ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教とカルト

 
  アドラー教とカルト
 
 
気に入らないことは無視しましょう・・これがアドラー心理学の教えの一つです。
教えている時点で、学問ではなく宗教だということも、前に書きました。
しかも、人間性を考えてゆくと、明らかな欠陥があります。
それは、その教えに従うと、徹底した自己中心に陥り、学習しない人になることです。
ゆえに、アドラー心理学は、現時点で、アドラー教というカルトと判断しています。
 
気に入らないことを、心に留めて、日を改めて考えることで、新たな気づきを得ることがあります。
 
それを無視するということは、たとえれば、善人か悪人か、会って益のある人か、ない人か、それが、はっきり分からないまま、追い返すようなものです。
 
気に入らないこととは何でしょう。まず、悪口が思い浮かびます。
しかし、あるときに悪口が、全部、有害だと断定できるでしょうか。
多くの人は、悪口と批判を、混同しているのです。
 
正常な批判は、根拠を示し、人道に基づいています。
不備や欠点や見逃しているところを指摘するのが批判です。
 
悪口は、おとしめるだけで、根拠がありません。
 
カルトは、批判されると、雨あられのごとく、悪口を返してきます。
カルトは、妄想に立脚していて、根拠が無いので、弁明が出来ないために、
悪口か詭弁しか返せないのです。
否定されると、怒る以外に、反応が出来なくて、
人によっては、罵詈雑言で、人によっては、ねちねちと遠回しに、
わざと分かりにくいことや、受け取りようのないことを言って、
迷路に誘い、疲労させて、退かせようとします。
カルトは、安易に受け入れる人だけを好むからです。
 
私の知っているカルトは、平気で嘘を吐く人でした。
そして、それを責められると、気に入らないから無視するのです。
つまり自己主張はするが、何も聞いていない人です。
 
ここでは、カルトには、事件を起こしニュースになる前の、
これを多くの人が信じたら、被害者が出るだろうという予想をも含みます。
 
私が相手をしたカルトは、
賛同を得るためには、世辞を言って、褒めまくる人でした。
そして、まるで、子どもに説教するような、丁寧語を弄しました。
分かりやすいだろう、というわけです。
やさしいお人柄と思われたいわけです。
そのような言説では、深い考察が出来ないのは明らかです。
でも、浅薄であっても、やさしいからと受けいれる人は騙されているわけです。
 
いい言葉は、いい意味に受け取りましょう、という、
思いやり?や、素直さ?に見せかけたものが流行っているような気がします。
 
本当の思いやりは、愛に通じるものですから、安易なものではないでしょう。
 
しかも、気に入らないことを無視するアドラー教においては、
気に入られそうなことしか言わなくなるような、例えば、
世辞であるとか、丁寧語とか、幼稚な言葉遣いとかが、メインになってくるでしょう。
無視される側には立ちたくないからです。
 
しかし、世辞ばかり言っていたのでは、真実は明らかにはならないのです。
多くの真実は、世辞などの丁寧語の遣り取りで得られることはなく、
ときには、衝突してでも、時間をかけて、
それこそ、テーマによっては一生のスパンで、継続して、考えるべきことが多いです。
そういうテーマに、小学校の道徳のような幼稚な言葉を当てて、
言い得た気分になっている者がいるということです。
 
真実は単純だからと、
まるで、深く考えるな、深く考えるな、と言って
無視を勧めるようなカルトを警戒してください。関わらないでください。
カルトの言う単純さは、思考停止による短絡に過ぎません。
誰にとっても、思考停止は、有害です。
 
だから、もう一度書いておきます。
気に入らないことを、心に留めて、日を改めて考えることで、新たな気づきを得ることがあります。
その可能性を、無視という心の暴力によって切り捨てれば、新しいものは何も生まれません。
 
無視することは、問題意識を持たないことですから、何の解決にもなりません。
無視すれば、そこから先の思考はありません。つまり深い思考がなくなります。
 
そして、知性としての思考のみならず、
思考が短絡するようになると、情緒的な感受も鈍くなります。
思考によって深められた洞察と理解の可能性そして未知への期待が、
無視によって、いっしょに放棄されるからです。
 
無視するということは、なかったことにすることですから、
次に話のテーマにするとき、また、同じ無視を繰り返さないといけないことになり、
未知が、いつまでも、未知のまま、ゴミ箱に捨てられ続けることなのです。
 
人に批判されることが大嫌いな人の便法として、実際には、
その場しのぎとして、逃避として、唱えられている無視という短絡は、
人間を、深みのない鈍い人格に変えてゆきます。
しかも怒りっぽさだけは、心の内側に、負債のように溜まってゆくのです。
 
つまり、前にも書きましたが、
無視するということは、学習と成長を拒否することです。
人間の健全な心の活動を妨げる宗教はカルトです。
 
無視することではなく、そのとき不快であるなら、保留することです。
無かったことにするのではなく、題材として残しておくことです。
いわば、無視は暴力、保留は非暴力なのです。
 
一人で、心に余裕のあるときに考えてみてもいいでしょう。
別の人と話し合うのもいいでしょう。
心と頭の中を、経験を織り交ぜて、転がしてゆくうちに、
問題は、解決しなくても、整理され、処理されて、
対立軸となるか、糧となるか、何らかの形に収束してゆくでしょう。
それが正常な思考、正常な人間性だと思います。
 
 
(2019年09月13日)
 
 
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