ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

教えを拒む者

 
  教えを拒む者
 
 
今まで、書いてきたことではありますが
 
例えば情欲の聖句
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書
 
この教えを、情欲をいだくなという教えとして、守れる人、いません。
 
思春期以降、男性は、女性を、情欲をいだいてみることを避けられません。
それが人間だからです。
 
だから、まあ、できるだけ守りましょう・・??
 
そんな安っぽい道徳など、キリストは言っていないと思います。
 
神のレベルの無罪が欲しいなら、こういうことだ、という教えです。
守れるか、守れないだろう、守っていると思う者は偽善者だと。
 
守れるものは一人もいない。すなわち、罪なき人は一人もいない
という教えだと思います。
 
総ての人は、罪ある人であり、赦しが必要である。
これが教えの本質だと思います。
 
この解釈を知らない人たちは、なおも、気安い自らの、そして社会通念的な解釈をもって、キリスト信仰を世間話のように語るでしょう。それで分かったつもりなら、偽善と言ってよいのです。
 
 
神に対しては、正直以外、何も通用しないと、何度も書いてきました。
つまり、精いっぱい正直であれば、神は寛容をもって赦してくださるでしょう。
許可ではなく、赦免です。神は人の弱さをご存知だからです。
 
だから、人が自分で正当化したり加減したりしてはいけません。
ましてや、そこに、神聖の御名を付けてはいけないと思います。
 
罪と偽善を、讃美の上塗りで誤魔化せないのと同じです。神は既にご存知です。
人の思う善は、巡り巡って、罪になるかもしれないという可能性。
 
つまり、人の罪は、人が思っている以上に深く、様々に影響を与えることがあります。私たち人間の頭で、罪を限定してはいけません。私たちには、自分の行為の影響を果てまで追う能力はないのです。
 
だから、讃美するより大事なのは、罪を甘く見ないことです。いかに、正直な自分を神の前に捧げられるか、そこに、人間の罪とその赦しと救いの本質があることを知ってください。
 
神の寛容さこそ、人間でも信仰の義を与えるという神の秘密にあります。神秘があることだけでも知っておれば、結果が善であれ、罪であれ、赦しと救いが成就されるでしょう。辻褄合わせなどせずに、神の前に、祈りにおいては、精いっぱい、正直であってください。
 
神が人を見捨てないということは、何をやらかしても赦されることではなく、神のほうから約束を反故にはしないということです。正直な祈りを、先でも後でも、いつも待っておられるのです。
 
正直な告白こそが、悔い改めなのです。シャロームや楽山のような、悔い改めより赦しが先などと言う愚か者もいるようですが、神の寛容を、何をやらかしても赦されると決まっているような詭弁で置き換えてはいけません。そういう者は、いくら神が寛容でも、自分で救いを拒んでいるのです。
 
もう一度、言います。正直な告白こそが悔い改めです。それを神は待っておられるのです。
 
その根拠となる理由は、人間にとっては、
絶対の正しさは手に負えず、努めても、そのとき判断しているに過ぎず、
正しさとして、神に捧げられるものを、人間は持ち得ず、
そのことは、・・俺が、絶対の正しさ?とんでもない・・と、分かることなのです。
 
罪人である人間には、信仰?によって、神?が神だと分かる・・なんてありえません。
それは、カルトの神?に過ぎません。
そういうところの弁えにおいてのみ、キリスト信仰は厳格であります。
言うまでもなく、そこを外すと、カルトに堕してゆくからです。
 
神の前では、ただ、精いっぱいの正直だけが、人間が努めて、手に負えるものなのです。
 
聖書を、特に新約聖書を読むときに、このことを忘れないようにしてください。
 
人間は、真理を知っていると思い込みやすいのです。そうではなく、真理を知り得ないからこその、神の寛容であり、キリストの愛なのです。神の真理を知ることではなく、神の真理を知り得ない自分の人間としての立場を弁えることであり、これが、神の真理に対する、人間の真実だと思います。
 
超常の神の真理や奇跡の救い主イエス・キリストを強く信じようとすればするほど、人間は、自らの描く想像を神の意志だと思い込みやすくなり、それを真理としてしまいます。
 
人間は、神を正しく思い描くことなど出来ないのに、思い描いてしまいます。それは、避けられないことですが、本当の神ではなく、こうあったらしいという人自らの想像に過ぎないことを知りながらも、唯一の希望として祈らないではおれない自分を知ることこそが、キリスト信仰とカルトを分ける決定的な相違点なのです。
 
信仰は、喜びのみを求める心に芽生えることはありません。
そういう者の祈りは、感謝と讃美さえも、欲望と偽善の自慢に過ぎなくなるでしょう。
 
信仰は、存在する悲しみのうちより、人間の心の、よみがえりとして与えられます。
 
私たち信仰者は、聖書に描かれたキリストに従うのではなく、聖書に描かれたキリストを想うことで自らの不完全を知って、決して絶対ではない自らの解釈と判断であることを弁えながら、日々の祈りにおいて、悔い改め、すなわち、精いっぱい正直な祈りを捧げ、完全の境地ではなく、不完全だが成長可能な人生の道を歩むのがキリスト信仰であることを知る人間、即ち、キリスト者であります。(洗礼の有無は、現状のキリスト教をめぐる有り様を見れば、もはや、決定的なものとは言えないと思います。)
 
 
(2019年09月12日)
 
 
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