ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

文責への無責任

 
  文責への無責任
 
   アドラー心理学サロン
   https://www.adlersalon.com/entry/2018/09/15/%E8%AA%B2%E9%A1%8C%E3%81%AB%E4%BB%8B%E5%85%A5%E3%81%95%E3%81%9B%E3%81%AA%E3%81%84%E5%A2%83%E7%95%8C%E7%B7%9A%21%21
   2018-09-15  
  自分の課題に介入させない境界線!!
  アドラー心理学サロンです。
 
 
アドラー心理学、すなわち、アドラー教の、文責に対する無責任と、それこそ、広めようとする側の自己中心が明らかになっています。
 

今回は、対人関係の中で最も多いと思われる、他者との境界線とは何なのか、またどのように境界線を引くべきのなのかについて書いていきます。

 
物理的な境界線ではなく、精神的な境界線ですから、どのようにして境界線を引くかを考えるときに、それは、引けるものなのか、引いてよいものか、ということを考えないと、社会問題になるでしょう。
 

先ず、アドラー心理学の大きな特徴として、「課題の分離」の考え方があります。
この「課題の分離」は、集団主義的な日本社会においては非常に斬新な考え方であるとして多くの注目を集めました。

 
その課題の分離が可能なのかについて、前に疑問を書きましたが、
集団主義的な日本社会において斬新だから引けると言ってよいものなのでしょうか。
斬新と言うのは、場合によっては、残酷になりうると思います。
 

それと同時に、このアドラーの考え方は自分中心で身勝手なもので、アドラー心理学によって世の中が混乱してしまうとした意見も多数湧き上がりました。

 
それは、気に入らないものは無視しましょう、という無責任な教えを垂れたからです。
ここから、身勝手な自己中心への危惧を推測することは、ごく自然なのです。
 

では、アドラー心理学で提唱されている
「課題の分離」の定義を確認しましょう。
「他者とあなたの課題は異なり、他者があなたをどう思うのか、どう感じるのかといったことはその他者の課題であり、あなたの課題ではない。」
というのが、「課題の分離」です。

 
定義ではなく、考え方であり、それを、どう教えて、自己中心との境界を分別するのか、ということを含む問題なのです。「課題の分離」は、導入に大きな現実的な課題を残しているのです。
 

相手の課題に介入することは、例えばあなたがその相手を好きだとして、
「何で私があなたを好きなのに振り向いてくれないんだ!」と悩んだり、

 
これは、介入がそのまま身勝手であり、例として挙げるには、極端すぎます。
 

「私はリンゴが好きで、こんなに美味しいのに何であなたはリンゴが嫌いなんだ!納得できない!」と悩むことと同じなのです。

 
これも、同様です。言うに事欠いて、極端な例しか上げられないことが重要な問題、すなわち、疑問となることを、筆者が表しています。
 

日本では特に、
「私はみんなの中の一人であり、みんなの一部」といった考え方が浸透しております。

 
浸透しているとまでは言えません。個人主義に生きる人もいるわけです。極端な例、そして、極端な断定が、あらわになっていることが分からないでしょうか。戦略的・作戦的と思われても不思議のない引用と主張になっています。
 

つまりは、他人と自分の境界線がかなり曖昧になりやすい文化を持っているのです。

 
そこに、課題の分離を持ち出して、よりによって、気に入らないことは無視しましょう、嫌われる勇気、などと主張すれば、自己中促進と思われても仕方ないのです。
 

ここで、アドラー心理学を自分に取り入れるには、こう考えることが必要だと思われます。
「私は私でしかない、その上でみんなの中にもいる」
このように考えることで、自分の自我を保ち、他人との間で境界線を引くことができることでしょう。

 
自分の自我を保ち他人との間で境界線を引いても、他人がその境界線を認めなければ、意味がありません。その割には、自分、自分と、自分の境界線ばかり強調してきたのは誰でしょう。
 

「課題の分離」をすることは、決して他者に無関心になり、自分の思うまま暴虐無人に振る舞うことを推奨しているのではありません。

 
そういう方向に走る人は出てくるでしょう。否定しても、そうなる人のことは、知りませんと言う人は、是とするわけにはいかないのです。広めた責任は、必ず問われるのですから。
 

他者の権利の侵害や法律、マナー守り、自分のことを確立させましょうとする考え方です。
頻繁に耳にするこの「課題の分離」に対する誤解がもう一つあります。

 
他者との分離を勧めていながら、他者のことを守る要素は、どこに主張されているのでしょうか。誤解だと言うだけでは、起こりやすい誤解を防ぐことにも、責任逃れにもならないのです。
 

それは、周りに迷惑になる行動を取る人がいても、それを注意したりして止めさせようとすることは相手の課題に介入することになってしまう。 
というものです。
その周りの中にあなたが含まれていたり、あなたにも何らかの影響が及んで迷惑しているのなら、それは他者の課題への介入にはなりません。
「こうだから、こうだ!」といった考え方は、真面目で心を病みやすい方に多い極端で柔軟性を欠いた考え方です。

 
今まで、こうだ!と、ときには叱りつけるように、言ってきたのは誰でしょう。心を病みやすい人もいるところで、極端で柔軟性を欠いた考え方、と言うだけで済むと思っているのは、あまりにも、自制がなく、かつ、公共性を欠いた考えです。それこそ、自己中心を表していると思います。
 

ここで、他人との境界線とは何かを確認しましょう。
境界線とは、
「他人があなたに対して、取ってはならない行動や言動を表し、あなた自身を守り、あなたが良好な状態でいられるライン」のことなのです。

 
それは、個人主義の世の中では、人によって違うと思います。
言ってることが、いちいち、人それぞれの人任せになってしまう必然を持つ曖昧さです。
境界線を引くことが、人間一般においては、まるで、夢物語のようです。
 
ひと言で言えば、保身の手ほどきであり、しかも、それは曖昧であって、自分で決めて、そこから先は無視することは、しばしば、驚き呆れられることになるでしょう。
 

この境界線は、人間関係においてあなたが快適に生活する為に重要な役割を持つ必要不可欠なものなのです。

 
例えば、国境は、多く明確に引かれます。しかし、眼に見えない自己領域の境界は、必ず、自分と他者によって、異なったり曖昧であったりするのです。境界線を、自分の側で勝手に引いてしまうことは、やはり、驚き呆れられ、自己中と見なされてゆく必然を持っているのです。
 
さらに、重要な役割を持つ必要不可欠なもの、と言っておきながら、境界線を守るために、アドラー教と筆者は、何の方策も示していません。勝手に、人に向かってひいてゆくことになるでしょう、これは私の課題ではないと。そうすればするほど、驚き呆れられ、相手にされなくなるでしょう。
 

他人から嫌がらせをされたり、暴言を吐かれたり、利用されたりすることは、あなた自身の課題に介入されてしまっている状態です。
この場合には、自分の課題への介入をさせないように、あなたの境界線を踏み越えて来ないよう、臆することなく主張すべきは主張するのです。

 
そのつもりで主張してきた、ある人は、みっちり共有する課題について自分勝手なことを言いまくって、人の悪口ばかり言っているような自己中心でした。
 
つまり、アドラー教は、正当に境界線を引くことの困難さを自覚していない、さらに、不法に利用する者を除くための方策を、まるで持っていないことを、今、自身で証明しているのです。
 
それは、最近、踏み間違えが問題になっているところの、ブレーキを踏み間違えるか、ブレーキの利かない欠陥車か欠陥ドライバーのようなものでしょう。
 

それは、本人に直接でなくとも、その場の責任者や労働基準監督署や警察でも外部の機関への主張でも良いのです。

 
でもよいのですって、それで、どの人も聞いて受け入れてもらえるでしょうか。それを勧めたあなたが、面倒を見るべきことではないのでしょうか。
 
従来から、自他の境界については、しばしば、難しい問題であり、そこを間違える心の病もあるわけです。教えておきながら、あとは知らないよとばかり、責任を取らないならば、そこからも、アドラー教の身勝手と自己中心が災いをもたらすでしょう。
 
つまり、前にも言ったように、人格や経験や境遇などの違いがある個人には個別に対処が違っておかしくないところを、一般的に断定的に言ってしまうことの弊害が予想されるわけです。あとになって、つるし上げられないようにしたほうがよいと思います。
 

本記事にて、一人でも多くの人が、他者と課題の分離をして、自分の境界線を守り、日々快適に生活できるようになれることを心からお祈りします。

 
いったい、誰に祈っているのでしょう。やはり宗教なのでしょうか、カルトなのでしょうか。それとも、ここから先は、成り行き次第の、うん任せだから知りません、と言いたいのでしょうか。
 
本記事にて、他者の課題の分離をして、自分の境界線を守り、日々快適に生活することが、アドラー教の筆者からは、もたらされず、全部自己責任にされるのだということが明らかになっているのです。アドラー教の筆者は、何の責任も取る気はないのです。
 
心からお祈りします、という、今さらのコメントには、神頼みしかないという意味でしょうか、知らないよ、と言いたいのでしょうか、ひょっとして、勧めはするが、責任を取る気のない人の本音ではないでしょうか。
 
 
課題の分離などという硬い言葉を使う必要があるのでしょうか。苦しみの中には、不要なものや苦しんでも仕方ないものがあるということではないでしょうか。自他の境界は、言葉で決められるものではありません。その人の個性、状況、課題の内容、などによって様々なのです。
 
従って、自他の課題も、一律に公式のようには語れないでしょう。関係性という根本的な問題についての考察を経ないで単純化して断言し実行してゆくと、やはり、驚き呆れられて、自分が無視した分以上に、自分が無視されて、拒否の態度と、嫌悪の感情に囲まれることになるのではないかと危惧します。
 
 
(2019年10月05日)
 
 
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