ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

嘘だと言う嘘

 
  嘘だと言う嘘
 
   『サピエンス全史(上)』
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12525068226.html
   楽山日記(a)2019-09-14 07:48:38
   (楽山)
   特にテーマは限定することなく、趣味的なことを、風の吹くまま気の向くままに書きます。
 
 
楽山は、性懲りもなく、宗教を、個人的に軽視するだけでなく、嘘、必要悪、ほのかな期待の灯、などと、揶揄しています。恐らく、宗教に対する強烈な嫌悪があると思います。しかし、自らは、自己中促進のアドラー教を宣伝していたのです。真っ当な信仰者の敵として批判してきました。
 
(楽山)
「はじめはざっと眺めるだけにするつもりだったのだが、予想以上に面白くて結局通読してしまった。ホモ・サピエンスが出現し、ネアンデルタール人が滅ぶ頃の話は興味深いし、大勢が参加する大きな社会をまとめるには神話が必要とされ、宗教、人権などもそのような役割を担っており、虚構であるとしてるのには驚かされた。いやそういう考え方があるのは前々から知っていたことではあるし別に驚きはしないが、それをあからさまに断言してしまうところに驚いた。著者はとてつもない勇者か、言論の自由がよほど尊重されるところに身を置いているか、それともその両方なのだろう。
宗教も、人権も、それから〇〇主義も、みんな神話、虚構であり、ざっくり言えば嘘っぱちだとしても、巷には必要悪という言葉もあるし、もう14歳の反抗期でもないので、大人はみんな嘘つきだなどと暴れる気にもならないし、現実なんてそんなもんさとニヒルなポーズを決めようとも思わないのであるが、それでも社会の基盤となる価値基準はすべて嘘だとされれば、若干、足下の地面が揺れているような不安定な感じがしないでもない。」
 
(楽山)

宗教も、人権も、それから〇〇主義も、みんな神話、虚構であり、ざっくり言えば嘘っぱちだとしても、巷には必要悪という言葉もあるし、

 
宗教を、嘘っぱちだと言い、必要悪だと言っています。
宗教に真実など、かけらもない、という考えでしょう。
この記事は、反信仰の記事ということです。
 
史実という事実は詳細には分からなくても、
楽山が、真実、特に、宗教的真実というものを理解していないということは、よく分かります。
事実とその証明ばかりを追って、何も生きるための収穫がないのは、心に何も受け取っていないからでしょう。
 
真実は生きるために必要なまこと、史実や事実であるかどうか、また、証明できるかなどは、関係ないのです。
 
嘘は、自分の利益のために言う偽り、楽山やシャロームが、ずっと言ってきたことです。
 
宗教は、必要悪でしょうか。楽山は、例えば、おとぎ話か空想の存在に拝んでお祭り騒ぎをすることを宗教と思っているようです。そういう者が、必要悪だと言えば、宗教は、慰めか気晴らしみたいな意味として考えているということです。そして、分かっているふうに、それを宣伝しているのが、この記事です。
 
(楽山)

社会の基盤となる価値基準はすべて嘘だとされれば、若干、足下の地面が揺れているような不安定な感じがしないでもない

 
楽山にとって、宗教は、足元の礎(いしずえ)ではありません。足下の地面が揺れているような気がする程度のもの、つまり、それは、楽山の思想の足腰が不安定で、ふらついているだけなのです。
 
すべて嘘・・とは、思い切ったものです。では、楽山の吐いてきた嘘や詭弁を考えるとき、楽山という存在も、楽山の言うことも、嘘という他はありません。成りすましの疑惑もあります。
 
このように嘘という悪いことを、「嘘だとされれば」と、他者のしわざにのみ当てはめ、実は自己中心に、被害者みたいに嘆いてみせるのは、楽山の技であり、ボロクソ節で、こき下ろすのは、シャロームであります。この者たちと何かを共有するならば、自己中心と訂正不能への虚無への堕落だと思います。
 
証明しろ、証拠はあるか、などと、しるしを求めてばかりの者は、聖書の話にもありますが、そのままでは、本当の命に至ることはありません。楽山のような人は、恐らく、言葉という石を並べて、ああでもない、こうでもないと、上から批評して、それで言い得たと終わってしまうだけでしょう。
 
それが知性だと思っているのでしょうが、足らざるを知らぬ、ということを、自らに当てはめたくない者は、宗教を言葉だけで対象として、けなす側に回り、少しばかり便利だと思ったアドラー教に惹かれて、自己中心を宣伝したりするのです。
 
真の宗教と信仰は、楽山の考え方ともアドラー教とも本質的に違うのです。真実を心に持たない者は、このように、幼稚な勘違いをして、遠慮も慎みもなく、軽しめとおとしめを公共の場に書いて、平気でいるのです。または、別の短絡として、シャロームのように、奇跡で守られているから、罪は気にしなくていい、などという世迷言を、だらしなく言い続けるしかなくなるのです。
 
神は、誰によっても、その存在も不在も証明されてはいません。だから信じても、絶えることのない希望として信じるのです。キリスト信仰は、多くの人を救い続けています。決して空想への逃避による慰めでも気晴らしでもありません。そのためには、滅多に起こらない超常の奇跡よりも、人間らしい思慮と情緒、そして、人間としての意志の正直さを必要とするのです。楽山には、それが無い。
 
 
(楽山)
「でも現実を直視するというのはある意味こういうことなんだろう。一寸先は闇は当然として、足下も地面があるのかないのか分からないくらいにゆらゆらしていて、まるでどでかいトコロテンの上にでもいるような心持ちがし、」
 
楽山は、何を血迷ったのか、アニメみたいなたとえを書いています。自分に救いがなくなると、読者を、地獄に落ちるんだと言って、脅したいのでしょうか。
 
(楽山)
「…と、まあ、深刻そうなことを書きつつも、こんな思いはごくまれにふとした弾みに一瞬の間だけうたかたのごとく心に浮かんで消えるだけで、大概は朝から晩まで何も考えず、くだらん冗談を言いながら、のほほんと気ままな生活を送ってるだけなんだから気楽なもんだね。」
 
楽山の、白々しい筆致です。この記事全体を、結びに至って、軽くして、半ば否定しているかのようです。その気楽さが、浅く軽い筆致となって、小学校の道徳のような月並みなことを、私が、ボンヤリ言語と呼んだ、焦点のない書き方で、クリスチャン芝居をしてみせたり、優しさアピールみたいなことを書いてくるところに、その底にある、どす黒いものを感じないではいられません。
 
(楽山)
「意を決して地面の下をのぞいてみれば何の支えもなく漆黒の闇が口を開いているだけというイメージ。そこに地獄の業火でも見えれば、やはり地獄はあったか、そんなら天国もあるんだろうとほのかな期待の灯をともすこともできなくもないだろうが、そんなささやかな期待もゆるされぬほどの底なしの闇があるだけ。怖ろし。」
 
楽山が、「意を決して」何かを言うのを一度も見たことはありません。楽山は、いつも、曖昧で、結論にも判断にもならないことを言ってきました。あるいは、小学校の説教のような当たり前のことを書いてきました。
 
今度は、ホラーみたいに書いて、お伽噺で結ぼうとしています。どこまで宗教と信仰の的を外し続けるのでしょう。全く宗教人にとっては迷惑です。「怖ろし」いのは、楽山のことです。
 
(楽山)
>地獄の業火でも見れば
 
楽山は、見ることなど考えていないと思います。神聖を毛ほども恐れていない体質です。
 
(楽山)
>地獄はあったか、そんなら天国もあるんだろうとほのかな期待の灯をともす
>ささやかな期待
 
地獄も天国もマンガかアニメほどにも表せていない楽山にとっては、冷やかしのための題材に過ぎないようです。天国は、気休めのような引用の言い方で語られるところではありません。
 
信仰者にとって、ほのかな期待でもなく、ささやかな期待でもなく、生きている今、希望し、考える必要のある切実なテーマであります。楽山は、心が無いために、それを受け取れず、開き直って揶揄したいだけなのです。
 
信仰の立場から言えば、天国について詳細は知りません。しかし、信仰によって、祈りによって、癒しを感じるとき、天国を垣間見ているのかもしれません。それは、時々の感動であり癒しであり慰めであります。ほのかでもなく、ささやかでもなく、それは、真剣に信仰しているものにとって、なくてはならないものなのです。
 
楽山は、いつも底なしの闇を見ているのでしょう。そして、共感に見せかけて、人を誘っているのでしょう。弱っているなら、救いを求めるはずですが、楽山の一貫して変わらない姿勢は、天国も神聖も、上から見下ろすスーパーバイザーの視線で、気安く批評しているに過ぎません。それは、決して成り立ちません。天国も神聖も、上から下を見る視線では、決して見えてはこないからです。
 
(楽山)
「ところで手元にある本の帯には、「種の繁栄か、個の幸福か―」なんて言葉があるけど、その方面の本を読んでみると群淘汰は微妙な状況にあるらしいが、これは純粋に科学的な知見によるだけでなく、全体主義をタブーとし個人の尊重をよしとする昨今の政治的な空気との関連はないのだろうか。なんか全くの無関係でもないような…まあこんなのは愚問ではあり勘ぐりすぎであろうが、ちょっと気にならないこともない。」
 
(楽山)
全体主義をタブーとし個人の尊重をよしとする昨今の政治的な空気
 
楽山は、いったい、いつの政治的な空気を語っているのでしょう。国民の無関心と、いい言葉はいい意味に受け取るという単純さの蔓延によって、政治が、一方的な方向に、さらに独裁に向かいつつあることが、思慮深い人々によって叫ばれていることを知らないのでしょうか。むしろ、危惧されるのは、全体主義であり、個人の尊厳と自由と生存権が侵害されてゆく危惧なのです。楽山は、何も分かっていないし、分かろうともしていないようです。
 
このように、ズレまくったセンスで物を言うのが、今までの、そして、今回の、楽山の言論の筆致と中身なのです。本から言葉づらだけを拾ってきて、一度も暫定的な結論にも至らず、また、現実を見て、正当な判断をすることも出来ない人です。なのに、何の遠慮も慎みもなく、謙遜も敬虔もなく、いつもボンヤリ言語でごまかしながら、発するほうだけは、まともなつもりで、宗教や思想について、図々しく書いてくるのです。この執拗な図々しさは、よく言われる図々しさとは全然異なって、体質のように染みついていて訂正不能であり、稀であり、カルト的であり、悪質です。
 
私は、楽山とシャロームを、的外れ応答しかしてこないために相手を疲れさせるだけなので、ネットにおける疲労物質と呼んでいます。詭弁を弄し、話を恣意的に逸らし、ご機嫌取りに世辞を言い、人を大事にしているかのような優しい振る舞いの見せかけの狡猾さだけは持っていて、そこから、広まれば人格を壊すようなカルト思想を書いてくるのです。表れ方は違っても、この二人は、よく似ていることから、易坊を加えて、成りすましを疑っています。
 
 
(2019年09月16日)
 
 
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