ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教の凶暴性

 
  アドラー教の凶暴性
 
 
私は、楽山が宣伝していたアドラー心理学はカルトである、
と見なして、アドラー教と名付けることにして、批判してきた。
私の批判記事は、「いびりのような当てつけ」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20024186.html
前に記事にしたことがあるが、
 
批判対象記事は、
「人は人、自分は自分」という考え方 (アドラー心理学)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41442356.html
楽山のブログ
 
どうも、ネットで宗教を伝えているものの多くに、その影響を受けたのではないかと思える者がいるような気がしてならない。批判しても、無視する。反省しない。自己肯定が過剰である。礼儀で関わるかどうかを決めている節がある。
 
元々の意味を詳しくは知らないが、最近、多いと感じるあり方として、嫌なことは無視して、反省をせず、自己過大評価となり、礼儀の交わりだけを持つ風潮があるようだ。
 
このような人は、真実の追求に関わってはいけない、というより、真実を追求するような言動を捨てた、と言ってよい者たちである。礼儀作法の丁寧さだけで交流し、実のある議論や、悪に対する戦いや、刷り込み以外の福音伝道など、何も出来ない精神性である。
 
前に書いたところの、いい言葉は、いい意味に受け取りましょう、という、カルトの格好の餌食となる人々と、ほぼ同じである。
 
アドラー心理学の教え?
学問は、こうすれば、こうなる、ということを教えても、どうしろとは教えない。
以下は、明らかに説教であり、
ゆえに、アドラー心理学は、学問の名を借りた宗教である。
 
1.あなただけは、あなたを否定してはいけない。
 
 これは、自己肯定を表すようだが、反省不要に自己中心に悪用される恐れがある。
 楽山、シャロームは、その代表であり、
 楽山は、アドラー教の宣伝をしており、
 シャロームは、その楽山と仲良しであり、人それぞれ、という言葉を、
 好き勝手し放題で、罪を悔い改めず気にしない信条を持っている。
 これは、キリスト信仰に反しており、アドラー教に近い。
 もし、キリスト者が、アドラー心理学と言う学問のの名によって、
 アドラー教を宣伝するようなら、他のキリスト者は闘うか逃げるべきである。
 
 何と、軟弱な、宗教世界になってしまったものだろう。
 しかも、入り口は軟弱だが、固まってしまうと、
 自己中心となるのは、人間世界を破壊しかねないと思う。
 
 何教であろうと、心理学だからという気安さで近寄られれば、
 アドラー教の影響を、いつ受けるか分からないのである。
 
2.気に入らない意見は、無視しましょう。
 
 これが最も凶暴であり、
 自分の気分や都合だけで、他者を無視することを教えている。
 自分の持っている正しさだけに安住する生き方であり、
 キリスト信仰においては、最も凶悪な敵となるだろう。
 
 キリスト信仰は、気に入らない意見に、すべて耐えなさいというわけではないし、
 耐えられなくなったら、逃げ去ることも必要だが、
 無視してしまうと、不都合な総てから、顔を背けることになりかねない。
 
 つまり、試練からも、罪からも、目を背けることになる。
 これでは、信仰は成り立たない。
 成長しない、さらに、成長を拒否することになるからだ。
 
 一方では、やさしい言葉による擦りこみには騙されやすくなる。
 そのような、優しい言葉だけで交流している宗教、
 あるいは、宗教周辺の人々の交流は、気持ち悪いことがある。
 忖度し合って、刺激しないようにしていることは、
 つまり、深いことは何も語らないということだ。
 
 実際、彼らの言っていることは、小学校の道徳のように単純で、
 時に幼稚だと感じる。そして、それで、賛同し合っているのだ。
 いったい何の社交界か同好会なのだろう。
 キリスト者は、このような交わりを、断じて避けるべきである。
 
 キリスト教、キリスト信仰や、
 他の宗教や学問の名を騙る場合もあるだろうから、
 ともかくも警戒してほしい。
 
3.あなたの為に時間を使うのです。
 
 他者のために使う時間を否定するのだろうか。
 
 このように、アドラー教は、徹底した自己中心主義である。
 
4.失礼な人の相手をしてはいけない。
 
 そして、付き合うかどうかを、礼儀で判断している。
 恐らく、アドラー教の蔓延しているところでは、
 みな、似たような喋り方になるだろう。これは、カルトの特徴でもある。
 
 真実の追求をする場合には、礼儀は邪魔なだけであり、
 礼儀によって判断されるところでは、真実は語られないし、成立しない。
 
 
甘い言葉、シャロームの丁寧語や、楽山のボンヤリ言語などですが、
他にも、どんな語り口や宗教の仮面をかぶっているか分かりません。
アドラーの名が付くかどうかも分かりません。
上の、殆ど信条と言っていいような、1~4を覚えてほしいです。
誘われたら、危険を察知していただきたい。
 
アドラー心理学は、
アドラー教という名前ではなく、自己中心カルトとして、
今は、潜伏し暗躍しています。
柔和、丁寧、やさしさ、みな、捏造した見せかけの偽物です。
 
いつまでも、目立たないならば、大きな集団にはならないでしょうが、
アドラー教そのものが、思考を停止させ、情緒を鈍麻させるので、
人間破壊につながります。そういう人が、宣伝しているからです。
 
そして、アドラー教に似た信条を持っているのが、シャロームであり、
いつも、信仰は人それぞれ、決めつけはよくない、押しつけはよくない、と言って、
批判を、嫌い、拒否して、無視して、受け取らない姿勢は2.に相当します。
 
アドラー教徒は、とても、陰気で、暗くて、
口数は少ないが、深い怨念を持っているような気がします。
 
大事なのは、アドラー教徒は、礼儀のようなことを言いながら、
決して礼儀で収まらないような
大きな宗教というテーマに干渉し影響してくるということです。
知らないうちに、道徳のように、身に沁みついてゆくことを狙っているようです。
彼らに、心を許してはなりません。
 
アドラー教徒より、世俗の反骨精神で活躍している人のほうが、
よっぽど、人間らしい活性を持っていると思います。
 
アドラー教徒は、礼儀のみの集団として、自分の好きなことだけに熱中するが、アドラー教の信条を真理だと思っているので、あちこちで、機会あるごとに、それを宣伝するでしょう。
 
彼らは、実に、こちらを言うことを、完全に無視したまま、同じ言い分を、既に否定されていても、まるで、初めていうかのように、平気で、同じように言ってくるでしょう。成長する気のない者の特徴です。それが、彼らの言論なのです。不感不応の自己中心が、彼らの信条だからでしょう。
 
集団の力をつけてくるころには、何らかのトラブルを契機として、批判者を敵として、迷惑行為に出る可能性があります。それが、カルト集団の怖さなのです。
 
それを指導しているのは、恐らく、相当な悪知恵と悪意であろうと思われます。これは、楽山、シャローム、易坊、という、成りすましを疑っている3人格には、よく当てはまります。
 
 
(2019年07月20日、同日一部修正)
 
喋る(しゃべる)
捏造(ねつぞう)
狙う(ねらう)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp (更新、コメント不可)
http://st5402jp.livedoor.blog/ (移行スピードは速かった)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html