ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教の思い込み

 
  アドラー教の思いこみ
 
   ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
https://www.adlersalon.com/entry/2019/03/31/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AF%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E2%9D%97%EF%B8%8F%E3%81%9D%E3%81%86%E6%80%9D%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%82%80%E3%81%A8%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AF%E4%B8%8A%E6%89%8B%E3%81%8F%E3%81%84
   2019-03-31  
  自分はできる❗️そう思い込むと人生は上手くいく❗️
  アドラー心理学サロンです。
 
 
アドラー教の、乱暴で強引なポジティブ思考、偏った意味づけの勧め、無責任で能天気な予測、学習できない無反省、などが明らかになってきています。
 

マハトマ・ガンジー氏はこう言いました。
「人間は、その人の思考の産物にすぎない。人は思っている通りになる」
これはまさにアドラーの観点からも言えることで、アドラーはこの世界には客観的に立証できる事実は存在せず、すべてはあなたの与える意味づけ次第であるとしています。

 
(ネットより:)
・人間は、その人の思考の産物にすぎない。人は思っている通りになる。
・私は「自分はできる」と確信を持ったときに、最初は自分がもっていなかった能力でさえ確実に手に入れるようになる。
・信念が変われば、思考も変わる。思考が変われば、言葉も変わる。言葉が変われば、行動も変わる。行動が変われば、習慣も変わる。習慣が変われば、人格も変わる。人格が変われば、運命も変わる。
・人間というものは信じた自分になることが多い。もし、自分にはそんなことはできないと思ってしまうと、それで本当にできなくなってしまう。しかし、もしできると信じたならば、たとえはじめはそのような能力がなかったとしても、それをなし遂げる力を得ることができるのです。
(名言ノート:マハトマ・ガンジー
https://meigennote.com/134#i-6
 
これは、むしろ、理想を成し遂げる力のことを言っているのでしょう。
自分の課題ではないというアドラー教の思考は、成し遂げるというより、気に入らないから無視するのだから、大きな理想を最後に成し遂げるという感じではないので、このガンジーの言葉は、アドラー教には、当てはまらないような気がします。
 

つまり、このアドラーの「意味づけ」の論理では、あなたという存在はあなたがどんな意味づけを与えるのかによって定義されているということになります。

 
つまり、ガンジーの言葉を、このようなアドラー教の意味付けに結び付けるのは、理路として、成り立たないような気がします。
 

どんな状況にあっても自己肯定感を失わずに、自分を信じて前向きな行動を起こせるセルフ・イメージを持つことは、幸福な人生を歩む為に非常に大切なのです。

 
どんなときにも、肯定、前向き、という、多くのスピリチュアルやカウンセリングのサイトが言っているようなことを言っています。
 
肯定は、否定を知ることで、見出され、前向きは、後ろ向きを知ることで、見出されることです。
つまり、否定的な状況で、気に病まない範囲で、考えることが、先に必要です。状況を受け止めることなく、やたら、自己肯定と前向きを勧めることは、自己中を勧めることになります。
 

思い込むだけで自信に満ち溢れた成功する人生の舵を切ることができるのなら、思い込んで自信を無くし、不幸な人生に進むくらいなら、良い方へ思い込まないと損ですよね(笑)

 
不幸を無視して、自身に満ち溢れよというのでしょうか。無理にかじを切ると、風と波に煽られ、沈没することもあるでしょう。「損ですよね(笑)」・・いかにも安い宣伝・・
 

自分のセルフ・イメージを高く保つことができれば、自己効力感という心理学用語で「自分にはできるんだ!」という肯定的な感覚を覚えることができます。
自己効力感があれば、どんなに酷い苦境にあなたが陥っていても、あなたは何度でもやり直せます。

 
(ネットより)
自己効力感(じここうりょくかん)またはセルフ・エフィカシー(self-efficacy)とは、自分がある状況において必要な行動をうまく遂行できると、自分の可能性を認知していること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%8A%B9%E5%8A%9B%E6%84%9F
 
難しい言い方をしていますが、「自分にはできるんだ!」と思い込め、と言っているわけです。
教えとして、陳腐な励ましで、しかも、場合によっては、無理なことを勧めていると思います。
 
アドラー教は、心を肯定的に強くすることを教えているようですが、いつも、できる、できる、と思い込む習癖は、思考の躁的状態を目指すことになり、一方で、反省力を奪ってゆく可能性があります。いつも、単方向に言葉が過ぎる体質のブログ主のようです。
 

どんなに最低な失敗をしても、何も学ぶところ、得られることが無いなんてありえないのです。
ささいな失敗であれ、重大な失敗であっても、ひとまずは「ラッキー!」や「自分はツイてる!」と小声でもいいのでつぶやき、思い込むようにしましょう。

 
失敗から学ぶには、失敗を自覚し、反省することが必要です。それを促すのに、いつも肯定的に思い込むことを勧めるのは、理路が錯綜しているような気がします。
 
>人には、認知的不協和という性質があると心理学では確認しております。<
 
(ネットより)
認知的不協和(にんちてきふきょうわ、英: cognitive dissonance)とは、人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている。
「煙草を吸う人が肺ガンになりやすいのは、煙草が肺ガンを誘引するのではない。ストレスを抱えている人がストレスを和らげるために煙草を吸うだけであり、ストレスが要因となって肺ガンを引き起こすだけで、煙草と肺ガンの間に因果関係はない。」
「煙草を吸うと肺ガンになりやすい」を変化させることで、認知的不協和状態を解消させようというものである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%9A%84%E4%B8%8D%E5%8D%94%E5%92%8C
 
不協和を解消するために態度や行動を変更するということのようです。
 
アドラー教のブログ主は、認知をゆがめて不協和を解消させることを勧めているようです。だから、ここでは、情報を利用しているだけで、肯定的に捉えているとは思えません。
 
アドラー教と呼ぶのは、こういうところなのですが、
学問は、命題を表すのであって、どうしなさいという命令を表しません。したがって、教える姿勢で語るならば、それは学問ではなく、学問を解釈した発言者、ここではブログ主の教えということになります。
 

これは自分の行動や言動と、自分の認知のつじつまを合わせようとする性質です。この心理学の認知的不協和という性質を理解して応用してしまえば、前向きな言葉を自分にかけることで無理矢理に自分の思考を前向きに軌道修正することができ、行動を前向きにすることができます。

 
つまり、無理矢理な軌道修正は、あくまで無理矢理なわけです。認知を、むしろ、ゆがめて、不協和を解消させる、つまり、認知のゆがみを正す認知療法の、逆を行くことを言っているようです。
 
どうも、ブログ主の語るアドラー心理学は、方向性に無理があるような気がして、あちこちで、言い過ぎで、修正というより、このままでは、不自然にゆがめてゆくような気がします。
 
むしろ、認知的不協和という術語は、
「人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている」と
書いてあるように、不協和を自覚して、そうではない方向に是正してゆくためにあるのではないのかと思われますが。
 

どんなに最悪な失敗を犯していたとしても、取り敢えずポジティブな言葉を自分にかけてしまいましょう。
こじつけ感があってもいいので後付けでポジティブな意味づけをアドラー流で与えてしまえば打開策を見つけられます。

 
とうとう、こじつけも正当化して、勧め始めました。無理矢理ポジティブという感じですが、無理をすれば、必ず、しわ寄せが来るでしょう。
 

失敗した時にネガティブな言葉を口にすると、どうしても認知的不協和の性質によって思考がネガティブになり、取れる行動も後ろ向きなものになってしまいます。
失敗をした時に「しまった…」と考えてネガティブなことを口に出してしまえば、前向きに打開策が考えつくことはありません。

 
むしろ逆ではないでしょうか。失敗したときに、自信たっぷりにポジティブなことばかり言う人を信頼できるでしょうか。状況把握が出来ていない人は、克服も立ち直りも、歪んだものになり、それを自分の課題として固着させれば、言い張るだけの妄想狂のような様相を示すかもしれません。
 

常に自分に対してポジティブな言葉をかけたり、自分の好きなものを近くに置いて、嫌いな人やものを遠ざけるだけであなたの自分自身に対する意味づけはポジティブなものに変わっていき、自己効力感を高めてどんなことが起きても切り抜けられるようになります。

 
ここに、かなり、はっきり表れていると思います。どんな忠告も、どんな失敗も、反省材料とせずに、まるで好きなものだけ近くに置いておくように、力んで笑顔を作って強張っているような、悔いることも修正することも忘れた能天気な独り善がりになりそうな気がしてきます。そういう人は、一般に、恐ろしく、傍迷惑です。
 

あなたが自由に与えることができる意味づけならば、アドラーの言う通り自分の好きなように付け替えて幸せな人生を歩みましょう!

 
今まで、無条件ポジティブを乱暴に言ってきて、「自由に与えることができる意味付け」とは何でしょう、そして、「自分の好きなように付け替えて」・・これで、いいものでしょうか、これこそ、無責任な自己中心の勧めでしょう。
 
 
約8年間批判してきた、シャロームという偽牧師がいて、傍迷惑のサンプルのような人で、何を言われても、強がって、言いがかり、言い逃れ、そして、批判に対しては、反論でも弁明でもなく、当てつけや嫌がらせを書いてくるだけです。しまいには、自分側の信者や支持者の数で優位を誇って罵ってきます。何を言っても無駄なのは、不都合を受け取らず、思考と感性が、ガチガチの訂正不能・成長不能に陥っているからです。言論の責任を取らずに、言いたい放題です。
 
約1年間批判してきた楽山というアドラー教宣伝者がいますが、とても、いい加減なで、都合の良いところ以外は無視して、文脈を読んでも全体の流れを把握できず、また、何ごとも心で受け取ることができず、一部の言葉だけを、薄く浅い理屈でいじっては、いちゃもんだけを書いてきます。心にかかわる大事なこと一切を、気に入らないものとして無視してきた結果だと思います。いちゃもんに反信仰も自尊過大も表れていますが、言論の責任を取らずに、曖昧な書き方でごまかしてきます。
 
この二人は、ひょっとして、アドラー教が基軸にあるのではないかとさえ思えてきます。
 
騙される人は、作為か正直か分からないまま、騙されてゆきます。表面的な遣り取りが多いネットですが、そこが、カルトの企みの温床になっているようです。
 
 
幸福へのアドバイスは、ネットでも受けているようですが、安易な短絡で出来ているなら、必ず、自他ともに、しわ寄せは来るのです。
 
言論の自由を行使するなら、言論の責任は必ず問われることになります。
 
一端に過ぎない短い豪語で、総てを語り得たつもりで、幸せになれると言うなら、もうとっくに、幸せは溢れているはずです。言葉は万能ではありません。人間ですから誤解や曲解を受けるのは常ではありますが、あまりに無責任な豪語が激しければ、揺り返しも激しくなるでしょう。
 
 
(2019年10月25日)
 
罵る(ののしる)
 
 
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