ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

基督の歌+4

 
   基督の歌+4
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
死というものを、生きている間、人は決して実感できないし、分からない、ということがあり、それゆえ、一人の人生の終わりに際して、自他において、様々な思いのすれ違いが起きているだろうと思います。
 
信仰者において、そのすれ違いを乗り越えるのは、最終2行の、キリストの同伴であり、そのとき精いっぱいの正直さが、たとえ罪深くて嘆くことになっても、祈りに答えるキリストからの赦しと癒しとして与えられるものです。
 
キリストだけは、臨終の人に、最後まで、そして、御国まで、寄り添えるからです。
 
 
   衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
信仰者は、ときに気張って、ろくでもない言い張りをします。そこには、信仰を、キリストを愛するがゆえに、守ろうとする気持ちの、呆れるほどの、空回りもあり得ます。
 
言うに事欠いて、それでも意地で硬直して、さらに何か言おうとすること、また、逆に、ベタな教理と聖書の言葉を聞かされること、この両方の似たような経験があります。
 
聖句か教理を語ればいい、正しいのだからと、無遠慮になって、うまくいかなくて、あとは神に任せると言って、一仕事した気でいるのは、必要な努力と分別を欠いた高慢でしょう。
 
まだ元気な人の、元気な説教が、役に立たず、自らの思いも役に立たない時があるでしょう。
 
そして、衰弱している人にとって、その空回りは、かなり、迷惑となることがありえます。
 
若い時と、弱い時、また、年取った時で、具体的な比較は一般的には、なかなか困難ですが、信仰は、罪と、悔い改めと、立ち直りによって、成長します。それを拒否し否定するのは、偽善者かカルトです。彼らは、実に、一気に救われ、幸福になれるのですという気安さにしがみついているのです。
 
しかし、長い年月を生きてきた人間には、余計なものがこびりついていたりもしますし、避けられない金属疲労のようなものもあるだろうと思います。そこで、聖書の言葉だけを並べて、言い得たと思うような得意顔に出くわせば、・・相当に、うんざりするでしょう。
 
金属疲労は、長く生きてきた人間には必ずあるもので、共通なのです。しんみりしたいときに、深く沈んで、しみじみと考え込むときに、事情を知らない人の讃美や教理は、実に、うっとうしく、また、パリピ的な言葉の飾りは御免なのです。
 
そういうときに、説教をして、説得をして、励まそう、などと考えるより、
大切なことは、共感することに他なりません。
 
キリストは、頭ごなしに救いの教条を語ったりはしませんでした。それはパリサイ人の偽善の技でしたから。
 
キリストは、誰よりも、個人を事情と状況を、洞察し、共感できる御方です。
 
神でもキリストでもない私たちに出来るのは、人間らしい共感しかありません。
それが出来るようになるためには、弱く、衰えて、少しは、グレてさえいるような感じの人に対して、その人独自の経験に対する敬意を学ぶことかもしれません。
 
それは、結局、神の完全とは違うところの、人間の不完全という罪性の自覚に収束するしかないのです。不完全ゆえに全知ではないことを弁えるならば、自分の及ばない経験をしているであろう他者に、キリスト教用語を並べて済ませることは出来ないはずです。難しいと思ったら、難しいと言う勇気も必要になるでしょう。つまり、罪の告白と同様の、経験と共感と敬虔が必要になります。弱みを見せることも必要なときがあるでしょう。・・弱いのですから。
 
そういうことを弁え、努力して、説教でも説得でもなく、相手を知りたいという意欲で聞く姿勢、すなわち、傾聴することから始めることが、人から人への、慰めと激励の、信仰者らしいあり方だろうと思います。
 
※ 
何を言っても、聖書と、教理と、讃美言葉で、ごまかす人の中には、反キリストの偽善者もいますから、注意し警戒してください。実に、信仰とは真逆の妄想的な固定観念を持ちながら、聖書語や丁寧語を並べて信仰?を唱え、人を惑わすことを生き甲斐としている者がいるのが、私たちが生きている現実世界なのです。
 
 
(2019年10月14日)
 
 
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