ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

カルトの特徴

 
  カルトの特徴
 
 
宗教というのは、多かれ少なかれ、超常・神聖・完全を目指す傾向があります。それが、真のあり方でなくても、そういう超常嗜好があるのが人間ではあるのでしょう。しかし、それは、宗教人にとっては、学習し成長することによって克服するべき課題です。
 
つまり、真の宗教は、神聖と神聖ならざるものを区別することことが必須になります。その区別を全くせずに、安易に悟りを開いた完成気分でいる?のが、カルトです。ここでは、そういう個人をも、カルトに含めています。放置すれば、受けがよければ、反社会的なカルトになりうるからです。
 
ここで、カルトとは、既に、犯罪に及んでいる目立つ大集団だけでなく、特に宗教と信仰の観点から、広まったら大変なことになるだろうと推測され判断される個人の思想・信条なども含んでいます。大方、空想が間違った妄想になっています。
 
空想や妄想から始まった信条は、人間を生かすことはありません。何故なら、空想や妄想が、どんなに人間離れして派手な超常を表しても、そこから、人間は、人間らしさを受け取ることはないからです。
 
人間離れは、人間を生かしません。生きるヒントにもなりません。
 
例えば、優れたフィクションやファンタジーは、想像の世界を描くこともあるけれど、そこで描かれている良心は、人間離れでも神がかりでもないのです。
 
キリスト信仰を中心に
カルトの特徴として挙げられることを以下に書いてみます。
 
人間である自分を、罪深いと思っていない。
罪を犯すことがあると思っていない。
罪を悔い改める気がない。後悔をしない。
実際に、悔い改めていない、悔い改めたことがない。
 
神の導きによって新しくなる必要を感じていない。
罪悪感を感じない。既に、常に、善の立場にいるつもり。
 
宗教については、
完全になることだという前提が多い。
本気では信じておらず、利用しているだけの場合もある。
 
悟っているつもりでいる。
訂正不能である。
成長することを必要としていない。
信仰を、完全になることだと思っている。
完全になれると思っている。
完全になっていると思っている。
 
人には、良く思われて、誘いたいから
やさしく丁寧な言葉を使う。
人間を分かっているふうを装う。
 
訂正不能で自己中心であることが
学習を困難にして成長を妨げている。
 
疑問を呈したり、突っ込んだ問い方をすると、
途端に機嫌が悪くなり、はぐらかしたり、皮肉を言ったりする。
それでも、応答を求めて、突っ込んで批判すると、無視するようになる。
 
そのようなエピソードがあっても、なお、人に対して慇懃な言葉遣いは続く。
それゆえ、言葉の内容は否定であるのに、憐れむような言葉遣いをしてくるが、
それは経過より、憐れみではなく、劣った奴だと蔑んでいることが、分かりやすくなる。
 
逆らう者に対しての気持ちは、怖いくらいの軽蔑と排除である。
ここが、どうにもならないカルトの宿命のように、みすぼらしく、醜い。
 
例えば、シャロームは、キリスト信仰の、罪の赦しを既に与えられ完成した無罪妄想に、悔い改めを神の与える超常現象のミラクルに、真逆に勘違いして、さらに、妄想的に、神を訂正不能に決めつけて信じ込んでいます。そうなると、人間が、どうなってしまうか、というモデルになっています。
 
そこにあるのは、人間ならば分かるだろう、ということが、全く分からなくなって、理路も情感も失って、言動が滅裂になって、それでも、気づかず、自覚がなくなってゆく、自分信仰の盲目の一本道なのです。決して、シャロームが言うような、人それぞれ、という自由ではありません。個性ではなく、異常な体質なのです。
 
ですから、どんなに理不尽でも、それを指摘されても、理不尽だと分かる理路を失っているので、不快の感情しか持ちません。
 
あるいは、カルトの場合、承知の上で、意図的に、悪へ導こうとしている可能性もあります。何らかの経験と理由があって、他者、人間、社会、苦に、民族に、特殊な怨念をいだいている可能性もあります。
 
大方、能力を超える自尊を持っており、訂正不能であるために、いつも、相手より優位に立っている意識と立場から物を言います。
 
つまり、正直で誠実な謙虚、謙遜、敬虔とは対極にあり、自らの間違いを認めず、反省せず、すべての不都合を相手のせいにします。そのための、言い逃れや詭弁が見られるでしょう。そのときも、やはり丁寧な言い方をして、動じていない態度を出してきます。・・根拠のない強さがあるのです。
 
荒らし的な、○○ですか、○○は何ですか、答えてください、答えなさい、という問い詰め方をするときがあります。話の筋道を、恣意的に混乱させるやり方です。そうやって、批判者の理路を乱してきます。こういうのに乗ってはいけません。
 
それは、罠ですから、先ず、答える必要がないことをきっぱり言って、話を戻すことが必要です。それでも繰り返して、執拗に問うようなら、質問に答える必要がないことを繰り返し明言して、こちらの言い分を貫いていくか、こちらの、できれば、より厳しい問いを突き付けます。
 
つまり、まともに相手にしてはいけない人です。最終目的は、公共の場から消えることですが、相手に何かを認めされるような命令形は、控えたほうがいいかもしれません。おかしなことを言うたびに、指摘、指摘、・・を繰り返すのが、この場合、批判となります。
 
心から、何かを詫びたり、何かを認めたり、赦しを乞うたり、などということを、まず、最初から、しない体質の人たちが相手であることを忘れないでください。詫びた場合、認めた場合、赦してくださいと言った場合、大方、嘘です。ゆえに、実際に、宣伝活動をやめるかどうかを見なくてはいけません。
 
批判するのは、勝つためではない、相手を貶めるためではない、自分が満足するためではない、という自覚が必要です。負けなかったからと言って、勝利ではなく、必要なことをしただけであって、有形無形の利益を求めてはいけない。
 
ただ、こちらの、まともな活動を妨げるような言動をする者がいるから、批判を始めたのです。
嘘があるから、その嘘を暴き、正すために始めたのです。それ以上の意義はありません。
 
相手の、無視に対して、怒りの感情が湧いてくることが、しばしば、あります。
それで理路を乱して、うっかり感情的なことを言ってしまえば、相手の思うつぼです。
相手は、カルトで、偽善者です。正義など微塵も持たない者です。
言い換えれば、遊びでやっている可能性もあります。
徒労に終わることも、徒労が続くことも、覚悟しなければなりません。
それが出来ない人は、カルトに関わらないのはもちろん、批判にも関わらないほうがよいでしょう。
 
洞察力、思考力、感受性については、偽善者は偽善についての感性が皆無であり、カルトはカルトについての感性が皆無であり、嘘吐きは嘘についての感性が皆無であり、荒らしは荒らすことについての感性が皆無であり、訂正不能は訂正についての感性が皆無であり、・・あらゆる災いを招く者は災いについての感性が皆無なので、病識がなく、正しいつもりで、臭いものを笑いながら執拗に出してくる公害であります。
 
カルトは、矛盾の指摘には何も返せないわけです。つまり、カルトの信じる神の意志は、無視することであり、いわば、黙殺大権現?ゴミ箱大明神?が、カルト共通の神?であります。何を言われても、次の瞬間には、無かったことに出来ていて、青春映画のように立ち直るのでしょう。
 
以上のようですから、こちらは、できることをしている、務めである、という自覚が必要です。
間違っても、勝つことを目的にしてはいけません。
 
批判は、こちらから始めるわけですが、
批判を継続するかどうかは、負けたからやめるのではなく、勝ったから続けるのではなく、勝ったからやめるのでもなく、勝敗ではなく、結果ではなく、実際上の、批判継続の必要性の有無のみによって決まります。
 
話にならない、対話にならない、正常な双方向にならない者たちを批判するのです。相手は手段を選びません。こちらは手段を選びます。ネットでは、言論ということになります。相手は、こちらを疲労させるプロと思ってください。感情的になればなるほど疲労物質がたまります。自律訓練やリラックスなど、気分転換が大切と申し上げておきます。今のところ、以上。
 
 
(2019年08月01日)
 
 
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