ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

犯罪人の義

 
  犯罪人の義
 
 
救いの条件や理由については、何度も書いてきましたが、関連して、聖句を引用します。犯罪人の聖句です。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
23:39
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
23:40
もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
23:41
お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43
エスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
 (ルカ23:39-43、新約聖書
 
39節で、一人の犯罪人は、キリストに悪口を言いました。
 
しかし、40節で、今回のテーマとなる、もう一人の犯罪人は、神への恐れを語り、41節で、神聖に対して、自らの低い位置を語りました。さらに、これは、正直な罪の告白であり、ゆえに、悔い改めであります。しかも、死刑を逃れて助かる道は、もはや、なく、もうすぐ死ぬというときに、語ったのです。
 
つまり、何らかの現世的な利益を求めてはいないということです。
 
42節では、顧みてほしいと、正直に、キリストに願っています。さらに「御国の権威をもっておいでになる時には」と言うのは、イエスが、キリストであるということを告白しています。
 
43節において、キリストは、それに答えて、「一緒にパラダイスにいるであろう」という、これ以上ない最大の褒め方をもって、救いの約束をしました。これが、信仰の義を与えるということです。
 
もちろん、天国を約束されたのであって、地上の罰である死刑を免れるわけではありません。
 
しかし、無実のキリストが同伴するというのです。ゆえに、最大の幸いであり救いなのです。
 
ここは、私たちへの教えでもあります。私たちは、この犯罪人を、どう思うでしょう。
 
十字架につけれられる前、犯罪人を見たとき、私たちは、この人は悔い改めて天国へ行くだろうと思うでしょうか。否であります。
 
どういう罪で十字架での死刑になるのか書いてないようですが、殺人か、神への冒涜か、相当な罪で捕らえられ、死刑になるのです。私たちは、地獄に落ちる奴と思うでしょう。
 
しかし、私たちには見抜けなくても、この犯罪人は、キリストの前で、正直な悔い改めをする人だったのです。または、そういう状況では、そういう、正直で敬虔になれる人だったということです。私たちは、そこを見抜くことはできないでしょう。
 
これは、重要なメッセージなのです。
 
私たちは、この犯罪人の持っている敬虔を見抜くことが出来ない存在であるということです。
 
私たちは、神の善悪の基準と洞察力を持ち得ないということであり、
私たちは、人の心の中さえ見抜けるわけではない、ということの例なのです。
しかし、私たちは、このように不完全で罪深くても、判断し実行してゆくしかない存在なのです。
 
そして、福音として、どのような罪を犯しても、神の前に、悔い改めが正直であるなら、信仰の義を与えられ、救われるということです。
 
一方で、私たちの、善悪の基準や、善意や善行などは、当てにならないところがあり、少しも、救いの条件にも保証にもならないということです。
 
私たちは、ヨブのように、ちりと灰の中にいるようなものなのです。
救われるために、そこで悔い改めるしかない存在だということです。
 
私たちは、神と協力して、この地上を救おうなどという共同者のような偉い存在ではない。
救いは、神のわざであり、人のわざではありません。
 
 
聖書に巣食う愚か者たちは、地上で、すなわち、全知全能の神が見ておられる前で、完全になることを豪語し、あるいは、命も惜しまないと自慢し、あるいは、芝居がかった嘘の讃美言葉を繰り返し、あるいは、肯定も否定もしないことで逆に慢心していますが、そんなことをするよりも、まだ、神を信じられない心を正直に告白したほうが、よほどマシなのです。
 
キリストは、聖餐を施しましたが、救うのに、儀式には、こだわりませんでした。この聖句のように、誰からも見捨てられ、救われそうにない人にも、その人を見て、救いの手を差し伸べました。
 
キリストは、他の人々が異邦人や罪人として蔑んでいた人々を、むしろ、進んで救いました。
彼らには、誰よりも、救いが必要であることを、すでに、ご存知だったからです。
 
キリストは、正しさを私たちに求めてはおられません。情欲の聖句も、敵を愛する聖句も、それを守れば救われるという教えではありません。守れないことを承知の上で、救いのために、神の前での悔い改めの正直さだけを求めておられることが聖書には書かれています。つまり、人間の行為が救いの資格を得させるという考え方を批判しています。
 
異邦人や、異教徒や、無宗教の人に、それゆえに救わないというキリストではないことが、聖書には書かれています。信仰の知識よりも、キリストは、心を見ておられるからです。
 
聖書に巣食う愚か者たちは、神が全知全能ならば、なぜ悪が生まれるのか、などと、いちゃもんをつけてきます。神聖を、自分と同じ地平において、人を超える存在を恐れもせず、こうだから信じられない、こうならば信じられる、などと、条件を付けて疑う悪意の者が、讃美しても、教会に通っていても、聖書を読んでいても、自分で救いから離れてゆくことを、神は、キリストは、既に承知の上で、正直さ以外を何も求めず、総ての人に、救いの機会を用意しておられます。
 
神の全知全能は、良いことをしたから、ではなく、その心に、良きものがあるかどうかを、既に見て知っておられるのです。行為義認に見えるところは、言うけど行わない偽善を戒めているということでしょう。偽善者の行いは自己中心であり、偽善者の豪語は、嘘だからです。
 
救われた人々は、キリストが救い主であると、預言されたメシアであると、本当に分かっていたでしょうか。違うだろうと思います。彼らは、キリストに出会い、よくは分からないが、自分などよりは、いと高き御方だろうと感じていたのでしょう。その不十分な感じ方の上で救いを願う一人一人に、キリストは、命を捧げるほどの全身全霊をもって、答えたのであります。
 
キリスト信仰者であろうとなかろうと、いと高き存在だと思って拝むときには、どうか、ただ一つ、精いっぱいの正直さだけで、拝み、祈り、願ってください。異教だろうと、無宗教であろうと、救いを与える時に、キリストは、神は、ご自身の民ではないからと言って、その祈りを無視することはなさらないでしょう。
 
 
(2019年10月07日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html