ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

無反省

 
  無反省
 
   素直に謝罪ができる人
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41570320.html
   楽山のブログ記事。2019/8/20(火) 午前 7:02
 
 
「自分は間違っていたかもしれない」と反省して、素直に謝罪が出来る人はとてもすてきだと思う。
「自分は悪くない」と反省が出来ず、他人や環境のせいにして謝罪が出来ない人間はとても醜いと思う。
というツイートについて
 

反省と謝罪って、
口で言うのは簡単だけど、
いざ実践しようとすると、
案外に難しい。
自分もいつでも、どこでも
実践できてるわけではないので、
ちと恥ずかしい。

 
反省は、その気があれば、いつでもできるはずです。楽山は、反省と謝罪を一緒にして、謝罪はしにくい場合もある、ということを、反省にも当てはめて、反省しない自身の正当化をしているのでしょうか。また、論点をズラして詭弁を弄するのでしょうか。
 

宏洋氏は、
自分の間違い、勘違いが発覚した際、
すみやかに謝罪、修正してたのを
何回か、見た覚えがあるけど、
あれは良かった。

 
人の謝罪を褒めています。自分は謝罪も反省もする必要はないと思って、自己正当化を図りたいのでしょうか。あるいは、当てつけとして、婉曲的に、批判者が謝罪するべきだと言いたいのでしょうか。
 
さらに問題なのは、楽山もシャロームも、修正機能が全くないことです。
それを、ずっと言ってきたのですが、訂正不能で、聞く耳を持ちません。
でありながら、こういうことを平気で言ってくるのです。
 
 
   償い
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41570319.html
   楽山のブログ記事。2019/8/20(火) 午前 7:00
 
 
亡くなった家族にしてしまったことで自分を責め続ける必要はなく、
幸せな姿を見せて喜んでもらうのが、何よりの償い、というツイートに
 

ふと思い出したのだが、
高橋信次の本にも、
これと似た考え方があった。
その要旨は、大体こんな風だったかと。
私たちが、周囲の人々と仲良くし、
家族円満であることが、
一番の先祖供養です。
さすれば、天国にある先祖は、
子孫が幸福であることを喜び、
もし地獄に堕ちている先祖であれば、
子孫が幸福に暮らしているのを見て、
自分は何を間違ったのか、
自ずと覚り、悔悟し、救われる機会を得るでしょう。

 
ご先祖様に恥ずかしくないように、家庭円満を心がける、というのは、当たり前のこととして、よく言われることです。しかし、既に亡くなった人たちの気持ちは分からないはずです。だから、そこには謙虚さが必要です。そこを書かず、他者の意見を引用することに、楽山の、超常寄りに考える癖がありそうです。
 
しかし、訂正不能の楽山には、気に入らないことは無視する、というアドラー教の信条をもって、追従するお仲間以外のことを、無反省に、殆ど本能的に、無視し続けているのです。
 
何か言えば矛盾してくるというのが、楽山とシャロームの特徴です。そして、それも不快だから、無視してゆくのでしょう。こういう人のお仲間になって、円満を心がけても、そこに、お仲間うちの自己満足や仲間ぼめはあっても、本当の円満は生まれてこないと思います。
 

遠慮深い性格だと、
自分だけが幸福になるのは申し訳ないと考えて、
幸福から逃げることも無きにしも非ずだろうけど、
そういうタイプの人は、
上のように自分が幸福になることで、
他も幸福にできると考えてみることもいいと思う。

 
いったい誰が遠慮深い性格なのでしょう。誰が、自分だけが幸福になるのは申し訳ないと、幸福から逃げるのでしょう。楽山とシャロームは、自分だけの幸福のために、他者の幸福も正義への希求も、無視するだけでなく、楽山はボンヤリ言語で、シャロームは妄想教理で、無反省に誤謬を振りまいて人間離れを勧めることで、まともな信仰に対して執拗な阻害因子または疲労物質となっています。
 
楽山とシャロームは、自分だけの満足と幸福を貪り、それを信仰の恵みと思っているのかもしれません。しかし、それは、自己中心に不快である刺激を無視したり、コメントの削除や不承認によってブロックした結果に過ぎません。それを、シャロームが神の平安と呼ぶのに対して、私は自作の安穏の沼と呼んでいます。そこに浸かってニヤニヤしているのは、神の与える平安ではありません。
 
 
楽山は、この記事の後に、キリスト教関連のアクセサリーやスタンプの記事を載せています。
キリスト教会とスタンプ
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41570323.html
そして、その引用の中に、「人々はすぐにしるしを欲しがる」という聖書の文言が書かれています。
楽山は、どう思うのでしょう。しるしも必要だと言うのでしょうか、それとも、目に見えるしるしを欲しがるキリスト教を批判したいのでしょうか、ここについては何も書いていません。
 
聖書の中の、しるしとは、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
12:38
そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。
12:39
すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。
12:40
すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。
 (マタイ12:38-40、新約聖書
 
律法学者やパリサイ人が求める、しるし、とは、目に見える物や肉体の奇跡のことでしょう。それを、キリストは、邪悪で不義な時代と呼んで戒めています。信仰において、目に見えるものに、こだわる傾向は望ましいものではありません。偶像につながるからです。
 
しかしながら、もっと邪悪な偶像は、心の中の偶像です。神と聖書についての解釈や信条を、心で受け取らないで、また、考えもしないで、言葉だけ鵜呑みにしたり、自分に都合の良いような解釈をして、無反省に、決めつけ、思い込み、信じ込むことです。
 
心の中の偶像のほうが、よほど厄介なのです。しかも、最も邪悪と言えるのが、訂正不能にしてしまうことです。その典型がシャロームです。そうなると、自分の中で変質した邪悪なものが、人格を破壊してゆき、カルトと化してゆきます。
 
少なくとも、皆が信じたら大変なことになる解釈はキリスト信仰とはなりえませんが、いかなる解釈が正しいか、ということではありません。
 
絶対的に正しい解釈を、人は持ち得ないのです。それは、神の言葉の持ち主であるところの、神のみの知るところです。だからこそ、人は、いかなる解釈も信条も、そのときの判断に過ぎないことを自覚しておくべきであり、絶対化してはならず、訂正不能にしてはならないということなのです。人は、信仰生活においても、学習し成長してゆく必要があるからです。
 
 
(2019年08月21日)
 
 
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