ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰という偶像崇拝?

 
  信仰という偶像崇拝
 
   信仰という偶像崇拝? (『キリスト教思想への招待』田川健三著)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41562912.html
   楽山のブログ記事です。2019/7/20(土) 午前 8:04
 
 
前はコメント蘭を記事にしました。
「偶像コメ」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12496931484.html
 
今回は、楽山の本文のほうです。
 
キリスト信仰が偶像崇拝と言いたい楽山の騙しと誘導のテクニックです。
ボンヤリ言語でも、刷り込みから、邪悪な結論を刷り込んでくるのです。
 

信仰という偶像崇拝? (『キリスト教思想への招待』田川健三著)
先日、『キリスト教思想への招待』(田川健三著)を読んだ。独特の語り口の文章なので、人によって好悪は分かれそうだが、自分としては、はじめて知る話が多かったので面白かった。
というわけで、著者のことを調べてみたら、次の文章をみつけた。
神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝であり、「神とは人間がでっちあげた」ものなので、「神を信じないクリスチャン」こそが真のクリスチャンであり、自分は「神を信じないクリスチャン」であるとする。
田川建三

 
神を想像することで、決めつけでなければ、偶像崇拝とは限りません。
シャロームのように、空想で、神を決めつけるのが、偶像崇拝です。
 

これはちょっと分かる気はする。
氏の考えとは違うかもしれないが、思うに、信仰者はそれぞれ自分の心に「神はこういう存在だ」というイメージを持っているものだ。だから神を信じるときは、神そのものを信じるというよりは、自分の心に描いた神のイメージを信じることになる。そうして、自分の心に描いた神のイメージに反するものは、神として信じることは拒否する。

 
これで分かると思うのは信仰ではありません。極めて幼稚な話です。信じるということを、思い込みを信じ込むことだと理解していると、楽山のような安易な信仰話になります。
 
気に入らないことは無視する、という楽山のカルトであるアドラー教においては、
学習も成長もしないので、この考え方が、ずっと続いているのでしょう。
 

これは、偶像崇拝とされても仕方ないことだよなあと思う。偶像という物体を拝んでいるわけではないけれども、心に描いた偶像を拝み、神以外のものを神としている点では、偶像崇拝にはちがいないだろうから。

 
このように、ボンヤリ言語で言いながら、
先入観のまま、決めつけをして、信仰をおとしめているのが楽山です。
 

また、神は人知のおよばぬ超越した存在だとすれば、人が心に神のイメージを描いた時点で、それは人知がおよんだものであり、神ではない証明になってしまいそうでもある。

 
描いた時点ではなく、シャロームのように、自分の解釈と信仰観を訂正不能にした時点で、
その信仰対象は、神ではないということになり、カルト宗教だということです。
 
真の信仰者は、神が人知を超えた絶対者であるがゆえに、人のイメージで決めつけることなど出来ないことを知っています。それが神に対する恐れなのです。
 

なんか変な結論のようだけども、こう考えてみると、神を信じるのは、心の中に偶像をこしらえる偶像崇拝にすぎないとか、神を信じるには神を信じてはいけないというのは、まったくのデタラメとは言い切れないとは思う。

 
楽山の、デタラメな、反キリスト信仰話です。
このように、楽山のボンヤリ言語は、曖昧な表現をつないで、決定的な否定を導くものです。
決して、楽山や、シャロームに、心をゆるさないでください。
 

ちなみに、本来、神は人知のおよばぬ存在ではあるが、人が己の力によってではなく、神の働きかけによって神を知り、交わり、信じることは可能であるという理屈も有り得るかもしれないが、どんなに神について語ったところで、自己の神イメージによって神を語るという偶像崇拝に陥ってしまっている可能性をゼロにできない限りは、何を言っても詮無いことではある。

 
このように、曖昧な書き方の通念的先入観のみのボンヤリ言語から、神信仰は偶像だと、ゼロに出来ない限りは、というように、決めつけてくるのです。悪意と作為が全開です。性根の腐った誘導に引っかからないようにしてください。
 
楽山の道は、信仰の道ではなく、安っぽいペテンの操り人形の道、操られれば、滅びに至ります。
シャロームの道は、信仰の道ではなく、妄想確信の道、既に、滅びつつあります。
 
信仰者は、神を思い浮かべます。
しかし、それは、人の想像であり、それを思い込んで絶対とはしない心構えが必要です。
それを、信仰の節操と呼んでいます。それが分からない二人は、
キリスト者ではなく、キリスト信仰を全く分かっていない者たちなのです。
 
偶像崇拝に陥ってしまっている可能性をゼロにしない限りは」
と言っている魂胆は、アドラー教なら、アドラー心理学という学問だから安心だよ
という方向に持ってゆく汚い意図があるのかもしれません。
楽山は、実に、陰険な人です。
 
 
大切なことは、超常のお告げを知ることではない。
 
全知全能の神を知ることは、全知でも全能でもない自分を知ることです。
 
命を惜しまない救い主の愛を知ることは、
その愛に絆されて絶対孤独から解放された自分を知ることです。
 
信仰は、決して、人間から離れて存在することはないのです。
 
 
(2019年07月27日)
 
 
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