ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

気取りだけの

 
  気取りだけの
 
   カエサルの物
   https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28999733.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
    転載元:カエサルの物
    https://blogs.yahoo.co.jp/nogatera/56490972.html
     by nog*t*ra
 
 
(私)
この転載元サイトへのシャロームの一方的なコメント書き込みを記事にしたばかりのような気がしますが、シャロームは、同サイトの別の記事を転載して記事にしています。迷惑に迷惑を重ねても、平気でいられるシャロームの信仰?は、信仰ではありません。
(私)
政治・哲学のサイトには、ある種の恐れをいだいているので、シャロームに対して批判コメントを書いたことはありますが、向こうのコメント欄に私の意見を書くことは、今回は控えています。その遠慮が全くなくて、思想家気取りに加えて哲学者気取りでしょうか、図々しく自説を書きまくるのが厚顔無恥のシャロームです。したがって、私のコメントは、この記事用です。
(私)
引用の「>」と、何もついていないのが、転載元記事の遣り取りです。私の意見は、「(私)」をつけて、挿入的に書いています。
 
< 記事 >
 
(略)
> 日本の中で信仰の話をするのは極めて難しい。>それだけ日本はセキュラリズムに侵されているといっていい。
 
そうですね。現実主義万能ですね。
 
>まがりなりにも神の存在を認めてきた西洋のほうがセキュラリズムからの脱却の余地があるのかもしれない。
 
(ネット検索)
セキュラリズム(英・secularism)の語源は中世教会ラテン語のsaeculumに遡る。今われわれが生きるこのかりそめの「現世」という意味にして、死後に往くであろうあの世「来世」の対義語である。
セキュラリズム、「信仰―霊的な存在からの教え」に由来する思考から政治と社会契約上の判断を切り離すべしとする主義主張であり、いわゆる政教分離はこの産物である。一般には「世俗主義」と日本語訳されている。多民族、多宗教を抱えるインドなどがセキュラリズム国家と呼ばれる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=287748
 
そうですね。非現実の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するためには、その文章を理解しなくてはならない。これは、骨の折れることである。だから、日本人はやらない。忖度 (推察) に切り替えて事を処している。理解と忖度は、似て非なるものである。理解は、話し手が基準になる。忖度は、聞き手が基準になる。
 
>日本の場合は前編に記したように来世や神に関わる多くの霊的な概念を皇室神道に結び付けて玉砕した経緯があり、人々は「神」を否定をしないまでもそれを「自然」や「宇宙」と呼んでみたり、「心のよりどころ」などと定義してみたり、また地球外生命体に人類の救済を求めてみたり、とにかく直接認めたがらない。
 
印欧語のように文法に時制 (tense) というものがあれば、非現実 (考え) の独立した三世界 (前世・現世・来世) を文章内容として表すことが可能になる。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。だが、日本語の文法には、時制というものがない。だから、非現実 (考え) の内容は、日本語の文章にはならない。そして、日本人は、無哲学・能天気の状態でいる。
 
(私)
どの国でも、一般の人々は、教養以上の哲学はないと思います。私もそうです。シャロームだけが、すべてを知ってるつもりで、すべてに意見を書けると思っているようです。超常的能天気だと思います。日本語に時制がないというのは、よく分かりません。過去形・現在形・未来計という文法のこととは違うことなのでしょうか。言語文化における思いの中の時制ということでしょうか。
 
>そこには歴史上で宗教戦争を繰り返してきた一神教に対する抵抗、暴利をむさぼる宗教団体への嫌悪、複雑になりすぎ解釈不可となった仏教からの逃避などさまざまな影響が垣間見れるが、いずれにしてもセキュラリズムが現世の周りに築いた塀があまりに高く、日本が「神」を直に見つめることが出来なくなったことに負う。
 
(私)
個人的な信仰と、学問としての考察は、この記事の二人がしているわけですが、できもしないのに、しているつもりなのが、シャロームです。
 
日本語は、’今・ここ’ に根差した言語である。時制のある文章によって表現される非現実の世界とは、縁のない言語である。だから、日本人が神を考えるときは、非現実 (考え) の神ではなく、現実の中に存在する実物の神(現人神) になる。これなら、日本人も信じることができる。この神は、見ればわかる。わかりやすい。
 
(私)
シャロームは、そういう現世的な奇跡を信仰だと信じているので、現世のそれ以外の現実において恥ずかしさなど、何も感じないのでしょう。
 
>我々がその塀の中でいくつもの手製の神を弄んでいることにもう気づかねばならない。
 
日本人が ‘手製の神’ に気が付いても、言語の壁を破ることは難しいでしょうね。我々は、使用言語の変更を決断する必要があるのではないでしうか。
 
(私)
まさに、自分の欲望を叶える手製の神を信じているのが、シャロームです。シャロームは、結果として、自分が引用する記事の大方において、自分の完全性と無謬性を信じ込んでいるために、文章を読んでも、客観的であろうという姿勢が皆無です。そのために、引用した文献に自分が斬られていることに、全く気づかない人です。
 
> 現世の中に閉じこもっていたのではその現世すら見えなくなるだろう。
 
そうですね。日本人は、今が現世であることに気づくこともむずしいでしょうね。
 
>井の中の蛙が井戸とは何かを知らないのと同様、孫悟空が釈迦の掌の上を得意に駆け回っていたのと同様である。> 生きているうちに現世から出ることは無理だが、現世のしがらみから意識を解き放ち現世を見つめなおすことは可能である。
 
そうですね。それには、前世・現世・来世の内容を考えればよい。
 
(私)
むしろ、知りうることと知りえないことを、はっきり区別しなければいけないと思います。シャロームは、それが出来ないために、信仰(神)=我執(己)となっています。この誤謬の害は、はかり知れません。
 
> 生を受けて魂が宿ったその肉体が朽ちるまでの数十年の時、それが人ひとりにとっての現世である。>国家が興り滅びるまでの一時代、それが一つの国の現世である。
>人が人としての営みを始めやがて地上から消滅するまでの間、それが人類のための現世である。>ビッグバンに始まる時空の拡張が終結し、そしてもとの一点に再び集束するまでの時間、それが宇宙の現世である。>つまり、意識が肉体や国や地球という媒体に宿ることで生まれる時を現世といい、その媒体が滅びるとともに必ず終わる刹那なるものである。
 
(私)
「現世」という言葉を使っているのは、人間だけなんですけど・・。
 
>現世での時を終えた人の魂は来世に迎えられ、来世での行き先が天国か地獄かは現世での行いが秤にかけられ裁かれる―多くの信仰で説かれるこのことを拒むかぎり、時が尽き果てるまでセキュラリズムに操られ続ける。
 
(私)
私が考える信仰は、天国という地上で知りえない来世についての思い込みや呪文ではなく、現世という困難の中で生きてくる信仰です。信仰は生きている人間のためにあります。
(私)
来世を固定して思い込むことは、既に現世において超常の魔界を信じることに他なりません。
(私)
それを無にして、来世のみならず、現世をも超常解釈に変えてしまうシャロームを批判しています。害があまりにも甚だしく想定されるからです。その害は、まさに、シャロームの現世の生き方によって、とても正視に絶えないものとして、表れているからです。
 
そうですね。現世主義から逃れるためには、三世界の考えが必要ですね。三世界の内容を展開させるためには、時制のある文章が必要ですね。言語の問題にどう対処するのかが根本の問題ですね。
 
>セキュラリズムの語源saeculumの原義はやはり「時間」である。>そして来世、そこでは時は流れない。
 
来世も現世も来世も時は流れない。それは、非現実 (考え) だからである。されど、現実界は千変万化する。として、日本人は、流されている。だが、何処にも移動しない。ただ、現実にとどまるしかない。
 
(私)
それゆえに、シャロームをはじめとする超常信仰は、来世までも時制を除いて既遂としてしまいます。現世に胡座(あぐら)をかきながら、来世の超常を夢幻の陶酔のうちに過ごしているのです。その現実逃避の害も計り知れないものがあります。
 
>日本の先祖はそれを常世(とこよ)と呼んで知っていた。>時の流れがないことは「永遠」を意味する。
 
日本人は、千変万化する世の中で、永遠への想いを馳せる心境を求めている。
 
(私)
それを安易に求めて、自分に都合よく、得られたことにしているのが、シャロームです。
 
> 大海への通い路を絶たれた入り江の如く、来世から切り離された現世は淀み、穢れ、毒を放つ。>その毒が時につれ濃さを増しこの酷すぎる現代に至った。
 
そうですね。理想 (来世) から切り離された人間の精神は腐ります。
 
(私)
確かに、表れてきたことから察するに、シャロームという人間の精神は腐っています。
 
>これはひとえに「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に納めよ」として現世の善悪を現世の法で裁いてきたセキュラリズムの結果である。
 
そうですね。野球のゲームをしているのと同じことですね。画期的な進歩が無い。
 
(私)
確かに、書けばいつも、ベタな空想しか書けないのがシャロームです。画期的な進歩など全く無い。
 
>現世に生まれた事象の善悪の判断を、同じく現世生まれの科学と理論に頼っていては遠からず己の毒に毒されることになる。
 
そうですね。我々の求めている人間性が阻害されていますね。
 
(私)
シャロームは、人間性を求めていないので、神がかりとなり、なおさら厄介です。
 
>カエサルのものは神に還されなければならない。
 
そうですね。我々の現実は未来 (非現実) への足掛かりとしなくてはならない。これが、我々の進歩です。
 
(私)
非現実を既遂としてしまって、現実を未来への足掛かりとすることが出来ず、何の進歩も期待できない程に固まってしまっているシャロームは、またしても、他者の記事に斬られていることに気づかず、味方であるかのように悦んで、転載しています。
(私)
シャロームが読めば、必ずと言っていいほど、誤読と曲解に至ります。シャロームが書けば、必ずと言っていいほど、無制限の妄想話に奔逸してゆきます。
(私)
シャロームのような妄想的言説の害は、計り知れないことを、図らずも、この記事は、伝えているようです。妄想から妄想へ、遠慮も思慮分別も、自他の分化も、人間の発展性も、めちゃくちゃにしてしまって悔いないのが、理路も共感も成り立たないシャロームなのです。
 
 
(私)
コメント欄は、シャロームだけが、悦に入って書いています。悲惨です。
転載元のブログ主は、レスせずにスルーしています。賢明な判断だと思います。
シャロームは、誰も関わってはいけない人です。
 
<コメント欄>
 
(シャローム
「日本人が ‘手製の神’ に気が付いても、言語の壁を破ることは難しいでしょうね。・・・・」
それはそうでしょうね。
カエサルは現実、この世の神であり、死すべき神であり、偶像であり、驕れるもの久しからずの過ぎ行くものでしかありません。
 
(私)
シャロームは、手製の神に気づいていません。中身のない文章を書く者は、このように余計な修飾を、思いついたままに、くどくどと並べることになります。シャロームの場合は、これが、ボロクソ節になるのです。ボロクソ=内実皆無。
 
(シャローム
しかし、聖書で証しされている神はこの世の神ではなく、永遠の絶対的人格神であるこの過ぎゆく現実、この世界の創造者であり、統治者であるという信仰、存在との出会い、関係なしには、理解なしには、山本七平さんによる空気という言葉の理解は単なる言葉の引用でおしまいになり、やはり時制なき、人格なき淀んだ空気、水たまりのようなものでしかなくなってしまうでしょうね。
[ shalom ]2019/7/8(月) 午前 8:23
 
(私)
あちこちから仕入れた言葉を並べて、神への讃美言葉を並べていますが、このような中身のない讃美は、ボロクソ節と表裏一体であり、だから、神をボロクソに褒めている、とも言えるでしょう。それは、正当な讃美ではなく、むしろ冒涜なのです。
(私)
成り立たないのに、意地で、覚えた言葉を並べて書いて、しかも、自身は、神との関係が出来上がっているという訂正不能から自慢して、他者の有り様をけなすのが、シャロームの、まるで、宿命的、宿業的な、体質となっています。
 
(シャローム
すべて淀んだものは腐り、
 
(私)
シャロームのことです。自分の水たまりの中をぐるぐる回っているだけなのです。腐った体液の循環とともに腐っているところからのボロクソ節です。
 
(シャローム
絶対的人格神との関係なしにはこの現実のすべての存在は人も含めて朽ち果ててしまいます。
 
(私)
その神との関係を、罪を認めず、悔い改めない、という、どこにも存在しない信条で壊して、悦に入っているのがシャロームです。そして、どんどん、その思考も感受性も言論も思考も朽ち果ててゆくのでしょう。
 
(シャローム
山本七平さんの空気論は絶対的人格神への信仰なしには生まれることのない言葉であり、現実理解のようです。
 
(私)
シャロームには、全くできないことです。また、この記事について分かっていないことが明らかになるだけのコメントを書きながら、べた褒めすることで、ごまかしています。
 
(シャローム
そのことを小室さんは指摘しておられるのですが、絶対的人格神は有限な死すべき人の知性や言葉では理解、把握を越えている永遠、普遍の存在ですから、現実理解のために、空気論を利用しても、その意味することを理解することは難しいでしょうね。
 
(私)
シャロームは、この記事が、自分の味方になると思ったのでしょうか。実際は、どうでしょう。人の知性や言葉では理解、把握を越えている永遠、普遍の存在である神を、まるで、自分に宿っているかのように、神の啓示だから議論の対象にならない、と言い張ったのは、シャロームその人であります。
(私)
そのようなシャロームの勝手になるような神は、どこにも存在しないということがシャロームには分からないのです。シャロームの自分を神聖とする見方は、結局、訂正不能の妄想でしかありません。
 
(シャローム
イスラエルには天から降ったヘルモン山の雪解け水が流れ込んだ水が淀み、死の海となっている死海がありますが、この世界の文化、宗教という空気が海に流れ込み、淀んだ空気のたまり場となったところが極東の地の果ての島国である日本のように思われますね。
[ shalom ]
2019/7/8(月) 午前 8:23
 
(私)
唐突に、何度か書いてきた外国旅行の話をして、日本をボロクソに言うことで、自説に箔を付けようというのでしょうか。シャロームの語る神=結局シャロームは、おぞましい有頂天の、人知を超えて宇宙に放り出したい身の程知らずであります。
(私)
シャロームのようになったら、訂正不能つまり学習不能となり、おしまいと申し上げます。決して、シャロームに近づかないでください。シャロームは、罪深さも何も自覚していません。シャロームは、キリスト者ではありません。妄想病者です。
 
(シャローム
nog*t*raさん おはようございます
転載させていただきました。
[ shalom ]
2019/7/8(月) 午前 8:56
 
(私)
今日も、場違いなところに、自らの醜さに気づかないために、相応しくない者が、しゃしゃり出て、笑われないように結果の不感不応を決め込みながら、思い付きと受け売りの言葉をまき散らしています。シャロームの記事やコメントに、寒気や気持ち悪さを感じない人は、シャロームの病に感染している可能性があります。
(私)
シャロームの丁寧語は、ボロクソ節と一体ですから、シャロームは、読者を、やさしい丁寧な言葉で誘い、同じ息を吹きかけて、臭いボロクソの仲間にしたいだけなのです。シャロームは、奇跡で救われるから人間性は必要ないと言って、それを訂正していません。
(私)
既に、似たような人間離れを起こして、言うことが、小学校の道徳のレベルに堕ちている人がいるようです。シャロームに関わって、妄想やカルトに感染して、人間性の深い可能性を、棒に振ることのありませぬように。祈ります。拝。
 
 
(2019年07月09日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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