ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー心理学:キリスト信仰の立場から

 
  アドラー心理学:キリスト信仰の立場から
 
   アドラー心理学サロン
   https://www.adlersalon.com/entry/2019/09/13/045019
    2019-09-13  
 
 
私は、キリスト者ですが、キリスト信仰においても、人からの自由、ということは言われます。しかし、ここで語られていることは、人を無視した自分勝手ということのようです。
 
>幸せはいつも自分の中にある
 
幸せというものに、人との関わりはないのでしょうか。
誰かと分かち合いたいという幸せはないのでしょうか。
 
>自分の外側には幸せは存在しません。
 
自分ではない人の幸せを願うことが自分の幸せにつながる人間関係があるでしょう。
その人とは、いつも一体のように噛み合うでしょうか。そうではないし、
そうではなくても、特定の他者の幸せが自分の幸せということはありうるでしょう。
感じるのは自分だからと、断言して、誤解と曲解に陥りやすいところです。
 

つまり、他人や物によって幸せになることはできないということです。

 
他者や他者の持っているものが、助けになること、良きものを共有したり、共感したりすることは、ありうることです。それらは、幸せの大切な要素です。
 

どういうことかと言いますと、人はそれぞれ違う世界を見ており、これまでの経験や知識も違えば、性格も完成も何もかもが違うのです。

 
自分ではないということは、違うということは、
無視しなさい、ということに結びつくわけではありません。
むしろ、関わることで、自分にはない良い影響を受けることもあるでしょう。
 

誰かにとっては悪い人があなたにとっての善人であることもあれば、あなたにとっての善人が誰かにとっては悪人であることもあるのです。
また、ある物が誰かにとっては良い物でも、あなたにとっては悪い物であったりもします。

 
そうでない場合もあるということでしょう。一方を主張しすぎです。
また、人の判断は、状況と時間によって、変わりうるものです。
変わりうるということは、ある時点で決めつけて固定してはいけないということです。
 

それでいて、あなたの欲しいものだって子供の頃から今まで、何度も変わってきているはず。

 
欲しいものや好みだけでなく、人間は変わりうる生き物です。人間は、何が大切かという考え方も内容も、成長によって、変わりうるのです。
 
このことから、ある一時点で、気に入らないものを無視する、と決めるのは危険だと言わざるを得ません。無視したものは帰っては来ません。無視してよいと言うことの暴言たるゆえんです。
 

つまり、結論から言うと何が自分にとって大切なことで、どんな人が自分に合うのかをよく知る為に、あなたがすべきことは「自分を知る」ことなのです。

 
自分を知るために、他者の意見を参考にするというのは、当然、あって不思議はないのです。
 

もちろん、前述の通り人は年を追うごとに、経験を積み重ねるごとに趣味嗜好が変わっていきます。
ただ、本質的な変わらない性格や感性は中には存在します。

 
自分の性格と感性は変わらないでしょうか。まるで生まれてきたときに決まっているような言い方ですが、そうではありません。人間は、様々な影響を受けて、学習によって、あるいは、無自覚に自然に、性格も感性も変化し成長する生き物です。そして、影響を与える最も大切な存在は、他の人間であります。
 
人間は、他者との関係において、成長をしますが、もちろん、悪い影響もあります。それを見極めるにも、学習と成長は大事なのです。あるときの一度の決定で対処して、総てが変わって良くなるということは期待できません。
 
イドの快楽かエゴの自我の勝手で、これが正しいと、訂正不能に決めてしまうと、超自我も理性も、倫理も宗教も、働かなくなる危険を考えるべきでしょう。自分を訂正不能の恣意の単方向に曲げて固めてゆくかどうかも、決めるのは自分なのです。
 

自分をよく知ることで、外側に存在する人や物に何を見出せるのかを知りましょう。
もちろん、定期的に更新されていきますので、定期的に自分との対話をする必要はあります。
他人は本人の為に生きているのであって、あなたの為に生きてくれることはありえません。
自分の思い通りになる人なんて、この世界に存在しないのです。

 
自分の思い通りになる人がいるという思い込みに向かって言っているようだが、他者からの影響について、極端な全否定の言い方だと思います。極端な事例をもって一般を語ってはいけません。
 
他者が助けてくれることもありますし、良い影響を与えることもあるのです。この地上に生きるということは、極端な思い込みに走って解決するようなものではありません。
 

自分の求めるがままに振る舞わせることはできても、その人の思考から来る本心までを変えることは、どんな権力があっても不可能なのです。

 
このことは、他者を無視することの、関係ないことでしょう。
もともと他者を変えるという話ではないはずです。
 

また、物欲から何かを欲しがって、いざそれを手に入れたとなればすぐに飽きて別の物、もしくはより多くを手にしたいと考えるのが人間です。
あなたも、憧れのブランド品の財布やバッグを手に入れた途端に、数日後には手元にある苦労して手に入れた物がどうでも良くなった経験があるのではないでしょうか?
つまり、人間の欲望は尽きることがないのです。

 
それでいて、気に入らないことを無視することを勧めるのは矛盾しています。気に入ったことだけ求め、受け取るわけです。人間の欲望は尽きることがないのに。
 

要するに、良い人や悪い人、良い物や悪い物があるのではなくて、自分がどう思うのか次第なのです。
世界はあるがままに存在しているのであって、誰の為にも存在してはおりません。

 
世界はあるがままだから、考えてもしょうがない、という理路は成り立ちません。
総ての人間のあるがままは、影響し合うことで世界を成り立たせています。
よかれあしかれです。例えばカルトは、結局、多くの人を不幸にします。
まるで、この世界に善も悪もないという言い方は現実無視と言うべきです。
このように、アドラー心理学は、自己中心に現実を無視してゆく危険があります。
 

この世界そのものは、誰にも優しくはないのです。

 
この世界そのものを、優しいとか優しくないとか決めつけるのは間違っています。そんなに、はっきり言えるような世界ではありません。
 

だからこそ、自分をよく知って自分が住みやすい世界を自分の中に見出して、自分にやれることをやって実現する努力が大切なのです。

 
自分に凝り固まっていると、だんだん、誰とも本気で話が通じなくなるでしょう。
 

不幸な人とは、一言で言えば「人生で何も見出せなかった人」であると表現できます。
幸せは自分の中にしか無く、外の他人や物が自分を幸せにしてくれることはありえないのです。
他人や物に執着して「あれヤダこれやだ」言って自分のやれることを放棄してる人は欠乏感に苛まれたまま人生を終えてしまうのです。

 
気に入らないことを無視し続けていれば、反省機能が働かず、気持ちの良いことだけを求めるようになるでしょう。待っているのは凝り固まりであり、捨てられるのが学習と反省と成長です。
 
また、不穏当にも、明らかに他者の行為で不幸になる場合を、無視しています。
どうも、いろいろ、無視して、無視し過ぎて、極端に走っているところがありそうです。
 

他人が自分をどう思うのかを気にしていることも、他人に執着していることになります。
他人に、自分の意図通りに自分のことを思って欲しいという承認欲求から、他人に対して「こうして欲しい、ああして欲しい」と願うことは、他人への執着が強いと言えるのです。
「他人が自分をどう思うのかは、他人の課題であって自分の課題ではない」と、アドラー心理学の「課題の分離」の考え方を持って、他人への執着心を抑えていくことは、自分らしく生きるのに必要なことなのです。

 
「嫌われる勇気」に関係していると思いますが、誰に嫌われても平気でいられるでしょうか。愛する人に嫌われても平気でいられる人になりたいのでしょうか。自分らしさが人間離れする恐れを考えるべきであり、それが、知性と感性そして人格として、自分らしいかどうか考えてほしいところです。
 

「他人がどう思うのか?」を気にせずに、相対的に他人との比較を止めることも重要です。

 
こういうことを言ってしまって、好ましい人を参考にする、ということをしなくなる危険を感じないのでしょうか。参考に出来る人というのは、自分にない良いものを持っている人ですが、それは、比較することで分かることなのです。だんだん、他者を全部無視しろと言っているような筆致です。
 
それに、他者との比較は、するまいと思っても、してしまうものです。それを、するなというのは、超人的無視力を養えと言っているに等しいでしょう。相対的という言い方はおざなりです。
 
このことは、当たり前のこととして、比較にこだわって、うじうじしているときに、言ってあげること、つまり、人と比べても仕方ないだろう、で済ませることなんです。
 

「世間では~」、「一般的には~」、「みんなが~」などといった考え方をしていると、それはあなた自身の考えではなくて、総じて他人の考え方や価値観に従っていることと同じになってしまいます。
たしかに、自分にとっては何のこだわりも興味も無いことを決めるような場合など、時と場合によっては一番選ばれているものを選ぶことは、過ちを避けることに繋がります。
しかし、何でもかんでも自分の意見や価値観を持たずして「みんなが良いと思っていること」や「みんなが悪いと思っていること」に従ってしまうことは、やはり「自分にとって何が大切なのか?」という自分の中で見出すべきものを曖昧にしてしまう恐れがあります。

 
自分の意見や価値観を持つことは、他者との関わりや比較やその情報を得て学習することなしにはできないと思います。他者からの自由を説きながら、学習も反省も出来なくなる恐れがあります。
 
私が相手をしたアドラー教を宣伝していた者は、曖昧なことばかり言いながら、執拗に他者の意見をおとしめてきました。言葉だけにこだわって理屈をこねていると、人間の心のブレーキが利かなくなり、極論を詭弁で言い張るようになります。そこには人間としての感性と思慮が失われた有り様が表れます。
 
その者たちは、人の言ったことの中で、言い返せるところだけ、言い返して、都合の悪いところは無視してゆくのです。したがって全体の文脈が保てず、一部をあげつらって全体を言い得たつもりになってしまいます。把握力が、鍛えていないために、劣化し、それに気づかないか、それもまた無視しているようです。
 

あなたも今一度「自分はどういう考え方をして、何を大切にしているのか?」を吟味して、自分の中で大切なことを見出してみるようにしてはいかがでしょうか。

 
何を糧に吟味するのでしょう。自分の感じたことを是とするのでしょうか。不都合なものを無視して、都合の良いものだけで満たされた精神で?
 

自分が文字通り、ずっと無我夢中になってのめり込めることが見つかれば、それはとても幸せなことです。

 
当たり前のことです。しかし、ここでも、人の迷惑にならない範囲で、という、当然の制限が無視されているようです。人の迷惑も無視してゆくのは幸せではないはずです。
 
 

 
キリスト信仰の、人からの自由は、古くは、迫害者を意識して唱えられたのかもしれません。しかし、この世と、神との、二つに同時に仕えることはできない、という聖句は、今も生きているのです。讃美歌には、世の友われらを捨て去るときも祈りに答えて慰め給わん、・・だったか。
 
嫌われる自由というのは、ひるがえって、なんてやつだと、相手にされなくなってゆくので、近づきたい人や愛する人には、行使してはいけない。でないと、広がって、誰からも、話にならない、とんでもない自己中、と見なされるでしょう。また、世辞だけ言って気遣ったつもりの者もいましたが、真の気遣いの必要を無視しないように。
 
気に入らないことは、心を病むほどには気にしなくていい、ということです。思い煩うな、という聖句があります。気になっても解決しないことは、保留してください。無視してしまうと、学習にならず、反省にもつながりません。無視ではなく、いったん離れて休んで、気が向いたら思い出す、という保留によって反省放棄や学習放棄を避けてください。
 
自分の意見や感性を絶対としてはいけない。絶対の意見や感じ方で凝り固まることは、いっとき、楽になっても、結局、人格を、感情鈍麻と浅薄な思考によって、破壊してゆきます。人間は、一生涯、反省し学習し成長する必要があります。
 
人間の感じること、人間の判断すること、また、人間らしさ、というものは、成長という時間的にも、及ぶ範囲という空間的にも、決して絶対的ではありません。一時の思いに短絡して、全体を決めつけて、長い一生を無にすることのないように、人に向かって語る人は、よくよく考えてほしいと思います。そして、反省して修正可能であってください。それが、成長可能ということです。
 
この記事は、どうも、対人関係のトラブルと、他者の存在を、混同しているように思われます。筆者のブロガーは、何か、対人関係で、ひどい目にあったのかもしれません。だからと言って、学習するのに、本だけ、読むだけ、見るだけ、というわけにはいきません。動かないものだけでなく、動く心を持っているならば、他者を避けてばかりはいられないでしょう。仲間ぼめだけでは成長はありませんから。
 
好かれても好かれなくても、嫌っても嫌われても、この世の他者は関わってきます。対人関係が苦手なら、苦手なりの関わり方がありそうです。そのことについて、私は、決して得意ではありませんが、努めるしかなく、十分ではないけれど、無視すればよい、という短絡で、感じない人や考えない人にはなりたくありません。成長を考えれば、必要と不要が、総て最初から分けられる性質のものではないと知るべきです。
 
課題の分離というけれど、生身の人間は、人間の心は、分離できません。言葉の認識だけ分離しようとしても、他者へ行使すれば、分離されたことに対応する反応が返ってくるだけです。私も、そのように反応した他者の側であったこともあります。反応への相手の反応が、恐ろしく鈍く、身勝手であったことを覚えています。
 
私たちは、生きて、常に刺激を受け、反応しているのです。そういう割り切れない関係が止むことは、死ぬまでないのです。一気に解決よりは、むしろ、折々の、心の癒しを考えるべきでしょう。
 
 
(2019年09月14日)
 
 
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