ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

仲間で自己満足(1)

 
  仲間で自己満足(1)
 
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/GUEST/41469556.html
  楽山ブログのゲストブック。
 
 
ふだん書くコメント欄ではなく、楽山のゲストブックで、お仲間同士、同じ決めつけで満悦し合っています。情けない人たちです。
何故、ゲストブックに書くのでしょう。それは、記事とともにあるコメントより目立たないからです。それが都合の良い連中なのです。
 
>>気に入らない意見は、無視しましょう。
 人の意見を変えさせようとするのは、無意味です。
 他人の考えを変えられる人間は、この世に存在しません。
 他人の意見がどうも納得いかないのなら、その人と距離を取るしかありません。
 他人の課題に介入できないと割り切って、自分のことに集中しましょう。
https://twitter.com/adler_salon/status/1051230439216562177
>一応は、どんな意見も聞いておいた方がいいのではないかという気はするが、やたらと難癖をつけてきくるとか、的外れ、嫌味、嘲笑、中傷…というものは無視するのが正解だろうとは思う。
どうしてもウマが合わず、相性が悪い相手とは、距離を取るしかないというのもよく分かる。
 間違っていることをしている人に対しては、きちんと意見してあげるのが親切だという考え方もあるけれども、その者が子供ならともかく、大人であれば、一、二度意見すれば十分だろう。その後どうするかは本人の課題。
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41442356.html
2019/2/26(火) 午前 5:50 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
批判は、相手を変えるためとは限らないと、前に書いたのだが、楽山は、そのことを、また、無視しているようだ。今は、邪悪な、楽山とシャロームを、知らせるのが目的。
 
(楽山)
私の意見は要約すれば、「どんな意見にもきちんと耳を傾けるべきだろうけど、あんまりおかしい意見はスルーしてもいいだろう」ということ。
アドラー心理学サロンさんのツイートに関しては、この方はもともと激しい言葉を使うことが多いようだし、一行目なので意図的に極論を述べたのだろうと想像します。
こういうことは、記事を読めばすぐ分かることだけども、stさんはなぜか、私の主張は「気に入らない意見は、無視しましょう」というものだと吹聴している。
こういうのはやめてほしいです。
2019/2/26(火) 午前 5:52 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
気に入らない意見を無視しましょう、の中に、激しい言葉という要素は入っていないが、自分の恣意という強圧で選んで、取ったり切り捨てたりしているのは、シャロームも楽山も同じ。
(私)
今さら、何を言っているのか。それに、やさしい言葉だけで、宗教を語れるというのも、大きな間違いである。さらに、批判を激しい言葉と決めつけ、悪口雑言に対する扱いとしていることが、この発言で明らかとなっている。気に入って耳を傾けたいと楽山が思うかどうかで決めているのだ。
 
(楽山)
あと、アドラー教の信者とか何とか書いてたりするけど、記事を読めばわかる通り、私の考えはある程度の距離を保つのがよいということです。信者にはなるなということ。
いつぞやは、私とshalomさんが軽い挨拶を交わしていたら、stさんが「二人は親友ですか」と聞いてきたことがあったと思う。随分と素っ頓狂なことを言う人だと思ったけど、どうも空気を読むとか、距離を測るとかは苦手な方のようだし、ここは気をつけてほしいです。
 
(私)
しっかり、かばい合う仲間です。これも、今さら、何を言う。
 
(楽山)
>以上、アドラー心理学サロンさんのツイートをみてると、あまりに直截的で、みもふたもないなあと感じることがないでもない。
でも一面の真理を語っているようだし、自分を大切にするのには有用な考え方であると思う。あまりどっぷりハマり込むのは問題だろうけれども、参考意見として読む分にはよさそうである。〈了〉
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41442356.html
2019/2/26(火) 午前 5:53 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
嘘です。すっかり自己中心教にして、広めようとしている。
 
(楽山)
>立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20101472.html
これは放蕩息子の話とのことですが、この部分を読むと、先にゆるしがあるのではないでしょうか。
2019/2/26(火) 午前 5:54 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
面と向かって、直接言わず、こんなところに書いているのは、言いがかりに過ぎない証拠。息子への断ちがたい愛と、ゆるす行為を、混同している。こういうことで、悔い改めないシャロームが何をやっても赦されるという妄想に同調したから、楽山は、汚い人として、シャロームの仲間として、批判対象となった。今も、これも、汚いと思う。
 
(楽山)
上の文章は、整理するとこうなるでしょう。
・子は父に謝ろうと決意する。
・父は子の姿を遠くに見た瞬間、走り寄り抱きしめる。
・子は父に悔い改めの言葉を述べる。(父は子から悔い改めの言葉を聞く)
こうしてみると、父は、子の悔い改めを聞くより先に、その姿が遠くに見えた時点で、すでにゆるしているようです。
 父は、子の悔い改めを知るより先に、ゆるしてる。
 
(私)
仮に、息子が父を殺しに来たのであっても、それが明らかになるまでは父の息子への愛は立ちがたい場合はあるだろうが、赦す行為は、息子が、殺す目的ではなく、謝りに来たから成立する。この場面でも、楽山は、文字面しか追っていない。そして、それで、主張が成り立つと思っているから、恐ろしい。
(私)
仮に、父が走って行ったとき、息子が父を殺したなら、傷つけただけでも、赦しようがないのだ。その場合、父は息子を溺愛するあまり、その意志を取り違えたということになる。
(私)
父は、愛ある人のようだが、楽山は、それに乗じて、殺しても、それより先に赦していると、赦しというものをシャロームの都合に合わせている。楽山は、人間の気持ちが、まるで分らない人。ゆえに、この話が聖書に乗っているということに思いが至らない人。それは、丁寧なだけの深みのない話として、随所に表れてきた。
 

子の視点からすれば、悔い改めのあとにゆるしを得たように思えるかもしれないけど、
父の視点からすれば、ゆるしが先だったということ。

 
(私)
父は神のたとえ、子は私たちのたとえ、楽山は、ふざけた狂言者。父にも、子にも、値しない。
 
(楽山)
ではいつゆるしたかと言えば、話の最後に「いなくなっていたのに見つかったのだ」と父が言って喜んでいることからすれば、子がいなくなったときにはすでに、ゆるし、その身を案じていたのかもしれません。父が子をいつゆるしたかは明文ではないようだし、この辺りの議論はなかなか決着はつかなそうだけど、私はこのように想像します。
2019/2/26(火) 午前 5:58 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
どこまでも、心を思わず、言葉面を追うだけで、主張する楽山。
父は神のたとえ、子は私たちのたとえ、楽山は、シャロームが父を殺してゆくのに、味方をしているようなもの。言い逃れしかできない者。案じている愛と、赦しは別。赦しは、神事として、たとえられていることを想像できない楽山は、聖書を読んだことにならない。これからずっと黙ってほしい。
 
(楽山)
>15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
>15:10よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
この部分だけを読むと、天は、悔い改めをよろこぶようです。悔い改めによってゆるすではなく、よろこぶとしている。
これは、ゆるしは悔い改めより先行していたことを示しているのではないでしょうか。
 「天は人をゆるし、その悔い改めを待つ→人が悔い改める→天はようやく気づいてくれたとよろこぶ」という流れ。
 人は悔い改めによってゆるされるというよりは、悔い改めによってゆるしに気付けるという一面もあるかもしれません。
2019/2/26(火) 午前 6:00 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
楽山は、恐ろしい詭弁で、自己正当化をして、シャロームをかばいます。神を登場人物のように扱って、時系列をくどくどと言う。
(私)
悔い改めによって赦しに気づく、悔い改めるまでは赦しに気づかない、即ち、悔い改めない限り赦されることにも赦されたことにも気づかない、これこそ、人が赦されていない、赦しを受けていない、という状態。つまり、人間は、悔い改めなければ、赦しを受けることはない、これは、現象として、シャロームが赦されていない状態ということだ。
(私)
にもかかわらず、シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されると言って、はばからない。楽山の狂言は、心が無いので、それになびく。
(私)
息子が、悔い改めないならば、そのことは、そのうち知られ、もし仮に父が赦せば、いかなる悪事でも赦されることになる。このことに気づかないのがシャロームと楽山の情緒と理路の腐敗である。いくら詭弁を弄しても同じだ。楽山は、難癖をつけるだけで、良識のない、思っていた以上の無知で非常識。
 
(楽山)
>決して、何もわからないまま、赦しを先に与えて何でも好きにさせる、などということではありません。これらの人は、シャロームや楽山の自分勝手とは全然違うのです。<
 私の意見は、そうではなくて、こうです。
・『ゆるしが先で、改心があと』という考え方がある
・これはそれほど特異な考え方ではなく、これをもってカルトとはいえない
・『ゆるしが先で、改心があと』と信じなければならないとは思わないが、そういう考え方があることは認めるべきだし、それをもってカルトとはいえないだろうということ。
 
(私)
自分勝手とは違うという意見を、そうではなくて・・と平気で言ってしまうのは、異常な思考の証拠。楽山は、体質的に、分からないようだ。何をしても赦される、などという信仰は、人をシャロームのようにダメにするから、ありえないことが。
 
(楽山)
stさんは、人の心を悪く想像し、その意見を歪曲して非難するということを繰り返してます。気をつけてください。
2019/2/26(火) 午前 6:02 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
楽山は、シャロームの心を良いほうにばかり解釈し、その良識を曲げて、かばうということを繰り返している腐った思想の持ち主。気をつけて、というより、罠に嵌らないように近づかないでください。
 
(シャローム
>神について、もし、赦しが先という表現が成り立つとすれば、それは、総てをご存知の神が、赦したのではなく、全知全能の神として、人が罪を犯すことを既にご存知であり、人の悔い改めよりも先に寛容な赦しの御心を持って、悔い改めを待っておられる、という意味でしか考えられません。決して、神が、前もって罪を許可して、好きなようにしてよい、ということはないのです。<
ゆるしが先ということについては、私としては、これだけで了解してもらえれば十分です。
ゆるしが先という意見があり、それにも一理あることを了解してもらえれば、賛成、共感、支持までは求めてませんので。
2019/2/26(火) 午前 6:03 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
シャロームは、好き勝手にしているのだから、楽山の言い分は、危険であり、一理もないと思う。だから、こんなところに、こっそり書いているのだろう。関係者である私に知らせもせずに。そして、成り立たないものだから、受け入れに見せかけた言葉を並べている。予想以上に狡猾だと分かる。
 
(楽山)
少し話は変わるけど、放蕩息子の話を解釈するには、仏教の長者窮子の知っておいて損はないと思います。
これを読めば、神仏の慈悲や、ゆるしが先という考え方をより理解できると思います。
・放蕩息子(新訳聖書)は長者窮子(法華経)のコピ-か?
https://blog.goo.ne.jp/niohin/e/295c57b11a7d9cfb69aced5fcc2706ee
・長者窮子の譬え
http://www8.plala.or.jp/kanjizai/M26.html
 http://www8.plala.or.jp/kanjizai/M27.html
2019/2/26(火) 午前 6:04 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
聖書を、人間の普通の読解力を持たずに詭弁に変えるほど、読めない者の話を聞くと思うのだろうか。本当に状況も読めないようだ。
 
(楽山)
>こうして自分のことを言って、柔和に対処しているつもりの保身です。
>答えられず、読まない、しない、流される、主張しない、我慢、と
自身が謙譲することによって、傷つけなかった、傷つかなかったと、
 楽山は、アドラー教に照らして、気が済むのでしょう。<
>権利主張したり、戻っちゃった、反省、などと書いて、
楽山は、手をデスクか何かについて、寄りかかり傾いて、
反省したのでしょうか。いつぞやのテレビの、猿のように。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20102535.html
また、stさんは他人の内面を悪く想像し、決めつけ、貶めてる。これは悪い癖です。
2019/2/26(火) 午前 6:04 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
悪いものには、悪い喩えしか用意されない。それを、自らを省みもせずに、あげつらう根性も汚れた保身の根性である。楽山の柔和は、気色の悪い偽善に満たされている。心に弱みを持つ者を餌食にするペテン師の生業である。
 
(楽山)
>ゆるゆると、遠回しに、他者の言葉を借りて、人を侮辱してきた楽山です。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20102535.html
人を猿よばわりしつつ、こういうことを書くのはよくないです。
それに先日は、私の名前を、不自由さんとか、安楽山とか変な呼び方をしてバカにしてた。
こうしてみると、人を侮辱するというのは、自分の姿を他に見てるだけのような気がします。
ちなみに、ヨシュアさんはエグゼルさんの名前を変にしたり、猿よばわりしてた。この点、stさんとヨシュアさんは同じです。
2019/2/26(火) 午前 6:05 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
丁寧な言い方が一切通じない、ボンヤリ言語で、ごまかす楽山には、人間離れの比喩となり、とても人間とは思えないことをはっきり告げておきます。無駄なのは、二人とも、人間としての理解力がないからだ。だから、読者に向かって警鐘を鳴らす必要がある、そういう人がいると。
 
(楽山)
>シャロームは、相手が低く出てくれば、さらに、さらに、舞い上がります。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20102535.html
これも、shalomさんというより、stさんご本人のことと思います。
shalomさんはどこでも誰に対しても、大体同じ態度です。
でも、stさんは大分ちがう。
たとえば、stさんは、shalomさんがコメントすると、楽山ブログや、よなたんさんとこには突撃してた。でも論客の易坊さんとこには行かない。
楽山ブログのコメント欄では、私が黙ってると傍若無人に振る舞い、私が意見するとピタリと来なくなった。
 
(私)
いつの発言を言ったのだろう。恐らく、厳しく言ったことを言っているのだろう。楽山の、やさしい言葉で操ったり、揶揄したりするよりは、はるかにマシと思うが、やさしいだけで、気に入って従う者もいるんだろうという状況だ。
(私)
3者の成りすましを疑っているからだ。今は、Mineを加えて4者となる。おかしなことを言う。易坊は、私のブログを荒らした50~100コメ以上の張本人だ。むやみに問い詰めを繰り返すことで、もたらされる疲労は繰り返さない。あとで、易坊が来たときには、一貫して去れと言い続けた。楽山のブログにピタリと来なくなったのは、楽山が、全く中立ではなく、シャロームの味方をして、その仲間だとバレた時です。
 
(楽山)
あと、私の文章に、st批判と受け取れるものがあれば噛みついてくるけど、マリアさんがst批判らしい記事をいくつだしてもスルー。マリアさんは反論する人だし、その背後には天敵のヨシュアさんが控えてるからでしょうか。
こうしてみると、相手が下手に出ると増長するのは、stさんの方かと…。
2019/2/26(火) 午前 6:11 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
ヨシュアは天敵ではない。批判対象であるだけだ。ヨシュアは、個人情報から罵詈雑言で罵ってくるし、途中で狂いだすので、相手にしていない。それと、シャロームと楽山のほうが、偽善者であることが分かりにくいので優先して批判することになる。読む人にとって害毒になりやすいからだ。
 
(楽山)
>楽山は、コメントでシャロームを援護したのち、直接、反論することをせず、ゆえに、黙っているかと思えば、ツイッターで、遠藤周作の文章から、善魔、という言葉を載せて当てつけ、さらに、他者の本から、赦しが先で改心があと、と書いてある文章を、よく吟味もせずに載せて当てつける、という卑怯な方法で対抗してきました。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20101472.html
ツイッターでは、趣味の他は、HS批判を呟いてます。善魔もその流れであり、HSを念頭においてリツイートしてたかと…。
また、自分の発言の根拠を示すために、その書籍の該当ページを貼るのは当然のことかと思います。それを当てつけと言われても困ります。
2019/2/26(火) 午前 6:12 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
真意は、今、隠している可能性もあり、さらに、信頼していないのだから、何を言っても不明である。しかも、こんなところで憂さ晴らしのように、当てつけて書いているのだから、それに、キリスト教に関わったのだから、おかしなことを書いてシャロームをかばった時点から、批判対象となり、批判対象にしたことは、その後の楽山の、いやらしくて気持ち悪いボンヤリ言語の刷り込みを見てからは、間違いではないと思っている。
 
(楽山)
言い難いことですが、HSとstさんには重なるところがあります。
だから、HS批判をすると、st批判に受け取られかねないこともある。
 人それぞれの記事でいえばこうなるし、
 「カルトや毒親の過干渉はスルーしてよい」
 「stさんの過干渉はスルーしてよい」
 善魔でいえばこうなる。
 「HSは、自分の正義を押し付けてくる善魔だ」
 「stさんは、自分の正義を押し付けてくる善魔だ」
この辺りについては、私の目的はあくまでHS批判にあることを理解してほしいと思います。とりあえずは、stさんを名指ししてない限りは、HSを念頭において書いてると思っていただければ幸いです。
2019/2/26(火) 午前 6:16 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
楽山は、今も、というか、ここでも、こっそり、当てつけて気分がいいらしい。
楽山の、やさしい丁寧言葉は、本当に、陰湿で、嫌らしいと感じるが、
楽山は、自覚がなく、わからないのだろう。
(私)
私が、批判する対象を決めます。HSに似てるとまで書いておいて、上のような楽山の勝手な幸い、受け取るわけがないでしょう。聞いたら、かこつけて、好きなだけ、私に当てつけるでしょうから。楽山とシャローム微塵も信頼していないことが、私の批判記事に表れているはずですが、まだ、わからないのでしょうか。状況を感じ得ないのも、カルトの自己中心のもたらす破壊なのでしょう。
 
 
(2019年07月25日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp (更新、コメント不可)
http://st5402jp.livedoor.blog/ (移行スピードは速かった)
 
 
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