ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

日本教で反日?

 
  日本教反日
 
   嫌われる勇気
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41571142.html
   楽山ブログのコメント欄。私のコメントは、大方、記事用です。
   批判対象:楽山と、シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼 )
 
 
(私)
コメント欄の続きです。シャロームは、自身の罪と偽善と嘘の問題から目を逸らし、政治の転載記事を載せる一方、「日本教」の「空気」問題を日本を責めるために言いたいようですが、シャロームがボロクソな自説を言えば言うほど、無反省な人であること、自分の責任を負わない卑怯者であること、思想家気取りであることなどが、浮き彫りになってゆくのです。
(私)
しかし、シャロームは平気なのです。何故なら、楽山と同様、自分に都合の悪いことは無視して忘れてしまうからでしょう。シャロームの足跡には、罪悪の偽善の履歴が累々と積まれて繋がっているだけになるのです。
(私)
シャロームの前に道はない。シャロームの後に罪悪が残る。
(私)
シャロームが正義を語れば、ことごとく、
まさにその正義に反しているシャロームが浮き彫りになる。
シャロームは、日々、墓穴を掘っているのです。
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん おはようございます
山本七平の思想」を読み終え、改めて山本七平の「空気の研究」あとがきを読むと、空気と水によってかもし出される状況倫理によるご都合主義、際限なき相対化の支配は人を神のようなものとする偶像礼者とすることであって、日本においては天皇を現人神とする天皇制であるということのようです。
 
(私)
相対化の支配はシャロームの、状況を弁えない世辞の賛同と妄想豪語に表れてきました。シャロームは、むしろ、熱心な日本教徒というべきなのでしょう。
 
(シャローム
空気と水を把握し、その拘束から解放される道は固定倫理によるしかないということのようですが・・・。
状況倫理、固定倫理については水の通常性の研究」(三)(四)・・・に書かれていますが、空気に水を差すことによって固定倫理に到達することはむずかしく、新たな空気の醸成をもたらすというのですから、救いようがないようですね。
 
(私)
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という固定倫理によって、おびただしい罪悪を、なかったかのように無視して、思想家気取りに逃げているのです。おぞましい偽善者の処世、あってはならないことです。
 
(シャローム
たしかに戦後日本は立憲君主から立憲民主主義に変っていますが、戦後日本の実態は戦前と少しも変わっていないことによって今日の日本において顕著に証明されているようですね。
今日の有権者(主権者)の劣化についての記事もその証明と言えるのでしょうね。
2019/8/25(日) 午前 8:37[ shalom ]返信する
 
(私)
戦後日本は、戦前と少しも変わっていないでしょうか。戦前ならば、反政権の人々は、捕らえられていたでしょう。多くの人がABsに騙されているとはいえ、シャロームは、早くも、ボロクソ節基調で、日本の現状を嘲笑っているようです。こうやって、憂国を語るようで、実は、かえって母国をボロクソに、けがしてゆくシャローム。心から汚い人だと思います。
 
(楽山)
空気に支配されるということでは、日本だけでなく、欧米もそれっぽいですよ。たとえば、ポリコレ関連のニュースをみてると、欧米ではかなり厳しい空気に支配されてるみたいだし、この空気に水を差すのはほとんど不可能っぽい。
日本は戦前も戦後も空気に支配されてるのは変わらないだろうし、海外もそうだとすると、空気に飲まれるというのは日本だけの問題というより、人の性みたいなものかもしれません。
2019/8/25(日) 午前 9:24[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
楽山のボンヤリ言語、「ぽい」言語が出ています。シャロームの、ポリティカル・コレクトネス(政治的公正)は、恐ろしく反日に偏向してきたので、コレクトではないようです。こうやって、逃避して、政治や思想の話を書けば書くほど、シャロームは卑怯者という証拠になってゆくことを何とも思わないのでしょうか。・・思わないでしょうね、昔から無責任で、無理解な人だったから、まともな人間に対してのように説くことは無意味でした。
(私)
楽山のボンヤリ言語による世辞の交流も、シャロームの丁寧語による世辞の交流も、空気としてずっと作用しています。それが策略と暗示による誘導というものです。戦前戦後ではなく、カルトへの服従があり、一方では、他者に対する軽視~無視を、いつも根深く隠し持っているのです。
(私)
その軽視~無視は、批判すると、敵意と否定となって、あるいは、その代わりに、ごまかしと詭弁となって、表れてくるものです。批判しないのであれば、彼らの世辞に惑わされないでください。
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん
[空気に飲まれるというのは日本だけの問題というより、人の性みたいなものかもしれません。]
そうですね。
人の性(サガ)・・・人の性ではなく、自分自身の性ですが
それを聖書では罪というのです。
 
(私)
自分自身の罪を決して認めないシャロームが言っていることを忘れないでください。
 
(シャローム
聖書は神による固定倫理が証しされているのですが、
 
(私)
神の固定倫理を人は知りえません。人は不完全だからです。だから決めつけて固定することなく、反省しながら、祈りとともに、悔い改めを神に捧げ、その都度、信仰を新たにして、学習し成長するのが信仰の道です。シャロームは、このことが分からないので、固定倫理が証しされている、などと言ってしまうのでしょう。それは、人が神に成り上がっている、という、ありえない偽善者の立場なのです。
 
(シャローム
人が神が食べてはならない、それを食べるときっと死ぬといわれた善悪を知る木の実を食べ、固定倫理を見失うと罪という的外れの状態という奴隷となり、自らを神のような存在とし、状況倫理によるご都合主義と際限なき相対主義の拘束支配から自由になることは出来なくなり、混乱、争い、ついには死と滅びを招くというのです。
 
(私)
固定倫理を見失うと罪の奴隷と言っていますから、シャロームは、固定倫理を知っているつもりであることが明らかになっています。そして、自らを神のような存在として思い上がるのです。思い上がるゆえに、またしても、罪を、アダムとエバのせいにしています。アダムとエバは、今の私たちなのですが、何度言ってもシャローム聞く耳を持ちません。
(私)
自らを神のような存在とし、状況倫理によるご都合主義と際限なき相対主義の支配となっているシャロームのボロクソ論理において答えは明らかです。自らを神のような存在にすることは決してできないのに、それをしているつもりのシャロームは、言うことが矛盾して、ばらばらになり、ついには、混乱、争い、ついには死と滅びを招く、というふうにボロクソ悪口で他者を貶めるしかなくなるのです。自らに迫っていることを、人に当てはめるのは、シャロームの虚しい言い逃れです。
 
(シャローム
人の言葉や論理による逃れる術、道はないのですね。
歴史はその確かな証言です。
2019/8/25(日) 午前 10:30 [ shalom ] 返信する
 
(私)
シャロームという人の言葉や捏造妄想教理によっては、逃れるすべも道もないのです。信仰の立場から言えば、シャロームが、いかに、妄想教理を捏造しても、隠そうとしても、神は見逃すことはなく、ゆえに、神が裁くのです。全能の神が、罪と偽善の証拠がないからと、できない、ということは、決してないのです。
(私)
まさに、最終的には、神が裁くのだ、というところに、正直なキリスト者であれば、偽善者シャロームの自己満悦とは全く異なるところの、ゆだねる心の、神の平安があるのです。
(私)
今までの経過、そこに表れた発言などには、嘘吐き、偽善者、妄想家、ボロクソ思想、証拠隠滅、コメント不承認による選別、理路の破綻、弁明不可、という、あらゆるインテリ気取りの偽りと罪が、シャローム自身によって、あらわになっているのです。隠そうとも、真実において、あらゆる正義は、シャロームを敵とするでしょう。うわべで演説ぶっても無駄なのです。
 
(楽山)
空気については、進化論的にも考えることは出来そうに思います。
 前に読んだ本には、群れの中の評判と生存、羞恥心について書いてました。
その内容は、大体こんな感じだったかと。
 動物を観察すると、群れのルールを破ったものより、破らないものの方が交尾の相手を見つけやすい。
つまり動物にも、評判というものがあるらしい。
 人は進化の過程において、この自分に対する評判を分析する力を進化させて、他人が自分をどう評価するかという感覚を獲得した。これが羞恥心のもととなった。
これが本当なら、空気に逆らえないというのは、周囲の目を気にしていることだろうし、この辺りの機能が関わってる気はします。
あとは空気に逆らおうとすら思わないのは、魚や鳥の群れは一斉に同じ動きをしがちだけど、それと同じようなことなのかも。
2019/8/25(日) 午後 1:00 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
楽山は、インテリ風味に見せかけて、動物の群れへの従順が、人間の羞恥心のもとだという説を載せています。楽山は、動物の本能と、人間の意志を、区別しないようです。区別しているなら、そのことを言うはずだからです。アドラー教で平板な思考になっているゆえに、単純に進化論に呑まれて、関連しているよとばかり、その知識を、考えもせずに披露してくるのでしょう。
(私)
ボンヤリ言語の「かも。」が出てきています。さらには、魚や鳥の群れの行動にまで広げています。魚や鳥は、気温・気象・環境などには体感があるかもしれませんが、集団の空気を読んで一斉に行動するのでしょうか。このように、楽山は、ボンヤリ言語の思考に支配されて、言葉づらの要素的繋がりの短絡が専らとなり、人間についての、一般的な理解さえも掘り下げることが出来ずにいるようです。
 
(楽山)
嫌われる勇気は、内向的で人の目を気にしすぎる人にとっては必要だろうけど、
 
(私)
必要ではないし、それ以上に邪悪でしょう。と思います。ますます内向的になり、改善が望めなくなり、さらに嫌われるだけでなく、他罰的で、逆に嫌い恨む人にもなるでしょう。必要なのは、嫌われるかどうかにかかわらず、自分が正しいと思うことを主張して、かつ、省みて必要なら修正する心です。
 
(楽山)
知り合いの前では丁寧でも、見知らぬ他人の前ではマナー違反しても平気だとか、
目上の人の前では謙虚でも、格下の人には高慢に振る舞うタイプの人たちには、全然、必要ないかもですね。
2019/8/25(日) 午後 7:23 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
嫌われる勇気は、目上の人の前では謙虚でも、格下の人には高慢に振る舞うタイプの人たちには、必要ないのではなく、態度を変える自分の欠点の醜さに気づかず、嫌われる勇気と言い換えて飾っているだけです。シャロームの、賛同者と批判者に対する態度に、ぴったり当てはまります。
(私)
シャロームは、他者を格下と見て軽視~無視します。ただし、社会的地位のあるような学者みたいな人には、世辞を加えて、一回り大きく賛同します。ごますりのようで、いやになります。どちらにせよ、本気ではなく、自分を一人前の立ち位置に見せるためで、敬虔とは似ても似つかない。
(私)
意見というものは、自分に当てはめてどうなのだ、ということを弁えておかないと、被害的、他罰的な体質になってゆくのです。見かけだけの謙虚ではない、真に謙虚な心というのは、絶対の正しさへの恐れですが、言葉だけでなく、他者をも、未知なるところの大きさをもって、おそれをもって、大切にすることです。
(私)
世辞をもってあしらうことと、心を込めて大切にすることの区別を付けられるようにしたいです。
それが全くできず、世辞で丁寧に言えば、礼を尽くしたつもりになって、それが当たり前に正しいと思い込んでいる人を見てきましたから。
 
 
(2019年08月26日)
 
 
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