんなに醜い卑怯が表れても、平気でいられるのではないかと思っています。自分を神聖になぞらえてしまった者の惨劇なのでしょう。
 
私としては、聖書の無謬性を唱えることの無意味さを覚えます。何故なら、聖書の無謬性と言うとき、必ず、それは、誰かが解釈したことの無謬性になるからです。無謬性は神のもの、というのを、曲解して、自らの絶対とする危険があり、その危険を具現化しているのが、シャロームだと思います。考えることが面倒になった人が、陥りやすい短絡なのです。私は、原理主義というのは好きではありません。
 

そこで、日本教におけるこれらの対応物を探ることによって、日本教の構成と意味を明らかにしてみたい。もちろん、日本教には、本来、教義も救済儀礼も神義論もありません。こんなものがないところが、日本教の特徴です。日本教ファンダメンタリズムなどもありようがない。何が日本教にとって異質的だと言って、ファンダメンタリズムほど異質的なものは考えられない。そのれなのに、いかにしてこれらの対応物を見出すか。
私はここに、構造神学が威力を発揮すると考えます。協議の論理構成だけをその社会的機能から切り離して分析するという従来の組織神学的立場からすれば、日本教には教義も救済儀礼も神義論もない。しかし、構造神学的に考えて、これらと同じ機能を有するものが日本教にはないか、と思いめぐらすと、これは、立派に存在するように思います。
[ shalom ]
2019/6/28(金) 午前 9:28

 
この辺から、何を言いたいのか分かりにくくなっています。どうも、筆致も、シャロームというより、本か何か、どこからか、難しい熟語の載っているところを寄せ集めただけの文章ではないかという気がします。シャロームは、説明しに来たのではなく、自慢したくてきたのでしょうか。あるいは、独り学問をしているのでしょうか。だったら、人を巻き込まず、独りでやっていてほしいです。なにか、この辺は、怪しいです。一人前の学者を気取っています。
 

山本さん
つまり、原則のないところが、日本教日本教たるゆえんである。・・・
あとすこし続きますが、後で引用します。
[ shalom ]
2019/6/28(金) 午前 9:29
山本さんのコメントの続きです。
ところが、宗教で原則と言えば教義でしょう。キリスト教で教義と言えば、その内容が一義的に明示されることが要請され、これはもう日本人の目からすれば想像を絶するくらい厳格で確固たる原則です。社会状況からも人間関係からも完全に析出されていて、人間によって左右されることのない半面、人間をわしづかみにして逸脱を許さない。ですから、このような組織神学的に言えば、日本教に教義はあり得ようがありませんね。
[ shalom ]
2019/6/28(金) 午前 10:22

 
嘘です。教義の内容は、どこを重視するかで、教派によって異なるでしょう。しかし、シャロームの、無罪信仰のように、正反対になることはないです。
 
想像を絶するくらい厳格で確固たるものならば、なぜ、隅々まで鉄則と言わずに、原則と言うのでしょう。
 
>社会状況からも人間関係からも完全に析出されていて<
 
析出という言葉をシャロームが使うところは、怪しいと思います。やはり、本からののコピーではないかという気がします。
 
(ネット検索)
析出(せきしゅつ、英: deposition)とは、固体以外の状態にある物質が固体として現れる現象。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%90%E5%87%BA
 
シャロームの上の文脈では、分離の意味で使っているようですが、信仰について申し上げると、社会状況からも人間からも分離される、ということは誤りとして起こるだけです。
 
信仰は、人間のためにあり、人間は社会状況と人間関係の中で生きています。そこから、信仰だけが分離して働くというのは、カルト的な思想だと思います。特に、信仰は、人間関係と人間性のうちに働くものです。
 
シャロームは、人間性が大嫌いです。何でも超常の、どんでん返しのような力で救われると言っています。人間的なものは、皆、邪悪だと思っているようです。だから、自分で罪を認めて悔い改めることをしないのでしょう。しかし、それは、全く、キリスト信仰に反することなのです。
 
こういう短絡した断定の豪語を聞かせられる人はたまらないでしょうね。説得力ゼロ、人間に対する説明に全然なっていません。何も分かっていない者が、分かっているふうに装おうとすると、こうなるという典型です。
 

小室さん
しかし他方、日本教にもそうした意味の教義はないにもかかわらず、機能においては教義の働きをするものがあるように思うのです。
ここで、教義の機能についてちょっと、コメントを加えると、それが人間にとって、規範的で絶対であり、所与性を持つこと。教義は人間行動を厳格に拘束するけれども、人間の方では勝手に教義を変えることは出来ない。このような意味で、教義はデュルケムのいう社会的事実の一種だと思います。そして構造神学において教義という場合、私は組織神学における場合と違って、その体系的内容ではなしに、その機能によって理解されるべきであると思います。
そうした観点で、日本教に教義と同じ機能をするものないかと探っていくと、山本さんが提起された「空気」に突き当たるわけですね。
ここで引用を終わります。
 本文は日本教の教義としての「空気」に続きます。
[ shalom ]
2019/6/28(金) 午前 10:23

 
これは、たぶん、本の一部か、熟語を含めた受け売りであろうと思われます。全くシャロームの筆致ではありません。シャロームは、学術的論理に耐えない人です。
 
要するに、日本教は、言葉で表された教理や教義ではなく、空気のように、当たり前にあって、それに従っていることが、日本教だと言いたいのでしょうか。こういう宗教の考え方は、キリスト信仰とは、かなり遠いところにあるところの、精神を知らず知らず規定してしまう原動力を、日本の風土や考え方に求めているのでしょうか。
 
シャロームは、なんで、わざわざ、話を難しくして、しかも、何も伝わらないような書き方をしているのでしょう。学者気取りだけのために書いて、説明する気はないんじゃないでしょうか。恐らく、シャロームは、何も分かってはいないと思います。すっきりしたものがないし、分かりやすくすることもしていないし、つまり、難しいことが自分は分かるんだという自慢の、低次元の文章だと思います。
 

想像を絶するくらい厳格で確固たるべき原則としての日本人の思考と行動を拘束し、縛っている教義が「空気」が、
はじめに引用しました「合理的には説明のつかない力」であるというのです。
日本教による隷属思考は恐るべしですね。
一言で表現するなら、神ならぬものを神とする偶像礼拝の隷属思考だと言えるのではないかと思います。

 
理路として、「空気」なら、「合理的には説明のつかない力」でしょう。しかし、シャロームの、愚かで、かつ、恐ろしいところは、それを、まるで、日本人が奴隷であるかのように、隷属思考だというのです。しかも、なぜ、隷属なのか、全く説明していません。これで、分かれと言うほうが無理です。話の中の概念が、誇大的に広くなったり、急にピンポイントになったり、他者の思路を邪魔しているとしか思えません。
 
空気は、はっきりした教義や教理ではなく、言葉ではなく、つまり、先入観のように当たり前になっていることがあり、形なく、言葉なく、人々の心に、培われて、逆らう思慮を、いけないこととして、抑制するような力を持つのだろうと思います。そして、理非を云々することないまま、受け入れたかのように、同化させてゆく心性のような気がします。
 

長い引用失礼しました。
[ shalom ]
2019/6/28(金) 午前 10:25
おはようございます。
引用の初めに誤字があり訂正します。
神学的公正は神学的構成です。
[ shalom ]
2019/6/29(土) 午前 7:51

 
(ネット検索)
日本教(にほんきょう)とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。
山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。
奥山実は芥川龍之介の作品である『神神の微笑』で老人が神父に語ったことば「我々の力というのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」に注目し、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99
 
相対化、というのは、問題を、正面からとらえて理非を考えるのではなく、浅いところで妥協することかもしれません。民族性に関わってくるかもしれません。古い日本の村落での慣習や生活様式が、集団の生き方になり、個人が逆らいにくくなることと関係しているのかもしれません。当たり前のように、体質のように、従っていて、もし逆らう者がいたら、目を丸くして驚かれるような、刷り込みの一種も考えます。馴れ合い、妥協、仲間ぼめ、気づかないまま固定した共有の価値観、先入観、根強く固定した印象、などを思い起こしますが、はっきりとは、分かりません。
 
性懲りもなく、反省もなく、はっきり分からないのに、まるで分かっている人のように、教えてあげる態度で、まとまらない言説を書いて、しつこく書いてきて、それが解説になっていない、なのに、シャローム独りだけが、言い得た気分になっている、というのが、シャロームの特徴です。
 
それにしても、シャロームは、体質的に、自分の妄想を絶対の神の意志と同一化しています。あってはならないことです。シャロームは、世辞を言って、相手の言ったことを受け容れたように見せかけますが、その実、何も受け取っていないのは、人など、どうでもいいからです。ここに書いた文章にも、分かりやすさを無視するところに、それが表れています。私は、最近では、シャロームの言動に、常識を逸脱した病理を感じることが多くなっています。
 
シャロームこそが、逆らう者を無視してきましたし、妄想的に固定した先入観によって、ここでも人の迷惑を省みていないし、過去には人の尊厳を平気で貶めてきた人で、シャロームは、何からの訂正不能の空気を住み家としていますが、それを離れて公共に接することは、期待できそうもなくて、人を巻き込みたいシャローム教の刷り込みを、理非などお構いもなしに、続けてゆくのでしょう。どうか、誰も、シャロームに、近づかないように祈っています。
 
前に、コメントを書きこんだときも、的外れであり、一方的に自分が読んだ本を勧めたり、歓迎されてもいなかったのに、それに気づくことも、それを記憶することもなく、何事もなかったかのように、また今回、無遠慮に「日本教」のことを書き込んで、当然ながら、生産的な何ものも伝わることなく、まとまらない頭と心の節操のなさをあらわにしています。
 
注意し警戒してください。シャロームが、言い得たつもりで書いて、悦に入ったとしても、表れているのは、シャロームの病理と症状と傍迷惑だけなのです。
 
 
(2019年07月07日、同日一部修正)
 
傍迷惑(はためいわく)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp (更新、コメント不可)
http://st5402jp.livedoor.blog/ (移行スピードは速かった)
 
 
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