ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

お忙しい?(3)

 
  お忙しい?(3)
 
   お忙しいですか?・・・(2) 2009/9/19(土) 午後 2:11
   https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/7131441.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 

新約聖書コリント人への第1の手紙15章12~19節に使徒パウロは次のように書いています。
使徒パウロは在世中のイエスを直接知らない人なのです。しかも、かつては
イスラエル社会のエリートの地位にあり、イエスを信じる人々を迫害し、投獄し、
死にいたらせていた人のなのです。そのパウロ自身も殉教したのです。
そのパウロの言葉なのです。

 
パウロは、悔い改めて、迫害者のパリサイ人から、福音伝道の使徒となりました。シャロームは、今も、神とキリストと聖霊をけがしながら、暴走する妄想に酔って、福音伝道を妨げようとしています。
 

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、
死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、
キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、
わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、
わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。

 
シャロームは、復活と言うと、肉体の復活だけをありがたがる信仰?です。そこに感動の「か」の字もないので、世辞として向けられても、説教としても、まともには受け入れられることはないのです。恐らく信仰について何も理解できないために、嘘を吐いて、言いふらしながら、首を振り回して、四方八方に泡を吹いているだけでしょう。死ぬまで伝道の邪魔をするだけなのでしょうか。
 
肉体の復活について理解できる人間はいません。分かったつもりのシャロームのような者がいるだけです。肉体の復活を信じても、今それは、めったに起こっていませんし、肉体の復活の信じ方は、人間を成長させる学習さえも拒否させてしまうでしょう。シャロームにおいて、顕著であります。
 
私たちは、知性も感性も超常ではなく、不完全な存在ですから、肉体の復活については、あったともなかったとも、分からないと正直に言うべきなのです。いつまでも信仰が、超常現象の魔法?に頼っていては、神のもとにある本来の人間性さえも成長しなくなり、人間離れの結果として、人格さえも壊れてゆくでしょう。シャロームにおいて、顕著であります。
 

なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを
神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。

 
復活が、肉体の復活であるかどうか、誰も証明できません。それを、思い込みで、譲れないと信じ込んでいるだけなのがシャロームですが、その結果は、どうでしょう。人間としての心、特に良心を疎かにして、人間性を考えず、神聖の超常だけにしがみついて、それを身勝手に決めつけ、あらゆる教えに逆らい、あらゆる罪と偽善に染まって、あらゆる汚い真似を平気でする者となりました。肉体の奇跡だけを信じる信仰は、そこにこだわって、いちばん大切なものを台無しにしてゆくという例なのです。
 

そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、
あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、
キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちは
すべての人の中で最も惨めな者なのです」とパウロは書いています。

 
キリストは、天に昇られ、今は、目に見えない、ということを、シャロームは知らないのでしょうか。一つ覚えの肉体の奇跡を信じ込んで、よりによって、魂と心の奇跡のほうを、総て、どぶに捨ててしまったような有り様になっています。こうなってはいけません。
 

今日も、わたしたちがイエスをとおして神の愛にふれる時、
ありのままの自分、他の人、物事を喜びをもって受け容れることができるように変えられていくのです。
なぜなら「神は万事を益となるようにしてくださる」(ローマ8:28)からです。

 
ですから、シャロームは、イエスをとおして神の愛に触れてなどいないのです。神の愛に触れていたら、とうに悔い改めているはずだからです。さらに、万事を益となるように、という聖句を、自分の思うとおりになるという幼稚で身勝手な欲望の意味にしか受け取っていません。
 

信仰とは決して気休めでもなければ、わけのわからないまじないでもなく、
ましてやご利益や葬式のためでもありません。
神をも人をも愛することのできない私たちを、あえて愛してくださる神を信じることが信仰です。

 
癒やされ愛されたゆえに、神とキリストを、結果として人をも愛することが信仰であります。
 
後生大事に、ご利益だけを信じているシャロームなのです。シャロームは、何をしても、神が自分を愛するという被愛妄想だけなのです。愛というのは、そのような無節操なものではありません。
 

私たちの愛は神との関係、交わりを失っているときには、必ず自己中心的なものでしかなく、
互いにすれ違ったり、傷つけるものとなってしまうのです。
神の変わることのない確かな愛をもって愛されていることを知ってはじめて、
私たちは互いに愛し合うことができるように変えられるのです。

 
神との関係、交わりを失っているときには、必ず自己中心的なものになったままなのが、シャロームです。全く目覚めも、いかなる感動も感じられないシャロームの言です。つまり、シャロームは、神に愛されることを、極めて身勝手に受け取っているので、本当の愛を受け取っていません。それで、愛することも、愛し合うことも、出来なくなっているのです。
 

愛し合うということがどういうことであるかという誤解、共依存、共支配関係からも開放されるのです。
私たちが生けるまことの神を知らないとき、食欲、性欲、睡眠欲という本能をゆがめ、
ただ欲望を満たすことをむさぼり求め、刺激を求めたりして、
また、互いに愛しあいたいという本能をも汚し、また物を得ることによって心の不満、空洞、
霊的渇きを満たそうとして、ただ忙しくしていることが充実した生活、
生き方であるかのように錯覚してしまうのではないでしょうか?

 
シャロームは、私に当てはめて、言い逃れようとした、共依存のことを、また、書いています。シャロームには、人格依存するような魅力は皆無であります。シャロームという存在は、キリスト者と求道者にとって、詭弁による反信仰からの、背教誘導の罠となっています。
 
シャロームは、本能をゆがめて、欲望を満たす、などと、わけのわからないことを言っています。神が、私たちに望んでおられるのは、本能でも欲望でもありません。シャロームは、言葉の意味と使い方が滅茶苦茶です。シャロームは、何事も、ボロクソ節で、自分以外の存在を、好きなようにおとしめています。妄想からしか語れないためでしょう。
 

そして、あの「お忙しいですか?」と互いに挨拶を交わすことにより
心の空洞を埋めようとしているのではないでしょうか?
パスカルは言いました。「神によって造られた人間の中には神のかたちを
もってする以外に決して埋まらない空洞がある」と。

 
人間は、神と違って不完全だということです。シャロームは、自分の空洞を神のかたちをもって埋めたつもりでしょうか。その結果が、神に任せることを知らず、嘘、罪、侮辱、偽善、隠蔽、偽装、コメント不承認と削除、妄想教理の言い張り、なのでしょうか。どこまでも、自分信仰の預言者気取り、いったい、どこへ行くつもりなのでしょう。
 

あなたはどのように思われますか?
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである」
(マタイ4:4)
 「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:35)

 
一つ一つの神の言葉に背いているシャロームが言っています。シャロームには、不完全による罪深さというシンプルな病識さえも無いのです。
 

神の平安がありますように!

 
この末尾の挨拶が、呪いに思われてなりません。シャロームの言う神の平安は、シャロームが刺激をシャットアウトすることで、こしらえた安穏の自己満足の沼に過ぎません。
 
 
さて、この記事に対して、楽山が、別のコメント欄に書いたコメントですが、
 

shalomさん、こんにちは。
記事、読みました。
なるほどと思えるところも多々ありました。ありがとうございます。
ちなみに自分は、以前から老荘思想への憧れはありますけど、
実際には、一時もじっとしていられない性質ではあります。
小さい頃から、落ち着きがないと怒られてばかりいましたが、
三つ子の魂百までなのか、それは今もあまり変わらんんようです(笑)。
2019/8/13(火) 午前 11:45[ 楽山 (自由) ]返信する

 
お仲間は何でも社交の世辞で褒め合います。
だから、ひょっとして、シャローム、楽山、易坊、などが、一人の成りすましではないか、という疑惑をいだいています。
それとも、楽山は、本当に、なるほど、と思ったのでしょうか。
だとすれば、無知か異常だと思います。
 
シャロームshalom、楽山、易坊、tensoba、などの、成りすましかもしれないHNの者が、書く文章には、一種独特の詭弁臭があります。故意に真実を曲げる歪曲、という、まるで、使い終わったオムツの尿臭のような、ウッと来て、顔をゆがめるような不快感と疲労感です。これは忘れられません。
 
皆、似たようなにおいがします。シャロームについては、約8年間、批判を続けていますが、この詭弁臭、治まったことがありません。いかに人を軽く見て、だます対象としか見ていないかということがあり、私が、特に敏感ということではなく、嘲笑いを向けられているような感覚を伴う体験によって、消えようがないのです。
 
似たようなことは、悪い政治家のリップサービスや言い逃れにも感じますが、シャロームなどのカルトの詭弁臭は、ネットでの精神的距離が近くて、昔からの筆致を、ある程度、知っているだけに、耐えがたいものがあります。作為と不正直の臭みとでも言うべきものか。
 
理路は、この感覚から、その元をたどって、少しは整えてから指摘するために、必要としています。十分できているとは言えませんが。
 
 
(2019年08月17日)
 
 
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