ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

流してくる

 
  流してくる
 
   自己肯定、自己受容、自己変革…
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12542303434.html
   楽山日記(a)
 
 
他者のサイトから引用して、子育ての話かな?と思っていると、結局、決めつけてはいけない、ということを言いたいようです。しかし、決めつけの権化は、楽山とシャロームであります。
 
楽山は、批判のことを決めつけだと言いたいのでしょう。私はこの記事については、楽山が、他者の引用や婉曲表現なら決めつけにならないかのような思い込みで、あるいは、策略で、ボンヤリ言語によって、先入観や印象を刷り込んできたのだと思います。
 
楽山は、
下心の陰謀によって、一般的なことのように、または、別のことのように、
やんわりと、ほのめかすように、いわば、決めつけを、流してくるのです
 
抵抗力を身につけないと、この根腐れの陰謀家の思うとおりになるでしょう。とても下等なやり方で卑しいと思います。近づかないのが一番です。
 
批判に対して、理路を正した正面からの反論も弁明もできない者ほど、相手を決めつけと決めつける以外に打つ手がなくなり、その根拠が示せないので、卑怯にも、別のテーマを装って、ほのめかすしかないのです。
 

*自己肯定
木地雅映子さんのツイートを見てたら、自己肯定感にとらわれることに注意喚起する記事が紹介されていた。

 
木地雅映子と書いてますが、リンク先に出てくるのは信田さよ子という名前です。説明しないのでしょうか。信田さよ子さんが木地雅映子さんを批判しているということでしょうか。
 

たしか、『嫌われる勇気』では、自己肯定は、自分にできないことについて、「自分はできる、必ずできる」と自己暗示をかけることで、これはある意味、自分に嘘をつくことだとして批判してた。それに対して、自己受容については、できない自分をありのままに受け入れた後で、どうしたらできるかを考え、行動することだから、よいことだとしてた。
この記事でいう「自己肯定感」というのは、このうち前者について語っているようでもあるが、後者について語っているようでもあり、どうも判然としないのではあるが、そのどちらにしても、必ずこうでなければならぬと一つことに固執している状態は窮屈だろうし、苦しいだろうな。
こうなるとまさに、「「閉じた世界」から脱出する」ことが必要になってくるわけだ。

 
引用元が、一つのことに固執している、と決めつけ、苦しいだろうな、という、余計なお世話で、また、決めつけています。まことに、楽山には、裏と表があります。どちらとも関わらないでください。
 
自分が、曖昧なボンヤリ言語で、ほのめかして、真実に反する印象操作を、気づきにくいように、流していることなど、お構いなしに、求められてもいない人の世話を、ネガティブに焼いているのです。
 
自己愛に自分勝手に満たされて、自己肯定感が訂正不能で、霊が分かるっぽい自己選択の上で、自己万能感による自己顕示と、自己受容感が過剰となって、自己責任を全く感じないで、自己の過失や誤謬を人のせいにして、ねちねちと人を罵って、かつ、何の洞察もなく、何の結論も導き出せないのが、楽山とシャロームであります。
 
楽山とシャロームの自己肯定は、自分は出来るではなく、ありのままでもなく、ただただ、既に、自分は出来ている、だと思います。だから、反省もなく、性懲りもなく、まともじゃないのに、まともを装い、平気で書き続けて、同じような知性と感性の破壊と腐敗を、繰り返し恥ずかしげもなく表してくるのでしょう。
 
そういう者が、嫌われる勇気でもって、何を言われても不感不応の自己正当化を、詭弁と刷り込みで通そうとしてくるのですから、傍迷惑~疫病的感染を撒き散らしながら、引きずりながら、近づく者を、いずれ、ずるずると同じように、だまし言葉で世をしのぎ、ですね口調で、または、ボンヤリ言語で、自己パンデミックの悪夢を見る者に変えてゆくのでしょう。
 

*自己変革
上記の記事中、この辺りは、自己変革について疑問を提示しているようだ。

(楽山が引用・始め)

「どのようなキャッチフレーズが登場したかを振り返ってみると、「自分を愛せなければ他人を愛せない」「あなたが自分を好きでなければ他人に愛されるわけがない」「自分を愛せるように」「自己肯定感を高めるための法則」「自己肯定感の低いあなたに足りないもの」などなどです。
共通点は、多様な説明や切り口があるにもかかわらず、最終的には自分で自分をどうにかできる、しなければならないという考えに帰着することです。
一見、自分は自分次第という希望を与えるように思えますが、最後は自分しかいないというどん詰まりの考え方ではないでしょうか。まさにこれこそが、自己選択・自己責任の罠なのです。」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128?page=4

(引用終わり)
 
引用されたところからは、有名らしい人が、言葉の曖昧なところを、なんとか主張としてまとめて、言い切ろうと努めている姿勢がうかがえます。
 
言葉は、絶対ではありません。話し手の言葉が与える心の動きが、聞き手の言葉となって出来る心の動きと、同一ではないのです。それで、人間は、いつも苦慮することになります。
 
ところが、全く苦慮というものを、最初から最後まで、しないのが、楽山です。だから、有名人だろうが何だろうが、自分の身勝手な目的で利用するのに、遠慮もしないし、何の罪悪感も良心の呵責も覚えないのでしょう。
 

自己変革にしろ、自己責任にしろ、一面の真理を有しているのはまちがいないのだろうけれども、上にも書いた通り、こうでなければならぬと強く思い込んでしまっている場合は面倒なことになりがちだ。
人にはそれぞれ個性があり、抱えてる事情もちがうし、さらにはたとえ同一人物でもタイミングということもあるものだ。その時々によって、その人にとって自己変革や自己責任が必要なときもあろうが、それとは反対にそんなものは要らないときがあるのは当然だ。自分を変えるべきときもあれば守るべきときもあり、自分でやるべきときもあれば他人を頼っていいときもあるみたいに。
でも、あまりに強く一つことに執着して、こうでなければならぬと思い込んでしまうと、この辺りの臨機応変さがなくなるから苦労することになる。

 
今までの経過から、自分を変えることの全くできない、ゆえに、変わろうともしない無反省の訂正不能の楽山が、自分を変えるべきときもある・・などと書いてくるのは、まことに、笑止であります。
 
また、他人に頼るのは、無条件賛同のお仲間たちだけで、特に、シャロームのような、もはや、人間とさえ思えないガチガチの訂正不能の権化たる舞い上がった妄想家だったりするわけです。
 
その楽山は、言葉に苦慮することの共感の代わりに、臨機応変という言葉だけによって、軽く済ませて、自分は臨機応変やってます大丈夫みたいな慢心に居るのです。慢心から物を言えば、慢心しか伝わらないことを知らないのでしょう。
 
だから、情の薄皮で共感を装ったつもりの楽山の言葉は、読む人に、苦痛と疲労を与えるだけか、何も与えないかの、どちらかになってくるのでしょう。楽山は、参考になるような意見を何一つ提示できたことのない人です。
 
だから、少しでも化けの皮がはがれたら、楽山やシャロームの言は、こんな奴に騙される人がいるんだろうか、と思うような、知恵の浅い言論であり、ごまかしだらけであり、どうしようもなく身勝手な自分を、正当化して売り込んでいるだけじゃないか、と言ってもいいような人物です。
 
気づいてしまえば、その程度なのです。大いに害になっても、何の参考にもならない人です。だから、嘘や、間違った印象や概念を、決めつけを、先入観みたいに心に貼りつけようと、ごまかし、ごまかし、流し込んでくるのです。
 

その意味で、この言葉はよく納得できる。
(楽山が引用・始め)
そもそも万人にあてはまる子育ての「正解」はない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128
(引用・終わり)

 
そして、結論に、何を持ってくるかといえば、
 

結局のところ、人生、教育、価値観、人生観など、人に関するものは、こうでなければならぬと一律に決めつけることはできず、人それぞれとしか言えないことがほとんどではなかろうか。ここは自分もうっかり忘れてしまうことがあるのではあるが、よくよく自戒したいと思う。

 
子育てから、人生、教育、価値観、人生観、つまり殆ど全部に広げて、楽山は、結局、一律に決めつけられない、人それぞれがほとんど、という、個別から、恐ろしく乱暴に、同じ安易な結論で、つまり、子育てというテーマから離れたところで、様々なテーマを、安易にひっくるめて、言い得たと悦に入っているのです。
 
結局、子育てのことではなく、この方向に、記事全体が方向づけされていたことを知ってください。これが、楽山の恣意なのです。
 
これが、楽山という反省と学習と成長を拒否した心の貧困からの物言い、それでも批評家気取りだけはやめられなくて、下種の勘繰りに至るしかなくて、安易に短絡することしか出来ない物言いなのです。「自戒したい」は、白々しいリップサービスまたはカムフラージュだと思います。
 
楽山は、反省する、という、正常な人が当たり前に努めていることが、一貫して、できない、または、しない人です。ゆえに、失敗を認めず、本当の柔和ではなく、言葉だけを軟らかくしたボンヤリ言語にして、出来たと満悦し、しまりのない文章を出してしまうのでしょう。
 
楽山は、決めつけの問題を正面から書けば、誰かを決めつけだと決めつけることになり、また、もともと、自分が決めつけで出来ていることを指摘されるのが目に見えているから、印象を流してゆく以外に、何も書けないのです。
 
ゆえに、楽山は、いつも自分が整っているつもりの位置から物を言います。その位置は、自分でこしらえた薄氷で、そこで溺れ、そこで凍り付き、そこで割れてゆくだけであるのに。
 
 
※ 
 
キリスト信仰においては、何ごとにつけ、出来ることをする、そのように努めることを旨とします。
 
ただし、その結果を総て神に任せるのだ、と言うのには語弊があります。シャロームのようにならないために、自分が行った結果は、自分が受け止めなくてはいけません。
 
しかし、信仰者は、受け止めることで生じる悲しみや辛さを、祈りによって神の前に正直に捧げて、赦しと癒しと導きを願う道があります。その道を信仰と呼んでいるのです。
 
 
(2019年11月07日)
 
 
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