ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

敏感?鈍感?

 
  敏感?鈍感?
 
   しあわせに敏感な人
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41564610.html
   楽山のブログ記事。
 
 
相変わらず、気持ちの悪い筆致の、ボンヤリ言語です。
 

世の中には、
いろいろな人がいるけど、
その中には、
ほんのちょっとしたことでも、
喜んでくれる人がいる。

 
楽山は、喜ばせたことがあるのでしょうか。
意地の悪い、高揚気分への誘い文句です。
 
これこそ、だまされやすい人のことでしょう。
そういう恥ずかしいことを書いている自覚が楽山にはないのです。
 

小さなお土産をあげたり、
ありがとうとお礼を言ったり、
ひさしぶりに顔を合わせたり、
そんなことだけでも、
素敵な笑顔を見せてくれる人。

 
お土産、お礼、素直な笑顔、
ここに、うっかり、うなずいて、やさしさをを感じてしまうと、
楽山の腹の黒さを見逃してしまいます。
 
感情と気分の異常、いつもしあわせの、多幸症の勧めなのです。
人間というものが分かっていない人の言です。
 

こちらは全然、
大したことはしてないのに、
飛び切りの笑顔で喜んでくれる人。

 
ほんわかとした雰囲気を出しているつもりなのでしょうか。
 
人に言われて、楽山に言われて、
大したことしなくても、飛び切りの笑顔で喜ぶ人になりたいでしょうか。
 
むしろ、こんなことを、人に対して平気で言う人、引っぱたいてみたくならないでしょうか。
 

こういう人は、
しあわせの感度が高いのかなあと思う。
だから、ちょっとしたことでも、
すごくしあわせになれる。

 
楽山のような、罪の感度の低い~ない人は、こういう、しあわせ話をして、このような人がよい、という説教で、小さいことに喜びなさい、何があっても笑顔だよ、などと言いたいのでしょう。
 
楽山の、狂ったセンスに、恥性の防波堤が決壊し、洪水を起こしているようです。
 

できれば、
自分もそんな風になりたいと思う。

 
ここで、真っ赤な嘘です。今までの、楽山の刷り込み方から言っているのですが、楽山は、人間に興味はないと思います。むしろ、人間嫌いだから、何を言われても気にせず、このような白々しいことが書けるということです。楽山は、人を、あやつりたいだけだと思います。
 
この話の、ちっぽけな喜びが大切、という話は、それを信じる者に、大きな不幸や不義から目を逸らさせるために語られます。それがカルトです。
 
小さな幸せに敏感になり、ありがたや、ありがたやと、大きな不幸と不義からは目を逸らすために語られていることを覚えておいてほしいです。
 
考えてみれば、小さいことを大事にする、という、言わなくてもいいような、当たり前のことを書いているのです。新しいことも、深みも、広がりも、何一つないベタな話です。
 
こういう話を、予定調和と言います。
 
適当に見繕って、やさしく語れば、感動して、同意してくれるだろう、という、最初からの作為の意図を感じます。そういう見方をすると、何やら、気色の悪いものを感じるのです。
 
いい大人が、子供向けでもないのに、よくこんなことが書ける、という感想になるでしょう。対象である大人を、いかに軽く見ているか、ということにもなるでしょう。
 
大人に対しては、ある意味、無礼であり、つまり、まだまだ騙されやすいバカがいっぱいいるさ、くらいに思っているのではないかと疑います。
 
つまり、不義や不正に対する抵抗の精神を、なんとか、萎えさせるための、刷り込みだと思います。
楽山は、最初から、ねじ曲がった精神で、ねじ曲がった狙いをもって、書いているのです。
 
もっともらしい、やさしそうな、のぞましいような、あたたかいような、そういう言葉を集めて、しかし、楽山の、人を人とも思わない体質から言って、白々しくて、わざとらしくて、作為的で、否定できないでしょ、というような、いわゆる「ですよね」「じゃないですか」と同じような暗示の意図が、臭ってくる文章です。
 
思慮深い人は、今さら、きれいごとを書いてどうするんだ、ということが言えます。しかし、初めて見る人は、雰囲気的に、すてき、と感じてしまいそうな書き方の誘導なのです。つまり、未熟な良心につけいる誘惑です。
 
真に受けてしまうと、抵抗力のない、反発力のない、従順で、控えめで、目の前の礼儀を大事にして、先を見通すことの出来ない、だまされやすい、そして、同じようなことを、別の人に言ってくれる人、つまり、楽山にとって、とても扱いやすい人になってゆくのです。
 
よほど自信があるのか、前に書いた記事で批判されても、このような文章を書いてくるのは、楽山が、自分の誘い文句のほうが、真実を求める言論より、優位であることを確信しているのでしょう。それを実現させてはいけないと思います。
 
>しあわせの感度が高いのかなあと思う。
 
>ちょっとしたことでも、
>すごくしあわせになれる。
 
この、バカ丁寧な、やさしさの、気色わるい多幸的な言い方を見逃さないでください。
とても、安易で、人間をなめた言い方です。
楽山のセンスは、人に、このようになることを求めているのです。
 
カルトが求めているのは、裏を返せば、不幸の感度が鈍くなって、文句を言わないこと、
 
それこそ、箸が転んでも、幸せを感じるような人でしょうか、
 
「しあわせの感度が高い」、「ちょっとしたことでも、すごくしあわせになれる」、
 
これこそ、だまされやすい人の特徴の、角度を変えた別の言い方ではないでしょうか。
 
こんなことを、平気で言うのが、学習も成長もない楽山のセンスなのです。
恥ずかしいと思う感受性を、良識とともになくしてしまうと、
背筋の寒くなるようなことを平気で言うのです。
 
そのとき、恐らく、楽山は、この記事のような、
もっとも、やさしそうに見せかけた、大根役者の笑顔を見せるのでしょう。
 
ネットでの成りすましが疑われ、アドラー教カルト宣伝者の楽山ですが、
重ねて、安っぽい文章の作為と悪意に、憤りを禁じ得ません。
 
楽山が、誰にとっても、バレバレになることを願って止みません。
 
 
キリスト信仰は、このような、あさましい、しあわせ話では語れません。
 
キリスト信仰は、救い主の、命の結晶として与えられるからです。
 
 
(2019年07月28日)
 
 
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