ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

カルトの偽装

 
  カルトの偽装
 
   『ウチの母が宗教にハマりまして。』藤野美奈子
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12541335960.html
   楽山日記(a)
 
 
私が、シャロームのコメントを批判している間に、楽山は、また、汚い真似を始めています。楽山自身が、カルトを宣伝しながら、宗教を嘲笑うようなことを書いておきながら、前には、仏様の心や霊的なことが分かるっぽいと言ったり、クリスチャン芝居をしたり、キリスト教に幼稚ないちゃもんを付けたりしていました。今回は、嫌らしい策を弄(ろう)した、危惧を逆手に取った印象操作です。
 
そして今回の記事は、つまるところ、カルトが、自己保身と正当化のために、カルトを説明し批判しているかのような記事を載せて、自分は違うと暗示する、という、またしても、だましのテクニックで、欺きを深くしている、ということなのです。それにしても、あざとい。
 

*まえおき
巷では宗教離れが進んでいるそうだけど、どうやらその流れは自分にも影響しているらしい。最近はどうもその手のことへの関心が薄れてきている。でも今回はひさびさに宗教関連の本を通読できたので感想を書いてみたい。

 
薄れてきているなら、書かないことです。恐らく、薄れてきているというのは、嘘です。久々に、ではなく、楽山の宗教に対する怨念のような執着は常軌を逸しているのです。
 

*本の中身
本書は、タイトルからカルト批判の本だと思って手に取ったのだけれども、いざ中身を見てみると、カルト絡みのエピソードもないではないが、全体的な立ち位置は、カルト批判というより、宗教への理解を深めようというものであって、宗教信者に同情的でさえあるようだ。
もうちょっと具体的なことを書くと、本書では、ヤバい宗教にハマってる人を退会させようとしたがダメだった話、新興宗教の二世信者の彼と結婚した女性が、熱心信者の義母と衝突して難渋する話、ミュージシャンがカルトにハマって人が変わってしまった話などが紹介されている。
著者の体験談では、母親が宗教にハマり、お墓や仏壇などに百万単位のお金を使ってしまい、父親ともめた話、母親の信仰は傍から見たら奇異なものではあるけれども、数十年に渡って、自分のことはわきに置いて、ひたすら家族の健康と幸福を祈り続けていることから、やがては父も、娘の自分も、その信仰を頭ごなしに否定することはできず、尊重するようになっていった話などである。

 
この個所だけ読むと、カルトに、嵌(はま)りやすい人の話ではないかとも思えます。
 

*カルト、マインド・コントロール
本書では、カルト、マインド・コントロールについても、分かりやすく説明してくれている。
まずカルトの定義については、人権侵害や違法行為の有無が基準だとしている。カルト教団とは、非常識、アブノーマルな団体というのではなく、「憲法に定められた基本的人権を守らない団体」であり、また「あなたの入りたい宗教団体が現代の法律に触れるようなことをしていないか 入信前も入信した後もそこんとこ見極めて下さいね」とのことである。この辺りは、藤倉善郎さんの書いていた基準と同じだ。

 
やはり、楽山は、カルト保身の意図があります。人権侵害や違法行為が表れた者がカルトで、そうでない者はカルトではないでしょうか。事件を起こす前のカルトはカルトではないでしょうか。
 
違います。事件以前に、逮捕することは出来ない、逮捕してはいけない、という法制度にになっているだけです。事前の逮捕はできないということであり、カルト即ち邪悪で有害な宗教でないことの根拠には全然なっていません。これをカルトの定義としてはいけないと思います。
 
カルト思想に毒されているために、考えることが出来ないか、する気のない楽山の、好都合な言説を拾ってきての同意は、保身のための作為であります。
 
行政および法制度は、宗教の本質に迫ることが出来ない性質上、事件が起こってからしか動けない、ということを表しているに過ぎないのです。
 
明らかに人格破壊に結び付くような思想や教えは、その邪悪さから狂信でありカルトなのです。私たちは、行政ではありません。カルトを甘く見ると、この記事の楽山のような者に、だまされて、カルトを、容認するだけでなく、育てることにもなりかねません。
 
ですから、カルトであるかどうかは、だましているか、人間と社会に対して、破壊的なことを教えているか、などで判断して、情報を広く伝えることは出来るのです。特に、既存の宗教内部に巣食うカルトについては、その宗教の信仰者が、重要な情報源となります。
 
楽山のアドラー教とシャロームの無罪信条は、信じ込めば、人格を破壊するということを、まさに、楽山とシャロームの、悪意の印象操作とゲーム的な人格破壊の企みは表しています。
 
物事の理非も、理路も、平気で無視してしまう楽山の残酷は作為であります。そのために、他者の発言を出して、お墨付きのように、どうだ、と言いたいわけです。
 
前にも書いたことなのです。楽山が無視しているだけなのです。はっきり社会悪だと判明する前の段階にあるのは、異常で有害な信条なら、やはりカルトなのです。
 
楽山は、それを理解しない、つまり、これで、楽山が、カルト寄りだということが分かるわけです。これで、明らかです。楽山は、身の毛の弥立つような邪悪さをここで見せているのです。
 

・カルトの定義をめぐるあれこれ|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note
マインド・コントロールについては、「「昔からのその人らしさ」を封印したあと新しい考えを信じ込ませ まるで教祖のロボットのようにしてしまう作業のことです」「本人はあたかも「目覚めた」ように感じ普通に生活できるので操られていると気付きませんし「自ら選んだ道だ」と信じてしまいます」としている。

 
楽山は、最悪になった例を挙げて、自分は違うから安心ですよ、という誘導をしたいだけです。
そう言い、企むときの、カルトの薄笑いは、正視に耐えないものだと想像します。
 
それだけでは、ありません。結論をはっきり言わず、やさしいうわべだけの言葉で、先ず、やさしいお人柄・・などと思わせることも、実際にあるということです。やさしいお人柄と思ったら、要注意です。それが、楽山だったら、一目散に逃げてください。
 
事件を起こさないと警察は動いてくれません。だからこそ、私たちは、事件以前の日常において、反社会性や、その根となり芽となる邪悪な教えに対して、注意・警戒を怠ってはいけないのです。そして、情報を共有して、批判するとともに、近づかないように警鐘を鳴らす必要があります。
 

本来の自分を失い、教団に操られているのに、そのことには気付かず、自分のことは自分で決めたと思い込まされるというのは、なんとも怖ろしいことである。これはあまりに怖すぎる。

 
共感を装う芝居です。その通りの印象操作をしているのが、楽山のボンヤリ言語です。そして、シャロームと組んで、平気で嘘を吐き、詭弁を唱え、批判に対して嫌がらせをしてきます。
 

*反省
カルトとは人権侵害や違法行為をする団体であって、傍から見ていくら奇妙、不気味であるからといって、カルトとはいわないというのは、頭ではわかっていても、感覚的にはなかなか受け入れにくいところはある。

 
楽山は、自らが、受け入れにくい、などと、共感めいたことを語って、みんなもそうだよね、という印象を刷り込みにかかっています。私が、こんなとき、感じるのは、後に、エヘヘ、が付いてきそうだということです。
 
楽山は、またしても、カルトという印象を薄めるための、印象操作をしています。それが、楽山の凶悪さを物語ることが分からないようです。独りで、その責任を負う覚悟なのでしょうか。しかし、カルトらしさが増強されて、表れています。
 

いくら人権侵害も違法行為もないといっても、新興宗教によくある奇妙、不気味、それから悪趣味さを目の当りにしたら、どうしたって「こりゃ、カルトじゃん」という感想を抱かないではいられない。

 
私は、楽山に、楽山の書く文章から、その奇妙、不気味さ、悪趣味を、直撃弾のように感じています。注意してください。カルトは、カルトを傍観している人であるかのような芝居をしています。
 

でも信者本人からしたら真面目に信じているのだろうし、それを即、カルト呼ばわりするというのは、ちと不人情ではあるかもしれない。

 
どこがでしょう。人格を破壊する信条なら、早めに、問いただし、脱けさせなければいけません。カルトに囚われるということは、人生を無駄にするにとどまらず、人格破壊によって、人間らしさを失うことなのです。そういうカルトの悲惨な結果は、楽山の狡猾で冷酷は策略と、シャロームの自己中超常妄想に、つまりカルト宣伝者本人たちにこそ、既に現れているのです。
 

だいち自分の視点から相手の信仰が奇妙、不気味、悪趣味に見えたなら、相手からもこちらの信仰は奇妙、不気味、悪趣味に見えているのだろうし、それならお互い様ではある。

 
楽山は、恐ろしいことを言っています。自分という存在の、人間としての弁えを失うと、こうなります。
 
カルトを奇妙だと見ることを、カルトが正常を奇妙だと見ることと、同質と見なし、お互いさまと言っているのです。社会共通の正しさの基準は常識・良識です。楽山は、相当に、脳と心を、やられている証拠でしょう。シンプルな常識的判断も出来なくなっています。
 

とすれば、やはりカルトか否かの判断は、個人的な宗教観ではなくて、人権や法律を規準とするのが公平ではあるだろう。自分はどうも個人的な宗教観で、カルトかどうかを決めてしまうところがあるので、ここは注意することにしよう。

 
その、恐ろしい見解から、楽山は、目に見える犯罪や、人権侵害が明らかにならないうちは、カルトではないという話にしています。こういう奴は、いつかぶっ飛ばされると思います。悲鳴です。
 
もう一度言います。事件を起こさないと警察は動いてくれません。だからこそ、私たちは、事件以前の日常において、反社会性や、その根となり芽となる邪悪な教えに対して、注意・警戒を怠ってはいけないのです。そして、情報を共有して、批判するとともに、近づかないように警鐘を鳴らす必要があります。
 
 
 
   『夜の哀しみ』三浦哲郎
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12541346438.html
   楽山日記(a)より抜粋。
 
 
サイコパスは、サイコパスと疑われ、その言い逃れの詭弁を弄することによっても、分かることがあります。その他の異常人格も同様です。
 
異常人格は、統合失調症などの精神病とは全く違うということを理解してほしいと思います。
 
精神病とされる統合失調症の人は、多く、とても正直です。
 
異常人格は最悪の嘘を吐きます。
 

*悪役とサイコパス
本作の登場人物の中には、サイコ的なものが二人いる。聖次と克夫だ。聖次は自分のために人を利用し、用済みになれば捨ててかえりみず、その事に良心の呵責を感じないらしい。克夫もこれと大同小異で、人の弱みに付け込み、それを最大限に利用しようとする。人を苦しめることに楽しみを感じてさえいそうだ。

 
上のような、人間の立場や幸福や安全などを考えない楽山やシャロームには、しばしば、人を利用し、聖書までも悪用し、良心の呵責を感じない、罪悪感の欠如、弱みにつけ込んで利用する、このように書かれている通りのことを感じてきたから、私は批判しています。
 
気をつけてください。楽山は、極端な例を挙げて、それがカルトだから、自分は違うの当たり前じゃないですか、というような印象を吹き込もうとしているのです。最も憎むべきは、このように狡猾なやり方で人心を惑わす輩です。楽山は、徹底して否定されるべきであります。
 

身から出た錆とはいえ、この二人に挟撃されている登世は、本当に気の毒だ。登世はこの二人に出会わなくとも結局は道をあやまったのかもしれないが、この二人と出会わなければ大過なく過ごせたかもしれないのだから、ここは同情しないではいられない。
小説に限らず、映画やドラマでも、悪役はサイコ的な特徴を持っていることが多いが、そういうものを見るたびに、「相手がサイコパスだと気付いたら、即、逃げろ!」という教訓は本当だなと思わないではいられない。

 
ですから、楽山とシャロームからは、一目散に逃げてください。そして、誰も近づくことのないように、祈っています。
 

現実のサイコパスは、小説や映画ほど分かりやすくはないだろうが、百人に一人はサイコパスだという調査もあるようだし、用心するに越したことはない。むやみに人に偏見を持ったり、差別したりするのはよくないことではあろうが、サイコパスの疑いがある人とは、距離をとるのが無難ではあるだろう。

 
白々しい嘘です。楽山が、サイコパスだとまでは、ずっと、可能性の段階でしたが、今回の記事の騙しの白々しさを読んで、今、ここで、改めて、楽山がサイコパス、少なくとも詭弁と嘘と印象操作で人を騙すことを喜びとするサディストのペテン師だと分かりました。逆方向に言葉をいじくって、逃れられると思っているのでしょうか。
 

本作は、性に翻弄され、道をあやまった女の物語とも読めるが、サイコパスに利用され、破滅させられた、無垢な女の物語とも読めるだろうし、その意味で不倫ものではなくて、サイコホラーと言えば言えそうでもある。不倫ものには興味ないという人でも、サイコパスの怖さを知りたい人には、一読の価値ありである。

 
楽山は、良心の欠片もないのでしょう。だから、こんな白々しい記事を、平気で書けるのです。サイコパスや異常人格の怖さは、早期に知る必要があります。騙されてからでは遅いのです。
 
サイコパス、サディスト、ナルシシスト、ペテン師、情性欠如者、人間離れ、神がかり、などに、カルト宣伝者は、自己中、訂正不能、自尊過大、などの点で共通しており、良心と人間の敵であり、人類と社会の敵です。犯罪以前には、早期に発見し特定し知ること以外に予防策はありません。
 
単にワルだということではなく、憑りつかれたような強張った硬い顔をしているわけでもないのです。
 
大事なことは、この人は罪悪感がなく平気で嘘を吐いて人を騙そうとしたり操ったりするから、おかしい、という理路と証拠と情報を敷衍することしかありませんし、それを、楽山が言うようにではなく、自発的に、冷静に、早期に始めることが大事なのです。
 
 
(2019年11月03日、同日一部修正)
 
敷衍(ふえん):広めること。
 
 
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