ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

ボンヤリ言語の卑劣

 
  ボンヤリ言語の卑劣
 
   楽山日記(a)
   『神は妄想か?』マクグラス
   2019-09-30 06:47:02
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12531001772.html
 
 
楽山は、カルト宣伝者としてのボンヤリ言語と詭弁によって、キリスト信仰を揶揄したり、おとしめたりしてきましたが、この記事で分かることは、ネズミのように、こそこそと、目立たないように詭弁を滑らせてくるということです。それはそのまま、堂々と批判返しの反論も弁明も発表できない自分は卑怯者です、と楽山が自分で言っているようなものなのです。
 

本書は、ドーキンスの『神は妄想である』を批判するものだけど、以前何回かチラ見し、今度また少し読んでみた。はじめて見たときは、ドーキンスの「神は妄想であって、存在しない」という主張に、真っ向から勝負を挑み、「神は妄想ではなく、存在する」と反論しているのにちがいないと期待していたので、ドーキンス批判に終始していて、神の存在証明を目指しているのではないと分かったときは肩透かしされた感じがしてズッコケてしまったのではあるが、ドーキンス批判の書と割り切って読めばけっこうおもしろい本である。

 
「神の存在証明を目指しているのではないと分かった」ことが、ズッコケるほど、面白いのだそうです。楽山がどちらの立場かと言うと、今までのことから、もちろん反キリストの立場でしょう。私がどういう立場かというと、神の存在証明を目指すことは無意味で、反キリストは愚かだと批判する立場です。
 

まず著者は、ドーキンスは自説に好都合なことは針小棒大に拡大したり、特殊例を一般化して吹聴していながら、都合の悪いことは黙殺し、神学の理解は浅く、宗教に無知であるにもかかわらず断言、決めつけが多く、科学者であるはずなのに科学的な思考を捨て去っていてあまりに独善的にすぎるなどと、具体的な証拠と論理を示しつつ、ドーキンスの難点を指摘していて説得力がある。

 
宗教に無知、決めつけが多く、独善的に過ぎる、などは、そのまま、楽山に当てはまることです。このように、カルト思想と自分信仰・自己中心に凝り固まると、他者のことを言っているつもりで、実は自分を表しているということは、今までもあったことなのです。そして、楽山のボンヤリ言語には、理路も共感もないために、説得力がありません。
 

さらにはドーキンスはあまりにも極端で攻撃的で独断的な言辞が多い無神論原理主義者のようになっているために、本来ならドーキンスを支持するだろう無神論者である科学者たちが、最も熱心な批判者になっている例が少なくないとか、ドーキンス批判の急先鋒になっているはずの知的設計者運動を支持し反進化論の立場にある者が、ドーキンスのおかげで無神論に距離をおく者が増えるのを期待できると皮肉交じりの感謝の言葉を述べている例を挙げたりもしている。

 
もともと、神を、人間の理路の上で、合ってるとか合ってないとか、人間が判断することはできないのです。無神論の記事をありがたがって載せても、その理路が、他者の記事の悪用に依存しており、加えて、理路がスポンジ状態になっているのでは、無神論=カルト的幼稚さ、と言う他はなくなるでしょう。しかし、楽山は、そのことにだけは、恐らく、生涯、気づかないのでしょう。
 

いやはや、これではドーキンスも形無しである。ただ著者の主張を読んでいると、著者のイエス観、キリスト教理解にはやや首を傾げてしまうところも無くもない。たとえば著者は「ナザレのイエスは誰に対しても暴力を振るわなかった。彼は暴力を受ける対象にはなったが、暴力を行う行為者にはならなかった」(p.96)と書いているけれども、聖書ではそのようには語っておらず、イエスは神殿で屋台などを打ち壊し、商人らを追い出したとしているだろう。これは暴力であり、実力行使だと思うのだが、著者はそうではないという解釈なのだろうか。

 
さて、楽山の、情けない悪口が始まります。キリストによる宮清め、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
21:12
それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
21:13
そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
21:14
そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。
 (マタイ21:12-14、新約聖書
 
13節に明らかなように、キリストは、本来のあるべき姿を失った神殿を、商人たちを追い出すという行為によって、清めた結果、14節にあるように、盲人は足なえがキリストのもとに来て、癒されたのです。義憤によるプロテスト的行為を、楽山は暴力の一言で決めつけて断罪しています。
 
楽山は、とにかく、悪いと決めたら、どこまでも、理路などお構いなしに、決めつけて、反省もせず、修正機能もなく、ゼロの評価と過剰の罰を与え続ける人なのでしょう。この罪は、・・小さくはないでしょう。
 
部外者なら黙っておればいいものを、知ったかぶりの体質のために、神に対して、いちゃもんをぶつけてきたのです。人間の心を見ることが全くできない楽山は、真実を求めることだけは決してやってはならないことだということを、楽山自身が表しています。
 

また福音書に描かれたイエスは別のところでは、いちじくの木を呪って枯らしたり、母親に親孝行とは言えないような発言をしたり、その他にもかなり厳しい発言も少なくないし、こういったエピソードからするとイエスは非暴力主義者の側面はあるにしても、必ずしもそれだけの存在ではなく、もっと深みがあり、そう簡単に「〇〇はしなかった」「××と考えていた」というように決めつけることはできない存在だったように思えるが、著者はどのように考えているのだろうか。

 
楽山の汚さが表れています。度重なるクリスチャン芝居やキリスト否定の後に、今さら、非暴力ではなく、もっと深みがある、などと、こともあろうに、キリストを世辞で持ち上げても通用しないのです。既に、この約一年で、楽山の身の程を弁えない的外れと不遜と暴虐は、神聖に対しても、人間に対しても、おびただしく積まれており、今後も、傍証を増やすだけということです。
 
ある部分のことを褒めて、結局、全体を否定してゆくつもり、という詭弁でしょう。決めつけることはできない、と言いながら、自分の都合の良い位置に、自分と同等の位置に、キリストを置こうとする楽山の魂胆は許しがたい言葉のペテンです。
 
これほど、言葉も、御言葉も、平気で罠として悪用する者は、そうはいないでしょう。これこそが、最悪の、詭弁による擦りこみ、という、決めつけなのです。最初からの悪意、そういう人がいる、という例になります。
 
その思いの奥底で、最も反キリストに凝り固まって、種々の事柄を、否定の決めつけに誘導するように方向性が決まっている者こそ、楽山に他なりません。騙されないでください。これが、楽山の持ち前の、どっちつかずの表現による誤魔化し、すなわち、ボンヤリ言語なのです。
 

著者の立場からすると護教的になってしまうのは致し方ないとしても、この辺りを読むと、自説に不都合なことは無視し、都合の良いことは膨らまして語るというのはドーキンスに限ったことではなく、著者についても言えないことでもないような気がしないでもない。というか、こういうことがまるで当てはまらない人なんていないのではなかろうか。他人を批判したら、自己紹介になってしまったというのはそう珍しくないことではあるし、自分も気をつけなくてはならないことではあるけど…。

 
また出ました、無神論なのに、「自分も気をつけなくてはならない」と、共感があるかのように見せかける、ボンヤリ言語です。これを受け入れてしまうと、その後の、楽山に対する意見も批判も、ああでもない、こうでもない、の煙に巻かれ、批判する側は、結局、なぜ分からないんだ!、という疲労によって消耗するか、いつのまにか、楽山の味方になって、同じようなことを言うようになってしまう、ということです。こういう暗示や、刷り込みや、印象操作で、支配されるときには、被支配の自覚が失われるというのがカルトの特徴でしょう。
 
ここで言えることは、こういうやり方をする楽山は誰よりも底意地が悪いということです。人がどう悩もうと、あるいは、廃人になろうと、残念なことです・・と言ったとしても、あとは何事も無かったかのように、ケロッと、平気で済ませてしまうような人物だと思っていてほしいです。
 
こういう特徴は、気に入らないことは無視、嫌われる勇気、というアドラー教に合致しています。神など微塵も信じておらず、自分信仰の慢心の上から物を言い、他の信仰者を滅ぼすことにしかならない人だと判断しています。批判されても批判されても、何も返せないくせに、また書いてくることが傍証であります。
 
楽山は、ある意味、底無しに残酷な、良心と罪悪感を持たないホラーの人なのです。だから、サイコパスと判断している易坊やシャロームとの成りすましを疑っているのです。汚い刷り込みと、言葉遣いによる印象操作、詭弁による言い逃れ、嘘を平気で吐く、高等感情の鈍麻、不感不応、理路の短絡と固着、丁寧に無根拠だけを押し出す、今まで、楽山がやってきたことです。
 
私は、今までのことがあるので、楽山の書いたものを読むたびに、吐き気を催しながらも、対立軸を意識することが、今は、なんとか出来ています。人の言うことは聞かないが、自分は好きなように言う、こういう有り方で、反省機能も学習機能もなしに、自分中心に本を読んでも、結局は、最初の児戯的で原始的な疑問が、そのまま、今の疑問であり続け、そこに悪口を言うだけになるのは、いかなる進歩も見られない醜態が常態となるゴミの山の堆積でしかありません。
 
楽山は、学ぶということの的を外し続けて、性懲りもなく言い続けることで、こうは、なりたくない、なったら、おしまい、という見本として反面教師であり続けるのでしょう。自覚のない自己中心しか残っていない者の成り行きです。ここまで聞く耳を持たない人は珍しいですが、いくら言っても無駄です。恐らく、過剰な自尊が災いして、まともな人間とは違う筋に生きる本能的予断動物と化しているのでしょう。
 
素直であることを教会から教えられているキリスト信仰者が、楽山と付き合って、コメントの遣り取りなどをしたら、それこそ精神疲労から病気になるか、信仰を食い荒らされるか、奴隷になるかだと思います。けっして、楽山、シャローム(今、ヤフーに書けなくなって、ネット上所在不明)、易坊、他にもいて、今は控えておきますが、これらの者たちと交流しないでください。彼らが、組織的である可能性も、否定はされていません。
 
 
(2019年10月02日)
 
 
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