ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

主よ、お救いください

 
  主よ、お救いください
 
   主よ、お救いください。(詩編12:2)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41562911.html
   楽山のブログ記事。2019/7/20(土) 午前 8:00
 
 
悪質な、刷り込み屋の楽山と、
コメントでは偽キリスト者のシャロームが出てきます。
 

先日から、
聖書の詩編を読んでいるのだけども、
この一節にはハッとさせられてしまった。
主よ、お救いください。
(詩編12:2)
ここまで率直に、
自分の気持ちを口に出せる人は幸せだなあと思う。
自分も以前はそんな風だったと思うけど、
最近はどうも、
人に対してはもちろん、
神様に対しても、
あれこれ考えては遠慮してしまうことが多くなっている。
人でも、神様でも、何かを頼みたいときには、
「こんなことをお願いしたら迷惑かなあ…」などと考えて、
結局は諦めてしまうのである。

 
楽山のこの筆致は、先ず、演技なので、信用しないでください。
私は、これを、ボンヤリ言語と呼んでいます。
今までの経過から、楽山は、神など信じていません。
全くの冷やかしに過ぎません。
まだ、言ってくるのは、底意地の悪さです。
 

でも人に対してならともかく、
神様に対してなら、
もっと率直に自分の気持ちを口に出してもいいのかもしれない。

 
かもしれない、かなあ、という言い方が得意の、ボンヤリ言語です。
曖昧な言い方をわざとして、柔和と、共感ある態度を、装います。
迷える求道者芝居と言ってよいでしょう。
文書全体が、揶揄と言ってよいでしょう。
 
私は、とても、気持ち悪いのです。心の中で、ニヤニヤしている感じがします。
かつ、楽山は、偽善的妄想教理を広めようとするシャロームのお仲間です。
 

主は言われます。
「虐げに苦しむ者と
呻いている貧しい者のために
今、わたしは立ち上がり
彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」
(詩編12:2)
もし神様がこういう存在なら、
救けてほしいときは、
「救けてほしい」と率直に頼んでもよさそうではある。どうかな。

 
よさそうではある、どうかな、ボンヤリ言語です。
楽山の、ああでもない、こうでもない、みたいに言いながら、
シャロームの肩を持つやり方は、丁寧を装う偽善です。
どうなか、ではありません。楽山は、違うのです。
 

楽山さん おはようごあいます。
素直になれない心のままにしてもいいのですが、
そうもいかない心ですよね。
それがすべての問題の根っこのように思われます。
2019/7/20(土) 午前 9:11[ shalom ]返信する

 
そして、このシャロームは、キリスト教?を教えたがりますが、
罪を認めず、悔い改めない、カルトであり、反キリストです。
にもかかわらず、聖職者気取りで、教えよう、教えようとします。
 
さらに、楽山とシャロームには、同一人物の成りすまし疑惑を持っています。
さらに、易坊という最も悪質な荒らしを加えて、
3者への成りすまし疑惑でもあります。
二人のコメントの遣り取りは、お仲間同士だけではなく、
独り芝居である可能性があります。
 

そうですね。
 素直で、率直で、正直になりたいものだと思います。
 一言でいえば、幼児のように…ということかな。
2019/7/20(土) 午後 0:13[ 楽山 (自由) ]返信する

 
嘘です。シャロームが、困ったときには、幼児のように、
という聖句を悪用して、そうでない批判者をおとしめ、
自分が幼子のような信仰と、正当化します。しかし、嘘です。
シャロームも、楽山も、平気で嘘を吐きます。
幼子は、意図して嘘は吐いたりはしません。
 
彼らの言う、幼児のように、というのは、
逆らうな、というカルトの威嚇に結び付くことです。
ゆえに、悪意に基づくものです。ずっと、そうなのです。
 
まことに、楽山とシャロームのきれいごとは嘘であり、
その悪性度だけを増してきたのです。
 

> 楽山 (自由)さん
素直で、率直で、正直になりたい」
幼児はそんなことすら考えませんね。
ありのまま、そのまま、存在そっくりそのまま、すべてをまかせるとも思わず、委ねるのでしょう。
言葉ではうまく表現しきれませんね。
2019/7/20(土) 午後 0:18[ shalom ]返信する

 
シャロームは、神聖を軽く見て、幼稚に短絡して信じ込んでいるだけです。それは、考えるべきことも考えないということです。それを、シャロームは、幼児のように、という聖句に当てはめて、自らの無思慮と無分別を正当化してきました。
シャロームは、素直、率直、正直、いずれも持たない大嘘吐きです。
 
信仰の実質がないから、楽山も、シャロームも、
なにやら、おまじないのような言い方になります。
それが、言葉をいじくるだけの言葉遊びになり、
中身のあることを表現しきれない原因です。
 
人間離れの神がかりで、いくら言葉をいじくっても、
けっして信仰を語ることは出来ません。
 
楽山も、シャロームも、知らないまま、考えないまま、生きているのでしょう。
だから、信仰についても、ベタな先入観しか土台がないのです。
神は、こうだと、語れる人はいませんが、騙(かた)っているのが、この二人です。
 
信仰を語るとは人間を語ることです。
人間としての経験を語ることも、
人間としての敬虔のあるべき姿を語ることも、
人間としての思慮があれば出来るのです。
 
信仰を語ることは、信じている人間を語ることです。
信仰のあるべき姿を語ることは、人間としての信仰者のあるべき姿を語ることです。
 
人間から離れたところで信仰を語ることは出来ません。
信仰は人間から離れることはありません。
信仰は人間のためにあるからです。
 
 
(2019年07月24日)
 
 
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